立て看板が、並木道にずらりと並ぶ。
色とりどりのそれらを眺めながら、生徒たちの会話もいつもより弾みだす。
体育祭と、文化祭に向けて。
校内の雰囲気が、否が応でもお祭り気分になってきた。
……そんな日に、事故が起きた。
演劇部の部長が、足を骨折した。
いまはその見舞いを終え、病室を出たところだ。
「風で倒れかけた立て看板が、一年生にぶつかりかけて……」
三藤先輩の重苦しい声が、ショックの度合いを物語る。
「それをかばってくれた……のよね……」
四人部屋の窓際で面会した際、その人は。
「いいってば〜。名誉の負傷でしょ? 気にしないで!」
極めて明るく、僕たちに告げてくれたのだけれど。
額面どおりに受けて、はいそうですかなんてとても思えない。
藤峰佳織と、高尾響子の両先生も同席して。
僕たち四人は、深々と部長の母親にも頭を下げた。
「折れたとはいえ、治りますわ」
小学生のときにも、市民劇団の稽古で一度舞台から落ちて骨折した。
今回はそれより軽いから、心配無用だと。
かえって、僕たちのことを気にかけてくださった。
「月子と海原君も、気にしすぎないようにしてね」
先生たち、ふたりもやさしかったけれど。
僕たちの心は、後悔でいっぱいだ。
「毎朝一番に来て、看板が固定されているかを確認するべきでした」
「そう提案しなかったわたしにも、責任があります」
「ダメダメ。そんなことをしていたら、ふたりの体が持たないでしょ!」
藤峰先生が、少し強い口調で僕たちをいさめてから。
「起こってしまったことを悔やんでいるよりも、もっと大切なことがあるわよ」
高尾先生が、包み込むような声で。
僕たちにもうひとつの現実に向かうようにと、告げてくれた。
個室の前で、三藤先輩と目が合う。
「ウチの子はいいんです、ただあの子のほうが……」
部長のお母さんがそう口にした、もうひとり。
そう、もうひとり。
僕たちが大切にケアしなければならない彼女に、会いにいかないと……。
もし、怪我が腕のひび『だけ』なら。
波野姫妃は、果たしてもう少しマシだと思っただろうか?
静かに開けた、扉から。
窓から外を眺めているそのうしろ姿がまず、目に入る。
「……海原君と、月子だよね?」
「先生たちも、いらっしゃるわ」
波野先輩の問いに、三藤先輩が答えてくれる。
「到着が遅くなりました、このたびは……」
こちらを向いた波野先輩のお母さんが、僕の言葉を静かにとめる。
「あなたが、海原君ね?」
「はい、はじめまして。そしてこのたびは……」
「謝罪は、不要よ」
「ですが……」
「海原君の責任では、ないでしょう?」
それから、先輩のお母さんは。
「それと、三藤さん。もちろん、あなたの責任でもないわよ」
そう告げると、一列に並んだ僕たちをゆっくり見てから、言葉をつなぐ。
「加えて、先生がたの責任でもありませんわ。もちろん、今後の安全対策に関しては少々。対策が必要かと存じますが」
「……とはいえ、申し訳ござ……」
「だから、謝らないで!」
波野先輩が、引き続き窓の外を見ながら。
やや大きな声で、僕をとめる。
「……謝られたら、ね」
先輩は、今度は心の中から絞り出すような声で。
「無駄なことをしちゃったみたいになるから、やめて欲しい……」
倒れかけた立て看板が、一年生の女子に直撃しかけて。
演劇部の部長が、かばおうとした。
そして、その部長を守ろうとして……。
波野先輩は、腕だけでなく。
……顔を、怪我してしまった。
ステージに立つのが、大好きな女の子が。
その顔に、怪我をした。
受けた衝撃の度合いは、本当のところ。僕にはとても、理解ができない。
とてつもなく大きくて、とてつもなく取り返しのつかないことだとは。
想像することは、できるけれど。
波野先輩の、心の傷の深さを。
僕なんかが理解できるといって、よいわけがないのだ。
「……少し、外しましょうか」
先輩のお母さんが声をかけて、先生たちと外に出ると告げる。
「……わたしも、出ておくわ」
三藤先輩が、僕よりも早くそういったけれど。
「月子は、ここにいていいよ」
波野先輩は、そう告げた。
僕たちのうしろで、扉の閉まる音がする。
ただ先輩はまだ、外を眺めたままだ。
「……あのね、神様って信じる?」
そのときの、波野先輩は。
まるで窓の外の、小鳥に質問しているようだった。
「傷は、深いらしんだけどね……」
そういわれて。三藤先輩も僕も、思わず顔を下に向けてしまう。
……ところが。
「おでこの上だから目立たないかも! だって!」
突然、明るい声がして。
波野姫妃は笑顔で、振り返って僕たちを見た。
前髪の、生え際あたりなので。
最終的には、まだわからないけれど。
髪を下ろせば、目立たずに済むかもしれないと医者に告げられたと。
波野先輩が、僕たちに教えてくれた。
「……でも、なんて呼ぶのか知らないですけど」
「えっ?」
「おでこを出した髪型で演技するのは……ウゲッ!」
途中までいいかけた僕の足を、三藤先輩が思いっきり踏みつける。
「革靴のかかとよ。痛くて当たり前でしょ」
先輩は、そういうと。
「ふたり分の気持ちを込めたので、痛くて当たり前よ」
なんだか、あきれ果てたという顔で僕を見る。
「ありがとう、月子」
波野先輩が、ほほえみながらそういうと。
「なんなら、あと三回くらいやったほうがいいかしら?」
み、三藤先輩が……。鬼になっている……。
「う〜ん」
波野先輩が、なんだか考える仕草をしてから。
「ま、鈍感なのなんて。まだ治らないでしょ!」
そういって、楽しそうな顔になり。
「まぁ、海原くんに限って。治らないわよね」
三藤先輩も、そう応じると。
おだやかな笑い声が、しばし病室の中でしばらくこだました。
それから一呼吸おいて、波野先輩が話し出す。
「ねぇ、海原君?」
「は、はい」
「一番聞きにくいことを口にしてくれて……。ありがとう」
「い、いえ……。そこまで深く……」
「考えていってないよね? それも知ってる。だから、ありがとうなの」
「へ?」
「だって、女の子の顔に傷とか聞いたら。普通、遠慮しちゃうでしょ?」
……窓の外の木に、小鳥がまた一羽やってくる。
もし、小鳥がいま話せたら。
僕は鳥にまで、あきれたわとでもいわれるのだろうか?
「……えっと、海原くん」
「はい」
「先生への伝言を思い出したので、ちょっと失礼するわね」
そういうと、三藤先輩は。
なぜか、僕を置いたまま。
病室から、静かに消えてしまった。
「ええっ……」
さすがに、声には出さないけれど。
波野先輩と、ふたりきりですか?
べ、別に前に一緒にお弁当を食べたことはあるけれど。
頭に包帯をぐるぐる巻いて、片腕もなんだか色々巻いていて。
あ、明らかに怪我人なんだけれど……。
だからこそ、そのパジャマみたいな服を着た先輩のところに。
ひとりで置いておかれるなんて、予想外だった。
ガラスの向こう側に、小鳥がさらに一羽増えている。
みなさん、日本語しゃべれません?
わからないけど、ヘブライ語でもなんでもいいから。
小鳥たちが会話に加わってくれたらなぁ……。
結局、しばしの沈黙を破ったのは波野先輩だった。
「……月子って、たまにやさしいよね〜」
い、イマイチ色々わからないけれど。
三藤先輩が、『たまに』やさしいのは事実だろう。
「海原君は、さぁ……」
そこで、先輩の声がとまるので。
その方角を見るしかないですよね。
えっと、波野先輩はベッドに腰掛けていて。
ヒビの入っていないほうの腕で、僕を手招きして。
近くにこいと合図している。
「……隣に、座って」
「え……?」
そのとき。僕を見る、波野先輩の目は明らかに。
な、なにかを訴えていた……。


