肌寒くなってきた夜空の下。
住んでいるアパートの目の前の道路で、いつも通り煙草をふかす。

「煙草止めた方がいいで」

そう言われて振り向くと、彼は狭い道の反対側、街灯の下で背筋を伸ばして立っていた。
両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、肩をがっちり固めて。
別に怒鳴るわけでもないのに、こういう時だけやたら姿勢がいい。

「なにその立ち方」
思わず笑いそうになったけど、視線を戻すと彼の顔は笑ってなかった。

「大人だしいいでしょ」
「大人でもアカンもんはアカンやろ」
いつもならヘラヘラ笑って流すくせに、今日は全然ふざけていない。

ゆっくり歩いてきて、私の正面でまたピタッと止まる。
真っ直ぐすぎる目で見られると、言い訳なんか何も思いつかない。

「なに怒ってんの」
「怒るわそら」
「なんで」
「お前が煙草吸うの嫌やからやん」

言い切った声が、夜の空気を割った。
冗談みたいな顔してない、目も逸らさない。
何度も笑いごとにしてくれたのに、今日は全部真っ直ぐだ。

私の指から煙草を抜き、地面に落として踏み消す。
ポケットからライターと煙草の箱を奪い、全部自分のポケットに入れた。
「返して」って言いかけたのを、彼が低い声で止めた。

「……俺おるやろ」
怒ってるくせに、声だけ少し弱いのがずるい。

肩が小さく揺れてる。
いつもなら笑いに変えてくれるくせに、今日は一歩も退かない。

「俺おるのに、なんでそっちに逃げんねん」
真っ直ぐすぎて、息が詰まる。

アスファルトの上で、彼の靴先がかすかに私のつま先に触れた。
笑ってごまかす余裕なんか、もうどこにも残ってなかった。

指先が震えてるのがわかって、バレたくなくて両手をポケットに隠した。
でも彼はもう一歩も引かない。
ずっと、私だけが逃げてる。

「別に逃げてなんか――」
「逃げとるやん」
かぶせるみたいに、低くて強い声。

言い返そうとして口を開けたのに、何も出てこなかった。
彼の肩がわずかに力んでるのが見える。
怒ってるのに、今にも泣きそうに見えた。

「俺、こんなん言いたないのに」
真っ直ぐに落とした声が、夜の空気に冷たく沈んでいく。
いつものふざけた笑いじゃない、ちゃんと怒ってる顔。

「煙草もそうやけどさ」
彼が一歩だけ近づいて、つま先が重なる。
私のポケットの中の手を見透かすみたいに視線を落とす。

「俺の前では、ちゃんとおれ」
強くない声で言うくせに、言葉だけは強い。

夜のアスファルトの上で、逃げ場はどこにもなくなった。
触れてこないのに、触れられてるみたいで、足の先から胸の奥まで熱くなった。

「……やめる」
小さく言った私を見て、彼は少しだけ目を細めた。
怒ってるくせに、結局すぐ笑みを浮かべそうになる。

「ほんまか?」
「……うん」
「しゃあないな」

やっと、彼の肩の力が抜けた。
大げさに息を吐いて、両手をまたポケットの奥に突っ込む。
そして、だらっと肩を落としていつものふざけた感じの姿勢に戻る。

おかしくて、思わず笑みがこぼれた。

それを見て、彼もやっと小さく笑った。
街灯の下で、ふっと肩の力が抜けるみたいに。

でも次の瞬間、彼がそっとポケットから手を出した。
そして、私のフードの端を指先でつまんだ。

「もう吸うなよ」
いつもの声より少し低い声が、フード越しに肩まで伝わってくる。

「……わかってる」
頷くと、彼の指が少しだけフードを引いた。
不意に顔が近づいて、髪をかき分けるみたいに額にそっと唇が触れた。

一瞬だけで離れたのに、触れたところが熱い。

彼はまたすぐ、何事もなかったように両手をポケットに戻し、体を軽く起こした。
でも頬だけ少し赤いのを、街灯の下でごまかせてなかった。

「……なにそれ」
思わず笑うと、彼は視線を逸らして、少しだけ肩をすくめた。

「お守りや。…煙草の代わり」
いつもみたいにふざけてるくせに、耳まで真っ赤だった。