──ぴっ、ぴっ、ぴっ。
心電図の規則的な音が、静かな病室に響く。
ゆっくりと真次郎のまぶたが持ち上がる。
光の差す天井を、ぼんやりと見上げながら、意識を手繰り寄せた。呼吸を一つする。そのたび、肺が痛む。
白い天井。薬品の匂い。左腕に巻かれた包帯の締めつけ。痛む感覚に顔を歪める視界の端で、点滴の袋が揺れていた。
真次郎はしばらく、目だけを動かして天井を見つめたまま、動かなかった。
思い出すのは、血の匂い。仲間の叫び。
何も掴めなかった数日間の張り込みの末に訪れた、あまりにも手際の良い襲撃。
先見隊は一瞬で崩された──
今の自分の状況も夢か現実か、判断がつかなかった。けれど、痛みが教えてくれる。
──生きてる。
その事実に、安堵でも感謝でもなく、ただ乾いた実感だけが喉の奥に残った。
真次郎が身体をわずかに動かすと、ギシリとベッドが鳴った。すると、部屋の隅に置かれたソファが動き、小さく咳払いが聞こえる。
「……やっと起きた?」
低く、落ち着いた声。その人物は松野だった。ソファから立ち上がると真次郎のベッドのそばへ行き、顔を覗き込む。その表情は眉を下げて、ほっと安堵したような顔つきだった。
「……ここは?」
「うちの庵が抑えてる医療施設だよ。安心していい」
松野の返事に真次郎は薄く目を細める。口から出たのは、真っ先に浮かんだ名だった。
「……澪は」
松野の表情が一瞬だけ揺れた。
「無事だよ。いつもと同じ」
真次郎は息を吐いた。安心と、どこかに残る焦燥が混じる。
「……あいつに、知られてる?」
「うん。目の前で真次郎がボロボロのまま屋敷に連れてこられてたの、見てたからね」
「っ……情けねぇな」
「澪は本当に心配してたよ。だからここにも来たがってた。でも、久我ちゃんが止めた。“真次郎が一番嫌がるだろう”ってね」
真次郎は何も言えなかった。けれど、思い浮かべるのは、澪の表情だった。
「……俺、あいつのこと守れてないな」
松野は小さく首を横に振る。
「真次郎、伝えることがいくつかある」
そう言って松野が差し出したのは、一枚の資料。その内容に、真次郎の目が鋭くなる。
「……これ」
「真次郎たちを襲った連中の詳細情報。面影庵に匿名で届いた。タイミング的に、少し引っかかってはいるけど──龍臣さんや信昭さんが確認とってる。内容は正確だ。信頼に足る情報と見ていい」
「誰が流した?」
松野は難しい顔をして、真次郎の手元の資料に目をやる。
「それが、まだ分からない。ただ……久我ちゃんからひとつ、聞かされてることがあるんだ」
「……なに?」
「澪はこの前、一人で屋敷を抜け出して、ある“招待制の仮面パーティ”に行ってたらしい」
「は?」
「その夜、澪が何をしていたのか、誰も知らない。でも……」
松野は目を伏せ、苦笑した。
「澪って、こっちが想像もつかないところから飛び出してくるっていうかさ。きっと好奇心が抑えられなかったとかあるかもしれない。でも──今回は違う気がした」
真次郎の目が、静かに松野を捉える。
「……たぶん、真次郎のために、何か動いたんだと思う。ただの推測だけどね」
「……んだよ、それ」
「澪は眩しいくらい真っ直ぐなとこがあるから。……怖いくらいに、ね」
「頼んでねぇよ、そんなこと」
「真次郎」
「あいつが、危ない目に合うなら……意味ないじゃん」
かすれた声。怒りでも悲しみでもない。
ただ、深く、胸に沈み込むような言葉だった。
******
静まり返った病院の廊下。
久我山の足音だけが、ヒールのように乾いた響きを立てていた。その後ろを、澪は一歩ずつ、踏みしめるように歩く。
「この部屋だ」
久我山が立ち止まり、無機質なドアに視線をやる。その横で、澪の息が一つ止まった。
ようやくお見舞いに来ていい許可がおりた。そのことにうれしさと少しの不安が澪にはある。
……ここに、真次郎がいる。ほんの数日前。血に染まった姿で屋敷へ運ばれた彼の姿が、脳裏をかすめる。
震えそうになる手を、澪はギュッと握った。
「入るか?」
久我山の問いに、澪は頷いた。小さく、でも確かな意志で。
ドアが静かに開いた。
病室には、白い光が満ちていた。扉のすぐそばに松野がいて、澪と目が合うと穏やかな笑みを返す。
そのまま澪は、まっすぐ前を見る。
点滴のチューブが微かに揺れて──その視線が、澪に向けられた。
ベッドの上で、真次郎が起きていた。
「……ジロ……」
澪の足が、気づけば動いていた。
ベッドの傍にしゃがみ込むと、顔をぐっと近づけて覗き込む。
「……近い」
言葉に実感が追いつかない。目の前の存在が“本当に”真次郎なのか──どこか現実味がない。
「ジロ、本物ですか?アンドロイドとかではなくて?」
「はぁ?おまえ、何言ってんの?」
「いや、今時の科学は侮れません。AI搭載アンドロイドで、私へのサプライズ演出って可能性も……」
「んな面倒くせぇこと誰がすんだ、アホか」
いつもの調子。
呆れたような目つき、刺のないツッコミ。
それを受けて──澪の胸の中で、何かが“決壊”する。
「……本物、ですか? 本当に……生きて……」
今度は、問いじゃなかった。
祈りのような声。
やっと辿り着いた、ほんとうの気持ち。
「当たり前だ、ばぁーか」
あの声。
あの温度。
澪はそれを見て、聞いて──ようやく、実感する。
「ジロだ……」
「あ?」
「ほんものの、ジロだ……」
今、目の前にいるのは──、一番会いたかった相手。
「よかった……」
その一言が、喉の奥で震え、崩れる。
「本当によかったぁ……っ」
堰を切った涙が溢れ、澪は真次郎の手を握った。
確かに、温かい。この手が、生きていることを教えてくれる。
「泣くほどじゃねぇよ、アホ」
少し掠れた声。けれど、その口調は、変わらない“ジロ”だった。
だから、澪も泣き笑いで返す。
「ジロのアホには愛がありますね」
「はい、勘違い」
「照れなくてもいいんですよ?私、受け止めますから」
「照れてないから」
「ジロ、耳が赤いですよ」
「……嘘つけ」
「嘘です」
「……おまえなぁ、ほんっと……そういうとこだぞ……」
「え?なんです?“そういうとこ“が魅力的?」
「言ってろ、ばぁーか」
くだらない会話。どうでもいい冗談。
でも──この何気ないやり取りこそが、どれほど大事なものだったか。
「ジロ、あまり興奮しない方がいいですよ?怪我人なんですから」
「澪、もうおまえ黙れ」
時間を取り戻すように、言葉が音に乗せて溢れだす。
ふざけながらも、澪はもう一度、真次郎の手を撫でた。
そのぬくもりを、焼きつけるように。
ドアの外。
久我山と松野は小さく頷き合い、静かに、扉を閉じた。
小さな“カチリ”という音が、廊下に響いた。
その向こうでは、まだ澪の笑い声が、泣き声とまじっていた。
────
触れたその手に 言葉はいらなかった。
生きてる。 ただそれだけで
世界が、ようやく息をした。
next



