グランがミュゼを最初に連れて行ったのは、城の中で最も高い場所にある時計塔だった。

「グラン、この時計、止まってるよ」

 外に面した大きな時計版を身を仰け反って見上げる。

「今はな。必要な時には、動く。それより、落ちるぞ」

 グランの手がミュゼの体を中に引き戻した。

「時計って、そういうものだっけ?」

 ミュゼは首を傾げた。

「私はお前の中の常識までは食っていないぞ。時計は本来、動き続けるものだ」
「知ってるよ。じゃぁ、どうして止まっているの?」

 グランがミュゼの髪を梳きながら答えた。

「この国に時計が必要ないからだ。必要になれば、勝手に動き出す。その時が来れば、ミュゼにもわかる」

 ミュゼはまた首を傾げる。

「わからないけど、わかった。グランは、私の髪に触れるのが好きだね」

 止まった時計の事情よりも、グランの癖の方が気になった。

「ミュゼの髪は柔らかくて、触れていると心地が良い。嫌なら、やめるが?」
「ううん。私もグランに触れられるのが、心地いいよ」

 グランの髪を梳く手が、止まった。

「……そうか」

 グランが顔を背けるように背を向ける。耳が赤くなっているように見えた。
 不思議に思っていると肩を引き寄せられた。グランと同じ方向に体が向く。
 
「ここからは、この国が一望のもとに眺められる」
「うわぁ……」

 思わず、感嘆した。
 長城壁に覆われた中には、たくさんの生き物が暮らしている。
 遠くには田園がいくつも広がり、城に近づくにつれ、民家が増えて街が出来上がっている。街中には市が並び、人か行き交い活気がある。
 この城は、小高い丘の上に建っているので、余計に良く見えた。

「色んな生き物がいるね。人と、妖怪かな? 精霊みたいなのもいる。亜人やエルフに、ドワーフも。まるで御伽噺の中みたい」

 珍しく胸が高鳴る。

「ミュゼは目が良いんだな。人間にそこまでの視力は無いと思っていたが」
「目じゃなくて、気で見てる。霊力? 妖力? よくわからないけど、そういうの」

 グランが、くすりと笑った。

「なるほど。ミュゼは強い魔法使いだから、目も良いんだな」
「それは、グランのお陰だよね? グランが魔力を分けてくれたから、強い魔法使いになれたんだよね」
「いいや、お前は元々霊力が強い人間だった。それは私が記憶を喰う前からの癖だろう」

 グランの表情が少しだけ曇った。
 ミュゼの中に言い知れぬ不安が過る。

(グランが暗い顔をすると、悲しい気持ちになる。何故だろう。拒絶されたわけでもないのに)

 拒絶、という言葉が浮かんで、胸が塞がる想いがした。 
 どうしてか、胸が苦しい。失くした記憶の中に、そんなことがあったのだろうか。

(私は、グランに拒絶されるのが、怖いのかな)

 グランがミュゼを少しだけ引き寄せる。優しい指が肩を撫でた。
 ミュゼの胸に安堵が降りる。
 グランの手の温もりが、不安を消してくれるようだった。

「見えた通り、ここにはたくさんの異形が住んでいる。皆、それぞれに、己が住んでいた場所を追われて、この国に辿り着いた。住み着いて何百年も経つ者も多い」
「場所を、追われて」

 繰り返すと、グランがミュゼを振り返った。
 ミュゼを見詰める瞳は、何かを言いたげにしている。
 けれど、何も言わぬまま、グランは街の景色に目を戻した。

「この国の周辺には不定期にゲートが発生する。ジルがいうには、自然発生しやすい場所なんだそうだ」
「ゲート?」

 ミュゼの疑問に、グランが頷く。
 先ほどからグランは、ゆっくりと話をしている。言葉を選んで話しているように感じる。

「こことは別の世界に繋がる門のことだ。その門を通って、色々な異形がこの国に辿り着く。そういう者たちは、最終的にここに住み着く」
「私も、その、ゲートを通って、ここに来たの?」

 ミュゼは異世界から来た人間だと、グランが教えてくれた。
 こことは全く異なる次元の世界から来たのだと。

「そうだ。この場所は、色々な呼ばれ方をする。異界、魔界、幽世《かくりよ》、冥府、地獄、天国、桃源郷、極楽、エデン、ヘル。色々あり過ぎて総ては把握していないが。人間にとって、この国は現実ではないんだろう」

 何となく、話をはぐらかされた気がした。

(もしかしてグランは、私の昔の話をしたくないのかな。昔の私が、好きじゃないのかな)

 だとしたら、きっと触れないほうが良いのだろうと思った。
 自分が失くした記憶はグランの中にある。
 そのグランが話したくないのなら、あまり良い記憶ではないのだろう。

(昔の私がどんな人間だったのか、全然わからないけど、グランはどう思っているんだろう。嫌われて、ないかな)

 突然、グランがミュゼを覗き込んだ。

「ミュゼ? どうした? 気分が悪いか? それなら部屋に戻って……」
「平気、平気だから、もっとこの国のこと、教えて」

 歩き出そうとしたグランを咄嗟に留める。 

(グランが色々教えてくれているのに、自分のことばっかり考えてる)

 自分勝手な思考が嫌になる。
 グランがまた、ミュゼの髪を梳いた。

「言いたいことがあったら、遠慮なく言え。聞きたいことは、何でも聞け。出来る範囲で、答えるから」
「私の、グランに食べてもらった記憶……」
「それは教えられない」

 思わず口走ったミュゼの言葉を最後まで聞きことなく、グランが遮った。
 あまりにもきっぱりと言い切られたので、ミュゼは何も言えなくなった。
 いつもより冷たい声に、身を強張らせる。

「いや、すまない。きつい言い方をした。他意はない」

 グランの腕がミュゼの肩を抱く。戸惑う手に引き寄せられて、ふわりと抱き締められた。

「教えてしまっては、記憶を喰った意味がない。お前には、過去に囚われず自由に生きてほしい。前を向いて、これからを生きてほしいと思っている。だから、その」

 グランを見上げる。
 懸命に言葉を探して狼狽えた顔をしている。ミュゼが知らないグランの顔だ。

(すごくすごく、気を遣ってくれている。昔の私がどうでも、今の私の、ミュゼのことは、きっと大事に想ってくれているんだ)

 過去の自分には未練など微塵もない。ただ、グランにどう思われているかだけが、知りたかった。

(でもそれも、どうでもいいや。今の私(ミュゼ)が嫌われていないなら、もうどうでもいい)

 ミュゼは顔を上げた。

「この国の名前を教えて。呼び名が色々あっても、本当の国名があるんでしょう?」

 ミュゼを見下ろしたグランが、顔を朱に染めた。
 柔らかい手つきで抱き締めていた体を離すと、また横に並んだ。

「アルカディア・テラス。この世界には他にも多くの国が存在する。外交用に、統一した名を用意せねばならない。だから、名付けた」

 心なしか、グランの話し方がカクカクして聞こえる。

「素敵な響きだね。グランがどんな国を造りたいのか、伝わってくる」

 グランがミュゼをちらりと覗くと、すぐに目を逸らした。
 不思議に思いながら、グランを覗き込む。
 困ったように片手で顔を隠したグランが、ミュゼの額に口付けた。
 突然の行為に、ドキリと胸が跳ねた。

「お前の笑顔を見たいと言ったが、思った以上に……」

 グランの声がどんどん小さくなって、上手く聞き取れない。
 どうやら自分は笑っていたらしい。

「私、笑ってた?」

 自分の頬を摘まんで、引っ張ってみる。
 その手を止めて、グランの手がミュゼを引き寄せた。
 先ほどよりも強く抱き締められて、鼓動が早く鳴る。

「思った以上に可愛らしくて、抱き締めてキスしたくなった」

 はっきりと言い切られて、顔が熱くなる。

「なんでグランは、そんなに私のこと、す、好きでいてくれるの?」

 まだ出会って数日だと聞いている。話した時間も回数も、恋をするにはあまりにも足りない。
 ミュゼの顔をグランの手が包み込んだ。

「私の中にはお前の記憶がある。お前が人として生きてきた軌跡がある。愛するには、充分だ。ミュゼを、もっと愛したくなる」

 グランの顔が近付く。
 キスされるのだと思い、咄嗟に身構えた。
 グランの顔が、唇に触れる直前で止まった。

「だが、お前の気持ちは定まっていないだろう。だから、こういう行為はしないつもりだった。これからは、自重しよう。だが」

 唇を離して、グランの顔がミュゼの肩に埋まった。

「抱き締めるくらいは、してもいいか?」

 背が高いグランに抱き締められると、ミュゼの体に覆いかぶさるような体勢になる。
 強く体を締め付けるグランの腕の力が心地よい。

(これが恋心か、わからないけど、グランに嫌われるのが怖い私は、きっとグランを快く思ってはいるんだよね)

 グランの背に腕を回す。
 気持ちを返すように、ミュゼは回した腕に力を込めた。

(ちゃんと考えて、ちゃんと答えを出さなきゃ、失礼だよね)

「グランに抱き締めてもらえるの、嬉しいよ。だから時々、抱き締めてほしい」

 グランの腕の力が強くなった。

「そうか」

 呟いた声が吐息と混ざって、耳に掛かる。
 その熱が、とても気持ち良い。

(もっともっと、グランが欲しい。グランを知りたい)

 ミュゼの目に、違う景色が映った。
 街とは反対側の真後ろ、と言ってよいのかわからないが、そこには何もない。
 ただ暗い混沌が広がているように見えた。

「グラン、国の反対側、こっち側は、何?」

 グランが顔を上げる。

「あれは、何でもない。何もない場所だ。この国は世界の果てだから、この先には、何もない」
「世界の果て。何もない場所」

 グランの言葉を反芻する。
 よくわからない怖さがじんわりと、ミュゼの心に広がった。