“わたしだけが知っている”と思っていた世界に、
 実はもうひとつの扉があることを知った日だった。

 

 あの夜に出会った人たちは、わたしの“非日常”だった。
 けれど三影 隼人は、今日から“日常の隙間”に姿を現し始めた。

 

 その朝を境に、学園生活の空気がほんの少しだけ変わった。
 静かに、しかし確実に――。

 



 

 数日後の放課後。
 誰もいない温室の前で、ひとりの男の子がわたしを待っていた。

 

 金髪にピアス。だけど、目元は子犬のように人懐こい。
 その少年は、少しだけ背をかがめてわたしに笑いかけた。

 

 「やっぱり、お姫様だったんだね!」

 

 「……え?」

 

 「俺、悠馬! 羽瀬 悠馬。れっきとした《轟焔》の幹部!」

 

 そう言って笑う彼は、あの夜に見た“あたたかさ”そのままだった。
 けれど、まさか学園内にいるとは思ってもいなかった。

 

 「ここの温室、いい匂いでしょ? 俺、休み時間によく来てるんだ」

 

 ガラス越しの光に照らされた彼の横顔は、まるで少年のまま時間が止まったように純粋だった。

 

 「……どうして、わたしのこと“お姫様”って呼ぶの?」

 

 「だってほんとにそうじゃん? でも……なんか、ちょっと寂しそうなお姫様だなって思った」

 

 その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。
 わたしのどこか奥深くを見透かされたような気がして、戸惑った。



 「それに、あのときの焚き火のとこでさ、俺、ちょっと見てたんだ」

 悠馬はくしゃっと笑いながら、手のひらを後頭部に当てた。

 「総長がさ、おでこにキスしてたじゃん? あれ、あの人なりの“宣言”だよ。気に入ったってこと」

 

 「気に入った……」

 

 「そう。だけど――俺も、気になってた」

 

 その声は思いのほかまっすぐで、嘘がなかった。
 ふざけているふりをして、少しもふざけていない目をしていた。

 

 「最初見たときは、うわ、なんか……冷たそうで遠そうな人だなって思ったけどさ」

 「ひどい言い方ね」

 「ごめんごめん! でも、実際に話してみたら……全然ちがった」

 

 「……なにが?」

 

 「こうして話すだけで、嬉しいと思える相手って、そう多くないよ。
 たとえばさ、どんな高級な宝石よりも、お姫様の笑った顔のほうがずっとキラキラしてる」

 

 思わず言葉を失った。
 からかってるわけじゃないことは、わかる。
 だけどそれでも、あまりにも不意打ちすぎた。

 

 「ずるいよ、そんなこと言われたら……」

 

 「うん。俺、ちょっとずるいよ。年下って、たぶんそれだけでちょっと損してるから」

 

 悠馬はふっと笑って、花壇のすみに腰を下ろした。
 温室のガラス越しに差し込む午後の日差しが、彼の横顔をやさしく照らしていた。

 

 「……まだ、友達になれる?」

 

 わたしの問いに、悠馬はにこっと笑った。

 

 「ううん。友達“から”にして。ちゃんと、少しずつ進みたいから」

 

 その言葉に、胸のどこかが、あたたかくなった。
 この人は焦らない。無理に距離を詰めない。
 けれど、確実に“わたし”に近づいてくる。

 

 ――じれったくて、でも心地いい。

 

 「ね、梨桜ちゃん。俺、ずっと“味方”でいるから。
 もし、つらくなったときとか、誰にも言えないことあったら……ここに来て。俺、いるから」

 

 そう言って差し出された手は、
 どこまでもあたたかくて、まっすぐだった。

 

 わたしはそっと、その手を取った。
 それが、ひとつの扉の音だったことに、気づくのはもう少し先のことだった。

 



 

 放課後、教室へ戻る廊下の途中。
 静かな足音が、わたしの背中を追いかけた。

 

 「羽瀬と、ずいぶん親しげだったな」

 

 低く、くぐもった声。
 振り返ると、そこには――

 

 《轟焔》の幹部、志摩 蓮。

 夜にしか生きていないような、ワイルドで獰猛な男。
 鋭い目をわずかに細め、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

 

 「……監視でもしてたの?」

 「いや? ただの“観察”だ」

 

 蓮は近づき、わたしのすぐ横をすれ違いざまに囁いた。

 

 「お前みたいな“綺麗な檻の鳥”が、どんなふうに鳴くのか――興味がある」

 

 背筋がひやりとした。
 けれど、それ以上に感じたのは――

 

 この人もまた、わたしを見ているという事実だった。