名刺をしまいそびれたまま、自販機の前まで来ていた。ついでにアイスコーヒーを買う。
缶を手に取ると、指先にひやりと冷たさが染みた。ひと口飲むと、喉の奥まですっと涼しさが落ちていく。
持ったままの名刺の角が、指にちくちく当たる。さっきからずっと、そこだけ残ってる。


──藤井香澄。

会ってるときより、会議室を出てからのほうが、その名前がじわじわ効いてくる。
たいした出来事でもないのに、時間差で輪郭が浮いてくる感じ。

最初に会ったのは職場仲間や友人とたまに行く、 いつもの焼き鳥屋だった。

肘がぶつかって謝罪をしようと顔を見た時。

少し固まってしまった。

…すげえ美人。

単純にそう思ったからだ。

チョコレート色の髪の毛は綺麗に巻かれ、肌は目立つくらい白い。大きな瞳はアーモンド型でその上にかぶさる長いまつ毛。綺麗な鼻筋に、少し厚めの小さな唇。

鞄を拾ってやってキーホルダーを一緒にのぞき込んでる時の横顔は、どこか品があって、でもこちらがやさぐれさんと名付けた時の表情は少し抜けてる感じもあって。
そこのギャップがやたら目に残った。


たまたま隣になっただけの人間に、「なんか、目がいくな」と思うことなんて、そうそうない。

美人だから、というのも、まあゼロではないかもしれない。
でもそれだけなら、別に珍しくもない。

営業職を何年もやっていれば、綺麗な女なんて見飽きるほど見てきた。こっちもいちいち気を負わないし、気まぐれで向こうがこちらに好意を抱いてくれたもんならもちろん喜んでそれに応えたし、そのおかげか扱い方にも慣れている。

だから、理由はそこじゃない。

それなのに、あの夜は──
ふと気づくと、ひとりでグラスを傾けていた藤井香澄の横顔に、目が止まっていた。
少し寂しそうで、なぜか自分を見ているように見えて。

気づけば、目の端で追っていた。
いつも通りふざけながら、職場の仲間を笑わせているふりをしながら。

それでも。
やっぱり、外を出る頃にはもうすっかり彼女のことは忘れていた。

再会する今の今まで。

まさか会議室で彼女と再会するとは思わなかった。

スーツを着て、髪をしっかり結んで、真面目な顔をして。
愛想笑いを身につけ。

ちゃんとした社会人の顔。
あの夜とはまるで別人。

それでも、藤井香澄は変わらず綺麗だった。

「端整」って言葉が似合う。
言葉も感情も、たぶん簡単には出してこない。
でも、瞳の奥はちゃんとこちらを捉えている。

その感じが、少しだけ刺さった。
正確に言えば、刺さったまま、まだ抜けずにいる。

──でも、それ以上の感情は湧かなかった。

藤井香澄の印象はただそれだけ。
それ以上でもそれ以下でもない。

会議室を出て、資料の封筒を脇に抱えたまま廊下を歩いていると、スマホが短く震えた。

内ポケットから取り出しながら、
この時間帯に連絡をよこすのは
まあ。だいたい予想はついていた。

案の定、名前は「宮崎彩夏」

【ねえ ろくちゃん いま大丈夫?】

その文面を見た途端、胸の奥が、ざわつく。

返事を打つ前に、もう足が向きを変えていた。

返事はあとでいい。
会うかどうかなんて、考える余地もない。
好きだから、会いたいから行く。それだけだった。

なにかが変わるわけじゃないのに。
そう思っても、止められない自分がいる。


駅に向かう途中、信号待ちの間に短く返信する。

【さっき会議終わって今駅。どこいる?】

三秒もせずに既読がついて、すぐに返事がきた。

【駅前のドトール】
【飲み物頼んでもう飲んでるよ】

多分カフェモカ。ガムシロ多め。
彩夏はいつだって甘いものが好きで必ず頼む。

そんな細かいことまでわかってしまうくらい、
もう彼女が染み付いてしまっている。

スマホをしまって、足を速める。

ついさっきまで会議してたことも、
思わぬ再会をした藤井香澄のことも、
キーホルダーの「やさぐれさん」も、
全部、頭の向こう側に消えていった。

ああいう偶然も、まあ、あるだろう。
同じ街に生きてりゃ、知らないうちにどこかで交差することもある。
会議室のスーツ姿の藤井香澄も悪くなかったな、とか、そんなことを一瞬思ったけど─

そんなの、彩夏から連絡が来た瞬間に全部どうでもよくなる。

自分でも笑えるくらい、単純だと思う。

笑えないくらい、情けなくもあるけど。



駅前の喧騒が、ひとつひとつの輪郭をなくしていく夕方だった。

ドトールのガラス越しに見えた横顔は、思ったとおりに沈んでいた。

どうにもできないから、元気付けてやろうと思う。

なにも変わらないなら、せめて笑わせてやろうと思う。

一度咳払いして、いつものふざけた岡崎禄を呼び戻す。

近くまで歩み寄ると彩夏がこちらに気付く。
大きな瞳が少し潤んでいる。

…ほんと。

「…ほんとお前、いっつもいきなしだなぁ」

「ろくちゃあん…… すぐ来てくれた。ありがと。おつかれさま」

ふんわり可愛い笑顔が浮かび上がってきてやっぱりずるいなコイツと思う。

彩夏が持つカフェモカのグラスの水滴が、光をぼやかしていた。

なにを話したっていい。
またクソ男の話を永遠と聞かされようが、どうでもいい。

こうやって呼ばれて、そこに座っていることが
今の自分に残された、唯一の“つながり”だった。