分厚い扉が、重々しい音を立てて閉じられた。
一瞬、空間の呼吸が止まる。
外の光を拒んだ執務室には、曇天のような灰色が滲み、沈黙が床に積もっていく。
龍臣の執務椅子の横には信昭が立ち、対面には久我山、松野、真次郎の三人が並ぶ。
空気の温度が下がるのがわかる。息をするだけで肺が冷えるような、張り詰めた沈黙。
それぞれが、怒り・焦り・疑念・理性・責任……異なる感情を胸に抱えたまま、口を開けずにいた。
声を出せば空気が割れる気がして、誰も息を深く吸えなかった。
時計の秒針すら聞こえそうな静寂——
最初に声を発したのは、龍臣だった。
「……確認しろ。間違いなく、攫われたのか」
低く、感情を押し殺した声。冷静を装うその声に、無理があるのは一目瞭然だった。
久我山が一歩前に出る。書類を手に、淡々と告げる。
「はい。学校内で連れ去られた可能性が高いです。争った痕跡、並びに目撃情報も一切ありません。……さらに、学校側には“早退した”という報告が残されていた」
全員が一瞬、視線を動かす。
「まるで、自分の意志で出ていったかのように。実際、確認が取れるまで時間がかかりました。……これは、発覚を遅らせるための工作と見て間違いありません」
「なんでだよ……なんで、澪が……」
真次郎がぽつりと声を漏らす。
拳を握りしめ、顔を伏せて、震えていた。
「アイツは、普通の生活の中にいたはずだろ……なんで……なんで、そこで……手の届かない場所でっ……」
声の温度が上がるごとに、空気の緊張も上がっていく。
けれど、信昭はその横顔に視線を一度だけ落とし、静かに眉間に皺を寄せた。
「攫った奴らの“目的”は、まだ不明だね。動機が金なら証拠が残る。警告なら、何かしらの連絡がある。……でも、今のところ、何もない」
「……無言で消すタイプの手口ですね」
松野が低く呟いた。腕を後ろに組んだまま、目は虚ろだ。
その奥には、怒気が静かに潜んでいた。
「わざわざ校舎内で澪を狙った。時間を稼ぎ、こちらの目をかわして……徹底してる。外でやらなかったのは、面影庵の監視を読まれていたということです。本当に、卑劣だ」
久我山が頷く。
「つまり、“あいつがどういう立場にあるか”を把握した上での犯行。偶発じゃない、明確な計画だ」
その言葉が、真次郎の限界を越えさせた。
普通に、当たり前の毎日を送らせたかった。
楽しそうに、笑っててほしかった。
傷つかずに、怖いものなんか見ないままで——いてほしかった。
「——あいつが、こうならないようにって……そうやって周り固めてきたのにっ……!全部、無駄じゃん……っ、俺は、なんの、ためにっ!」
自分でも制御できないほどの激情だった。
今朝のやり取りが、先ほどのことのように脳裏を掠める。突き放したのに笑って、“また”と紡いで。
それが、全て叶わなかったこの状況。
“行ってきます……それではまた、ジロ”
なんてことない、その一言すらもう……
「ふざけんなよ……くそっ!!」
「真次郎。落ち着け。“今”は攻める時じゃない。おまえが騒げば、情報が逃げる」
久我山が鋭く、低い声で制止する。
真次郎は額を押さえ、崩れそうな肩をなんとか支えながら黙り込んだ。
その隣で、松野が静かに目を閉じる。
「……澪は、“何でもない日常”が好きな子だった。ただ、笑って、夢見るようなことも言って。それを壊した奴は——」
声は穏やかなまま、だがその言葉には、氷の刃のような温度が宿っていた。
「許さない」
「——騒ぐな」
龍臣の一言で、部屋全体が沈黙した。
その声は威圧ではない。だが、抗えない“重さ”があった。
「今は、推測の時間じゃない。久我山」
「はい。“使える情報”はまだ整理中です。人海戦術をかけます。報告まで、もう少し」
「無闇に動けば、裏目に出る。……焦らないよ、真次郎」
信昭の言葉に、真次郎は再び肩を震わせた。
「……っ、動かないつもりかよ……?あいつが、今、何されてるか、わかんねぇのに……!」
「“動く”ために、まずは洗え。命令は、それからだ」
龍臣が短く、重く、言い切った。
それに全員が沈黙で応じる。
一人ずつ、執務室を後にする。
扉が開き、そしてまた重く閉じる音だけが部屋に残った。
廊下に出た真次郎は、無言で壁に寄りかかる。
肩で息をしながら、拳を握ったまま——
……ひとつ、深く息を吸う。
けれど、吐けなかった。
息が詰まったまま、胸の奥が焼けるように痛む。
ただ、祈ることさえ許されない気がした。
────
呼ぶ声は、もう届かない。
息を呑むたび、胸が軋む。
祈りの言葉すら凍りついて、
闇だけが、静かに時を刻む。
Fin



