最上階のラウンジは、世界のどこにも属さない、異質な夜の箱庭だった。それはまるで、光のない星のようだった。
黒と金を基調にした異国風の天井、絹のように滑らかな絨毯、大理石の床に反射する人影。
ガラス張りの外壁から見える夜景。シャンデリアの光を受けて、会場の空気は熱を帯びているのに、どこか冷たく感じる。
仮面の男女が静かに交錯するフロア。全員が顔を隠し、名前ではなく存在感だけで己を語る世界。微笑みの裏で何が交わされているのか、澪にはわからなかった。
だが──空気が異常だということだけは、はっきりとわかる。
「……ねえ、澪ちゃん。笑って」
耳元で、倖が囁いた。
「ここでは“恐れ”は香水のようなもの。嗅がれたら終わりだよ」
澪は、ぎこちなく微笑む。けれどその仮面の奥の目だけは、揺れていた。
「さ、きみの役目は“そこにいる”こと。俺の横に立って、“パートナー”として振る舞う。それだけで十分」
「……わかりました」
「ただ隣にいるだけ」──それだけのはずなのに。
澪の五感は、皮膚の下から震えるように研ぎ澄まされていた。
誰が味方で、誰が敵で、倖が何をしようとしているのか──何一つ、明確ではない。
けれど。
ただ一つ確かなことがある。
──ここでは、「普通であること」が一番危険だ。
澪は、倖の腕に絡めていない方の手をきゅっと握りしめた。この中で、おそらく自分だけが目に見えるモノを何も持たずに乗り込んだ人間。
信じるのは、自分自身と──
「倖くん。私、倖くんを信じてます」
隣を一切見ずに、囁く。
澪は仮面の奥で目を細め、覚悟を静かに深めた。
倖の隣で、少女はゆっくりと“別の顔”を纏い始めていた。
そんな澪の存在に倖は、口元に弧を描いた。
「これはこれは、Mr.snake。調子はいかがかな?」
「ああ、ご主人。お会いできて光栄です。そうですねぇ、愉しくやらせてもらってますよ」
「Mr.snake!今日のあなたもとってもcoolね!」
「はい!お嬢様。あなたの麗しさに比べたら、私なんて霞んでしまいますよ」
「こないだの件は助かったよ。またよろしく頼むよMr.snake」
「いえいえ、とんでもございません。またご贔屓に」
蛇の仮面だからsnakeと呼ばれているのか、ニコニコと愛想良く振る舞う倖。その声の裏に、かすかに響く“熱のない鈴”のような冷たさ。
倖の隣で澪は彼が先程から何人もの人と話をするのを静かに見ていた。時には「素敵なパートナー」と声をかけられるものだから、微笑んでやり過ごす。
脳内のイメージは、千代子。彼女の菩薩のような笑みで、気分を悪くするものはいない。口元しか見えてない仮面でのその表情は、今の姿とも相まってさぞかし妖艶に映るだろう。
「澪ちゃん、ちょっとごめんね。御得意さんに会ってくるから」
「え?私、ここで1人で放置です?」
「だーいじょうぶ。少しの間だし、みんなステージに注目するから誰にも構われないよ」
「ステージ?何かパフォーマンスでも?」
「さぁ、今夜は何が起きるかな。きみの“運”が、試されるかもね」
倖は意味深な口ぶりで、澪の元から去っていく。1人取り残された澪は、おとなしく待つしかない。
離れた倖の姿は、もう人混みに紛れて目で追えない。今頃会場のどこかにいて、“あの目”になってるだろう。あの蛇のような、眼差しに。
本当にこのままパーティーが終われば、倖は願い通りに情報をくれるのか。それでこれ以上被害がでなければ……
澪は真次郎の姿を思い出す。痛々しい光景、そんなものはもう二度とごめんだ。
やるしかない。このまま倖を信じて……
やがて、会場の奥──燭台の並ぶ王座のような席に、一人の男が現れる。白の髪の毛と杖をついて歩く姿から年齢はかなりの高齢に思えた。
「Mr.BIGのお出ましです!皆様拍手を!」
一斉に湧き起こる拍手の音に、澪は目を丸くしつつもステージを眺めた。
Mr.BIG。司会者風な男にそう呼ばれた年老いた彼は、黒の三つ揃いスーツに、マットゴールドの仮面をつけていた。
その男が静かに片手を掲げると、 音が、息が、時間までもが沈黙した。
言葉ひとつないのに、空気が一変する。会場中の視線がそちらへ吸い寄せられた。
「──来い」
誰にでもなく、誰にも否定できない形で、彼は言った。静かに次々と前に出ていく人たち。
「“選ばれし者”にのみ、案内がくるのだろう」
周りの人達が唱える。密かに耳に入るその言葉の意味もよくわからない。
何が始まるのだろう?澪は怪訝そうにことの成り行きを見ていると、肩を叩かれる。振り向けば、スーツ姿の男性。もちろん仮面をつけている。
「こちらへ」
「え?あの」
「どうぞ、こちらへ」
有無を言わせないその言葉に、澪の足が自然とその方へ向かう。わけもわからないまま、前へ、前へ。
気づけば、澪はステージの上に。他にも呼ばれたであろう人たちが、Mr.BIGの前に横並びになっている。
金と黒の影が見下ろす位置に立たされて、BIGが言葉を発する。
「きみが持つものの中で、最も価値あるものは?」
その声は低く、重い。言葉に意味以上の圧力があった。
何事かと内心焦りながら、澪はチラリと目線だけ動かす。横並びの先頭。澪の真逆の位置にいる者をスタートに次々と答えていた。
「資産です」
「家の名です」
「美貌だわ」
「私には権力がある」
どれも嘘ではないのだろう。その人たちがもつ最大のカード。すごいな、としか澪は思わない。だがBIGは頷きもせず、その反応で皆下がっていく。ただ時間が流れていった。
このままだと、自分の答える番になってしまうと澪は必死に頭を巡らせた。ここにいる人たちは、いわば別世界の人々。そんな中で一般人の自分が、こんな大御所が納得するような価値あるモノなど持っているのか?
──私には……なにがある?
────
名を捨て
顔を捨て
手にしたのは
それでも足りない“資格”
試されるのは、言葉ではなく
重ねてきた生き様。
選ばれるのではない
“選ばされる”のだ、夜に。
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