扉を押すと、香ばしいコーヒーの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

「いらっしゃいませ」

 制服姿の店員が忙しそうに声をかける。

 正午を少し過ぎた店内は、オフィス街らしくスーツ姿のビジネスパーソンたちで賑わっていた。

 低く流れるジャズに、カトラリーの音や注文を通す声が溶け込み、店内には活気が満ちていた。
カウンターの奥では、短くタイマーが鳴り、厨房から湯気を立てたパスタが素早く運ばれていく。

 細長い空間に並ぶテーブル席はどこもほぼ埋まっていて、奥にある二人掛けの席がかろうじて空いていた。

 日葵の手を引きながら、宝瑠は案内されるテーブル席へ向かい、注文を通した。

 ガラス越しに射し込む春の陽光と、店内の忙しなさの対比が、妙に心地よかった。

 日葵と会社の前で話し込んでいたのは、ほんの十分程度だ。青波小学校との電話を最後に、久々津からは折り返しもなく、ただ時間だけがじりじりと過ぎていた。

 ちょうど昼休みに差しかかる時間帯だった。

 宝瑠は日葵に寄り添いながら、始終周りを気にしていた。

 会社のエントランス近くで子どもと一緒にいたら、たまたま通りかかった同僚や部下に、当然、不思議がられる。

 宝瑠としては、ただ幼い少女を保護しているだけにすぎないのだが、日葵は宝瑠を「ママ」と呼ぶ。

 会社の誰かにその声を聞かれたら、いらぬ誤解を生んでしまう。

 そう考えて、昼食を理由に店へ移動したのだった。