“わたしだけが知っている”と思っていた世界に、
実はもうひとつの扉があることを知った日だった。
あの夜に出会った人たちは、わたしの“非日常”だった。
けれど三影 隼人は、今日から“日常の隙間”に姿を現し始めた。
その朝を境に、学園生活の空気がほんの少しだけ変わった。
静かに、しかし確実に――。
◆
数日後の放課後。
誰もいない温室の前で、ひとりの男の子がわたしを待っていた。
金髪にピアス。だけど、目元は子犬のように人懐こい。
その少年は、少しだけ背をかがめてわたしに笑いかけた。
「やっぱり、お姫様だったんだね!」
「……え?」
「俺、悠馬! 羽瀬 悠馬。れっきとした《轟焔》の幹部!」
そう言って笑う彼は、あの夜に見た“あたたかさ”そのままだった。
けれど、まさか学園内にいるとは思ってもいなかった。
「ここの温室、いい匂いでしょ? 俺、休み時間によく来てるんだ」
ガラス越しの光に照らされた彼の横顔は、まるで少年のまま時間が止まったように純粋だった。
「……どうして、わたしのこと“お姫様”って呼ぶの?」
「だってほんとにそうじゃん? でも……なんか、ちょっと寂しそうなお姫様だなって思った」
その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。
わたしのどこか奥深くを見透かされたような気がして、戸惑った。
「それに、あのときの焚き火のとこでさ、俺、ちょっと見てたんだ」
悠馬はくしゃっと笑いながら、手のひらを後頭部に当てた。
「総長がさ、おでこにキスしてたじゃん? あれ、あの人なりの“宣言”だよ。気に入ったってこと」
「気に入った……」
「そう。だけど――俺も、気になってた」
その声は思いのほかまっすぐで、嘘がなかった。
ふざけているふりをして、少しもふざけていない目をしていた。
「最初見たときは、うわ、なんか……冷たそうで遠そうな人だなって思ったけどさ」
「ひどい言い方ね」
「ごめんごめん! でも、実際に話してみたら……全然ちがった」
「……なにが?」
「こうして話すだけで、嬉しいと思える相手って、そう多くないよ。
たとえばさ、どんな高級な宝石よりも、お姫様の笑った顔のほうがずっとキラキラしてる」
思わず言葉を失った。
からかってるわけじゃないことは、わかる。
だけどそれでも、あまりにも不意打ちすぎた。
「ずるいよ、そんなこと言われたら……」
「うん。俺、ちょっとずるいよ。年下って、たぶんそれだけでちょっと損してるから」
悠馬はふっと笑って、花壇のすみに腰を下ろした。
温室のガラス越しに差し込む午後の日差しが、彼の横顔をやさしく照らしていた。
「……まだ、友達になれる?」
わたしの問いに、悠馬はにこっと笑った。
「ううん。友達“から”にして。ちゃんと、少しずつ進みたいから」
その言葉に、胸のどこかが、あたたかくなった。
この人は焦らない。無理に距離を詰めない。
けれど、確実に“わたし”に近づいてくる。
――じれったくて、でも心地いい。
「ね、梨桜ちゃん。俺、ずっと“味方”でいるから。
もし、つらくなったときとか、誰にも言えないことあったら……ここに来て。俺、いるから」
そう言って差し出された手は、
どこまでもあたたかくて、まっすぐだった。
わたしはそっと、その手を取った。
それが、ひとつの扉の音だったことに、気づくのはもう少し先のことだった。
◆
放課後、教室へ戻る廊下の途中。
静かな足音が、わたしの背中を追いかけた。
「羽瀬と、ずいぶん親しげだったな」
低く、くぐもった声。
振り返ると、そこには――
《轟焔》の幹部、志摩 蓮。
夜にしか生きていないような、ワイルドで獰猛な男。
鋭い目をわずかに細め、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「……監視でもしてたの?」
「いや? ただの“観察”だ」
蓮は近づき、わたしのすぐ横をすれ違いざまに囁いた。
「お前みたいな“綺麗な檻の鳥”が、どんなふうに鳴くのか――興味がある」
背筋がひやりとした。
けれど、それ以上に感じたのは――
この人もまた、わたしを見ているという事実だった。

