香りに恋して

5歳年下のあなたと出会ったのは、ちょっとだけ心がすり減った日だった。

その日、職場で理不尽なことを言われて、笑ってやり過ごしたけど、内心はぐちゃぐちゃで。
言い返せなかった自分にイライラして、ぐったりしていた。

こんな日は、自分の好きなものに頼りたくなる。
久しぶりにお気に入りの香水をひと吹きして、少しでも自分を取り戻そうと外に出た。

大型ショッピングモールの外側を歩いて、信号待ちで止まったときのことだった。
隣に立った男性の声がふいに飛び込んできた。

「すいません……いきなり」

振り返ると、そこにいたのは20代半ばくらいの男の子。
まぶしくて、思わず目を細めた。背が高くて、すらっとしているのに、どこか柔らかさがある。
少し長めの黒髪は無造作で、艶やかな長い睫毛と吸い込まれそうな大きな瞳が印象的だった。
低いけど透き通っていて、色気を含んだその声に、心がざわつく。

「いきなり声かけてほんまごめんなさい。変な意味ちゃうんすけど、めっちゃええ匂いやなって思って……香水、なんて名前か教えてもらえませんか?」

敬語と関西弁が混ざる話し方は、その年齢ならではの柔らかさを感じさせる。

戸惑いながらも香水の名前を教えると、彼は目を丸くして、
一瞬でぱっと笑顔になった。

「うわ、めっちゃうれし……ありがとうございます!」

ぺこっと頭を下げて小走りに去っていく姿を見て、思わず笑みがこぼれた。
ただそれだけのことなのに、あの笑顔が頭から離れなかった。
心がふわっと救い上げられたようで、幸せな気持ちで家に帰った。



数日後、またモールに立ち寄った日。
エレベーターを待っているとき、あの香りがふわっと背後を通り過ぎた。

私がまとっている香水と同じはずなのに、なんだか少し違う。
柔らかくて、甘くて、ドキッとする香り。

思わず振り返ると彼がいて、白いTシャツにスラックスというシンプルな装いがよく似合っていた。

「お姉さん!覚えてます? この前香水聞いた……あの僕です」

「うん、覚えてるよ。あのあと、買ったの?」

「はい。すぐ買いました。今日も、つけてます」

そう言った彼は、ふっと笑って、
Tシャツの首元に指をかけて少しだけずらし、私の鼻先に身体を近づける。

「……わかります?」

長い脚で一息で近くに来た彼と、顔の距離が近くなって――一瞬、息を呑んだ。

香りが鼻先にふわりと漂い、耳元に、低くて透き通るような声が届く。
私がまとったときよりも、少し甘くて、柔らかくて、ちょっとだけ色気を含んでいて――
“同じ香り”なのに、ちゃんと彼の匂いになってる。

「……お姉さんの香りと、ちゃう気しません? 同じのやのに、不思議やな」

その香りと声が混ざり合って、視界が大きく揺れるような目眩がした。
心臓が激しく打つのを感じながら、思わず視線をそらした。

「……そう、ね……」

けど、そんな風に近づかれたら――
香りどころじゃないって、わかってるの?

彼は、何かに気づいてるような、気づいてないような、
絶妙な顔でまたふわっと笑って、一歩後ろにひいた。

「今日、また会えたらええなって……思って来てみたんです。……もしよかったら、ちょっとだけ一緒に歩きませんか?」

伏し目がちに、それでもまっすぐな響き。
差し出された手の指先には、さりげない男らしさが滲んでいて――

年下だってことなんて、すぐに霞んでしまいそうだった。

「……少しだけなら」

そう返したとたん、彼は嬉しそうに笑って、
「やった……!」と小さくガッツポーズ。
照れ隠しのように口元をかいたその仕草に、思わず笑ってしまう――

そんな彼のことを、私は今、隣で見上げている。

風が肌を撫でると同時に、彼の纏う香水がふわりと鼻孔をくすぐる。
透明感のある甘さに、ほんのりスパイスのような刺激が混ざっていて、心の奥をじんわりと温める。
彼の息遣いと溶け合うその香りは、まるで言葉にならない誘いのように響いた。
――あの日、あの声と一緒に胸をざわつかせた匂い。

静かな呼吸とともに、一歩一歩、彼の横顔と香りを感じながら、ふと思う。
同じ香りなのに、今は彼を思い出させてくれることが、こんなにも愛しくて誇らしい……なんて。