翌朝。まだ微かな日の光が澪の部屋の窓から差し込む。布団からモゾモゾと這い出て、スマホを確認すると時刻は午前5時。まさに、日の出とともに起きるとはこのことかと澪は伸びをする。
目は冴えた。しかし、こんな早い時間はまだ動いているものは少ないだろう。屋敷内は静かである。
澪は考える。暇だなと。今日は高校も休みだから、一日中暇なのだと。何かしたい。
「……そうだ、散歩いこ」
その声を止めるものは、誰もいなかった。
******
澪はコソコソと音を立てないように屋敷内から出ていった。とりあえずスマホだけを身につけて。屋敷の門が閉まっていたら困るなと思いつつも、その横の小さな出入り口が開いていたので難なく外に出れた。
朝の静けさと澄んだ空気に、澪はなんともいえない気持ちになる。昨夜の濃さに改めて、生活が一変したことを今さらになって不思議に思えた。
軽い気持ちで入り込んだ倉庫。そこでの真次郎との出会い。あれよあれよと極道の屋敷に招かれての関わり合い。ドラマや小説とは違う現実の世界。
命を奪い合う、裏の世界の住人の存在を澪は身近に感じて……
けれど、関わった彼らがそんなに悪い人に思えないのも確かで。
まだまだ見えていない裏の顔があるのだろうなと、呑気に考えて街を歩く。早朝すぎて人気がないその道。コツコツと聞こえるのは、澪の足音。
それとは、別の者の足音。
澪が少し小走りなれば、同じように鳴るそれ。明らかにつけられている。これにはさすがに澪にも緊張が走る。
不安から思わず胸の前に手を持ってきた。
大丈夫。お化けでなければ。人間なら物理が効くはず。そう念じて澪は意を決して振り向く。
「っ……あれ?」
そこにいたのは、意外な人物。
「おはようございます、千代子さん」
澪の後をつけていたのは、千代子だった。
「どうされました?こんなに朝早くに。あ!お散歩ですか?」
安心から澪はいつもの調子で喋り出す。千代子は昨夜見た時と同じように、整った服装、化粧、完璧な姿で立っていた。黙ったまま、菩薩のような微笑みを浮かべて。
「あのー?私の声って聞こえてます?」
「ええ、聞こえてるわ」
「あ、よかったです。1人で喋っている変人になるところでしたので」
もともと変人なのだが、それをつっこむ者はいない。
「それで、千代子さんは何故ここに?」
「あなたが、外に出たから」
「ん?私の真似ですか?」
千代子はゆっくりと首を横に振る。否定なのに、笑みは絶やさない。
「あなたの面倒をみるように、頼まれたから」
“信昭さんに”
澪は聞き間違いかと思った。目を丸くして目の前の相手を見つめる。千代子は、何もおかしなことは言っていないという風に、ただただ微笑んでいた。
「えーと?それだけで?」
「ええ」
「こんな朝早くに?私の行動予測したました?」
「ずっと見張っていたから」
「見張る?」
「そうしないと、信昭さんのお願いを守れないから」
お願い、そう彼女は唱えた。それはとても愛おしそうに、大切なものを抱きしめるように。
“──俺、犬が好きなんだよね”
澪は信昭の言葉が頭を過ぎる。ただの世間話だと思っていた。彼の言ったことなど、全てたいした意味はないと。けれど気づく。あの言葉は、こういう意味で唱えていたのだと。
「千代子さんは、のぶ兄さんの犬なんですか?」
問いかけた瞬間の千代子の表情は、喜びに満ち溢れていた。
「ええ、私はあの人の言葉をすべて守りたいの」
「忠実な犬のように?」
「主人を守る立派な生き物よ」
千代子に悲観的なものは感じない。本心で思っているのだと澪には理解できた。わざわざ、ここまでするほどに。
「あの、千代子さん……」
「っ!」
「え?うわっ!」
澪が名を呼んだ途端、千代子は澪に駆け寄りその体を押す。瞬間耳に入った、破裂音。いきなりのことにされるがまま吹っ飛んだ澪は受け身もろくにとれずにアスファルトに体を強く打ちつけた。
「痛い……何するんですか……って、え?、え?」
澪は目の前の光景に唖然とする。千代子の右肩が赤く染まっていた。それは広がり、ポタッと灰色のアスファルトに染みを作る。
「え、なに、なにが?千代子さん?」
「っ……澪ちゃん、大丈夫?」
「私よりあなたでしょう?血が……」
「大丈夫よ、掠っただけ」
起き上がり、千代子へと駆け寄る澪は狼狽えた。平気と言うが怪我をしている。苦痛に歪むはずなのに、こんな時でも千代子の表情は変わらない。
「あなたに怪我がなくて、よかった、わ」
──菩薩のままだった。
澪は言葉に詰まる。ここが危険で、何かに狙われて、早く逃げなければいけない。それは、わかっている。いるけれど、足は動かない。
「澪ちゃん、いくわよ」
「でも、千代子さん怪我が」
「また次がくる。早く隠れましょう」
千代子は立ち上がり澪の手を取って走りだす。流れでる血はそのまま。痕跡を残すように刻まれる赤に澪の顔は歪む。
──パァンっ!
「わっ!」
「っ……こっち」
続く発泡音に震える足。千代子に導かれて細道に入った2人はドラム缶だらけの場所に身を隠す。座り込む2人。ハンカチで止血する千代子を見ながら澪は呟いた。
「あの、あれはピストルですよね?」
「そうね」
「なぜ?狙われてるんですか?」
「……きっと澪ちゃんが目的ね」
「私、ですか?」
「真次郎くんといた時に顔が割れてるんだもの。あなたを人質にとって有利に立とうとしてるのよ」
千代子の言葉に澪は目を丸くする。そんなにも、自分の立場は危ういものだったのかと。真次郎や組のみんなが心配しすぎているだけだとばかり思っていた。
真次郎の顔が浮かぶ。必死に連れ帰ってくれた彼の行動を無碍にする自分の浅はかな行動。そして、千代子までも巻き込んだ事実。
「千代子さん、その……すみません。私、わたしがっ」
「澪ちゃん」
謝罪を口にした澪に千代子は穏やかなまま。
「私が、あなたを守るわ」
──微笑みを浮かべた。
自分のせいで、こんな形になり。それなのに何もできない。罵倒も叱責もない。ただ、千代子は優しく澪を見つめる。
その視線の先には澪ではなく、信昭がいるのだとしても……。
守られている、その事実には変わらない。
澪は拳をぎゅっと、握る。
指先が白くなっていた。
────
守られるたびに
守られた痛みを
自分のものにしたくなる
指先が、震えていた。
きっとそれは、悔しさ。
next


