朝のことを真次郎は、仕事中もずっと引きずっていた。
それを言葉にした瞬間、心の奥がずきりと痛んだから。
“……鬱陶しい”
そんな風に言うつもりは、なかった。
いや──言うつもりで、言ったんだ。
そうしないと、澪がこの世界に踏み込みすぎるから。
自分の隣に居場所なんかないと、あいつに悟らせるために。
それなのに、背中を向けた澪の足音が、妙に軽かった。はしゃいでたテンションが、急激に冷めたみたいに。
違和感だった。
あいつの足取りに、重さがなかった。
何かが、いつもと違う。
けど、自分が拒絶したんだ。今さら呼び止めてどうする。
──でも。
“行ってきます……それではまた、ジロ”
その言葉が、頭から離れない。
口調はいつも通りだったのに、声に張りがなかった。
まるで、自分の気持ちに蓋をして、笑って見せたような。
振り返ることもできず、じっとその場に立ち尽くしていた。
「……また、って……何言ってんだよ」
ぽつりとこぼした声が、銃弾を打ち込んだ人だったものの上で虚しく響いた。
“また”はないかもしれない。
そんなことすら、ふと思ってしまった自分が腹立たしかった。
──なんなんだよ、あの目。
なんで笑ってた。
なんで、俺が突き放したのに、あんな目で。
あいつの目が、何度も蘇る。
笑ってた。泣いてなかった。
だからこそ、余計に胸が潰れそうだった。
俺の言葉が、あいつを笑わせたわけじゃないのに。
自分の手で壊しておきながら、後悔で胸が焼ける。
ふざけんな。バカか俺は。
──守りたかっただけなのに。
今の言葉で、本当にあいつが、もう戻らなくなったら。
………
そんなわけ、あるか。
──あいつは、元気だ。きっとケロッとして帰ってくる。
そう、思おうとした。
仕事が終えて、屋敷着いたのは夜遅く。澪はもう帰っているはず。松野の夕飯も終わった頃か。
そう頭で考えながら、真次郎は屋敷内を歩く。
なんだか、屋敷内が騒がしい。ピリピリとした様子がよくわかる。
廊下で松野とすれ違う。目を見開いて、そして眉を下げた。
なんだ?何かあったのか?
真次郎が問いかけようとしたその前に、松野が口を開く。
その言葉を聞いて、真次郎は……目の前が真っ暗になった。
いつもの姿がそこにあると信じていた。
けど、その日の夜、澪は帰らなかった。
松野からの報告。時間が経つにつれ、胸の奥がざわつき始める。
無意味なのに廊下を歩いても、キッチンを覗いても、あの声が聞こえない。
もう、呼ぶことはない。けれど呼べば、いつも「はい」って返してくれてたのに。
「……っ、嘘だろ」
真次郎は奥歯を噛みしめた。
手すりを殴る拳に、痛みが走る。
今、あいつを守れるなら、全部投げ出してもいい。
あんな言葉、言うんじゃなかった。
なんで、なんで──
あのとき、ただ「おはよう」って言ってやれなかったんだ。
松野はその様子を、廊下の影から静かに見ていた。
叫んでも、殴っても、澪はまだ帰らない。
でも、帰る場所は、ここにある。ずっとある。
──だから。
松野は、もう一度だけ、灯りをつけた。
────
後悔ばかりが残る。
無意味なのに、やり直したいと願う。
時計の針は戻らない。
心は、進めはしない。
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