香りが導くその先に

 それからしばらく沈黙が流れた。
 紗奈は涙を拭いながら、感情的になってしまったことを反省していた。

「紗奈ちゃん、『Sanuk』の意味、知ってる?」

 場の空気を変えるように、穏やかな口調で不意に琉生が尋ねる。

「え? ……はい。楽しいとか、楽しむって意味ですよね?」

 思わず顔を上げて答えると、琉生が嬉しそうに優しい笑みを浮かべた。

「さすがだ。調べてくれたんだね」

「はい。お店の名前なんで、気になって」

 琉生は頷くと、ふと視線を遠くに向けて言った。

「こっちで生活して思ったんだ。今でももちろん、いろんな意味でこの国には魅力を感じる。だけど、こっちで一生暮らす覚悟は、僕にはないみたいだ」

 紗奈は意味を理解できず、琉生の顔を覗き込むようにして問いかける。

「どういうことですか?」

 琉生は視線を泳がせながら、照れ隠しのように微笑んだ。

「それは……君に出会ってしまったから、かな」

 琉生の言葉が、ゆっくりと胸に染みていく。

「琉生さん……」

 ぎこちなく差し伸べられた琉生の手を、紗奈は両手で包み込むように握った。

「恋愛はしないって決めてたんだ。いずれ、こっちに住みたいって考えがあったから」

「そうだったんですか」

 紗奈は小さく頷きながら、夢を語っていたあの日の琉生の顔を思い浮かべた。

「でも、徐々に君に惹かれていく自分に気付いて、このままじゃ駄目だって思ったんだ。それで、予定を少し早めて発ったんだ」

 琉生がそっと目を伏せ、小さく息を吐いた。

「それは、夢を叶えるために、ですよね?」

「ああ、そうだね。でも……夢が叶ったはずなのに、全然楽しくないんだよ」

 不意に、琉生が表情を曇らせた。

「え?」

「君がいないと、心が満たされないんだ」

 その一言で、胸の奥がじんと熱を帯びた。

「日本に戻って、また店を始めようと思う。次の夢を叶えるために」

 予想外の展開に、驚きと嬉しさで言葉が出ない。

「君が嫌じゃなければ、店を再開したら、また前みたいに時々会いに来てほしいな」

 それは、琉生なりに選んで口にした言葉に違いない。けれども、今の紗奈が聞きたいのは、その言葉ではなかった。

「どうしてそんな意地悪な言い方するんですか?」

 思わず口にしていた。
 琉生の言葉は、いつも少し遠回りをして紗奈に届く。

「あ……いや、そんなつもりじゃないんだ」

 琉生が困ったように唇を噛む。その仕草が、紗奈の胸を甘く切なく締め付けた。

「私は、あなたに会いたい一心でここまで来たんです」

 それが、紗奈のすべてだった。
 琉生が一瞬目を見開き、そして小さく頷く。

「――君が好きなんだ。ずっとそばにいてほしい」

 その言葉に、紗奈の心が音を立てて震えた。

「私も、あなたが大好きです」

 口にした瞬間、不意に琉生が立ち上がり、紗奈を引き寄せた。
 肩にまわされた腕の力強さと、シャツから香るほのかなバニラの匂い。その胸元にそっと顔を埋めると、心が溶けていくのを感じた。そうして、新たに始まる二人の未来に胸を高鳴らせた。





【完】