夜を導く光、それは赤い極道でした。




 名を呼べば、そこにいるはずだった。
 微笑みは、日常の証だった。

 けれどその温もりは、
 氷のような沈黙に呑まれる。

 ただ、胸の奥のざわめきだけが
 夜の深さを告げていた。

 ────
 

 教室の窓から差し込む陽が、じりじりと背中を焦がす。
 (みお)はノートを開いてはいたけれど、字はほとんど進んでいなかった。

「……ジロ、機嫌悪かったなあ」

 ぽつりとこぼした声は、誰にも届かない。
 今朝の会話が、澪の頭から離れなかった。いや、会話というほどのものですらなかった。

 ──鬱陶しい、って……言われたな

 少しずつ、胸が重くなる。
 でも、泣くほどのことでもない。澪は自分にそう言い聞かせながら、目元をこすった。

「……集中しよ……」

 気持ちを切り替えようと、ペンを握り直したところでチャイムが鳴る。タイミングというのはこうも悪いのかと思った──そのときだった。

「澪さん」

 ふいに名を呼ばれて、澪は顔を上げた。
 ドアのところに見知らぬ女性が立っていた。職員の名札をつけてはいるが、どこか様子がおかしい。

「あの、少しお話が……」

「え、はい……?」

 戸惑いつつも立ち上がると、女性はにっこりと笑った。綺麗な人だった。けれど、浮かべるその笑顔は作り物みたいで。

 ──千代子(ちよこ)ママの笑顔の方が、あったかいな。

 そんなことを失礼にも思っていると、女性は手を差し伸べてくる。

「こちらです」

 学校関係者か何かなのか?疑問に思いつつも誘導されるまま、澪は廊下に出た。

 

 瞬間、違和感が肌を這った。空気が重い。

 廊下の窓から差し込む光が、やけに白々しく見えた。
 時計の秒針の音もやけに大きく響く。

 授業が終わったばかりだからか、人気がない。足音が、鳴っていく。

 

「──こっちです、早く」

 歩調が早まる。

「えーと?あの、どこに……?」

 次の瞬間。
 背後から、何かが澪の口を塞いだ。

 

「ん……っ……!」
 

 細い身体が、ぐっと引き寄せられる。
 香水と血の匂い。
 手足がじたばたと暴れても、無駄だった。抵抗は、数秒で制された。

「静かに。叫ばれると困るんだよねぇ、僕らも」

 男の声が耳元に落ちた。

 ──だれ……なんで……なんでっ

 どこか遠くで、チャイムが鳴っていた。
 いつも通りの、授業の始まり。

 けれど澪には、もうそれを聞く余裕などなかった。

 視界が反転する。
 あたたかい陽差しの世界から、ぐいと引きずり出されて──
 暗い闇の中へと、澪の身体は連れ去られていった。


 ******

 いつもの時間、いつもの場所。
 夕方前。久我山(くがやま)は車の中で澪を待っていた。
 車のエンジンは切ってある。ラジオもつけていない。ただ、校門の方だけを見ていた。

 

 ──出てこない。

 下校時刻はとうに過ぎていた。
 生徒たちの笑い声や、教師たちの呼びかけが消え、それぞれが三々五々と門を出ていく。
 だが、澪の姿は、どこにもなかった。

 違和感は、最初からあった。
 今日は朝から、あいつが少し思い悩んだような顔をしていた。

 いつもペラペラと一人で勝手に喋る口は閉じていて、妙な静けさが車内にはあった。

 声はかけなかった。

 だがそれは、判断の誤りだった。

 インカムに手をかける。迎えのタイミングでは使わないはずのそれを、初めて使う。

信昭(のぶあき)さん、俺です。澪、校門に姿なし。時間は過ぎています。──確認に入ります」

 返答を待たず、車を降りた。
 門の前には、まだ数人の職員が残っていた。

「失礼、澪さんの担任は?」

 名を出した瞬間、二人の教員が顔を見合わせる。

「え、あの……あの子、今日はお昼過ぎに早退を……」

 頭がぐらつくような錯覚。
 自分の仕事は、何だった?

「それはどこへ?」

 声が一瞬だけ震えそうになって、奥歯を噛み締めて押し殺す。

「こ、小室(こむろ)先生に申請を出してました。急ぎで用事ができたから……って。あっ、でもその小室先生も既に帰られて……」

 早退?小室?

 ──そんな予定、こっちは知らされていねぇぞ。

 久我山の胸の奥に冷たい針が落ちる。
 さっきまでの陽気な空が、急に鈍色に染まったような気がした。

「今現在、澪さんの所在は不明ということでよろしいですね」

「……は、はい」

 言葉が震えていたのは、教員の声か、自分の声か。
 背後では、まだ教員たちがざわついている。
 だが久我山の足は、もう戻りの車へ向かっていた。

 ──これは、偶然じゃねぇ。

 鞄の中から、小さなメモ帳を取り出す。そこには、ある日、あいつが無邪気に弄んでいたアクセサリーのスケッチが残されている。

 金色のコイン。
 片面には、終わりを告げるようなΩの刻印。
 もう一方には──避けがたい運命を示す、「FATE」。
 
 あの日、それを首元からちらりと覗かせたあいつを、
 「護衛対象として」ではなく、「たった一人の少女」として見てしまった。

 ──報告はまだだ。
 組には、まだ伝えない。

 久我山は運転席に乗り込み、シートベルトを締めた。
 まず連絡する相手は──松野(まつの)だ。

 澪が帰るはずだった場所に、今夜もあたたかい食卓があるのなら。
 その男にだけは、先に知らせてやりたかった。


 ******

 包丁の音が、やさしくまな板を叩く。
 火の加減は、いつも通り。味噌汁の出汁も、炊き加減も、今日はもう身体が覚えていた。

 面影庵の屋敷、奥のキッチン。
 この時間になると厨房の灯りは一つだけになるが、それでも松野は、灯を絶やしたことがなかった。

 澪が帰るはずの時間に合わせて、夕餉の支度をする。
 それが習慣になったのは、いつからだっただろう。

 ──今日は、煮魚にした。
 澪がこの前、「焼きよりこっちのほうが好き」って言ってたから。

 そういう何気ない言葉を、
 この男は決して忘れない。

 そっと鍋の蓋を取る。湯気の向こうで、黄金色の汁が静かに揺れている。
 鼻をくすぐる出汁の香りに、ふと微笑みが浮かんだ。

 だが、その微笑みが残っていたのは、数秒だった。

 ポケットのスマホが震える。

 見るだけで、全身が凍る。

 【久我山】の文字。
 時間は……まだ、ほんの少し、早かった。

 「……うん、松野だよ。……どうかしたの?」

 通話口から、久我山の声が届いた瞬間、火を止めた。

 言葉は少なかった。いや、少なくて十分だった。
 松野は全てを、察してしまった。

 「……そっか。……わかった、ありがとう」

 静かに通話を切る。
 まるで、息を止めるように。

 鍋の湯気だけが、部屋に残った。

 松野は、食卓に並べかけた膳をひとつ、またひとつと元に戻す。
 箸を箸箱に仕舞い、湯呑を伏せる。
 澪の椅子を、少しだけ奥に引いたまま、動かさない。
 すべての動作が、ゆっくりすぎる。


 
 彼女は、帰ってこなかった。

 “澪はもう、戻れないよ”

 “俺が、戻さないからだよ”

 以前、彼女に伝えた言葉。守ることを失わないという意味で縛り付けた言葉。

 澪は気にしていないようだったが、松野自身はずっと気にしていた。こんな風に自由を奪えば、余計に外に飛び出すような子だから。

 まさか、それが本当になるなんて……
 
 でも、松野はまだ、帰ってくると信じている。

 それが、最も難しい祈りであることを知りながら……

 ただ──信じる者にできることは、
 “それでも待つ”ということだけだった。


 ────

 静かな教室に、影が忍び寄る。
 日常は、たった一歩で崩れ去る。
 温もりを知った席に、
 冷たい風だけが座っている。
 祈る者の手は、
 待つことしか許されない。
 



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