深夜。
 黒塗りの車がゆっくりと停まり、音もなくドアが開いた。

 

 「ここでいいのか?」
 副総長――朝比奈 凪の低い声が、夜の静けさに溶けていく。

 

 「……うん。ありがとう」

 

 玄関灯の届かない影に紛れるように、わたしは車から降りた。
 広い石畳の上に、ヒールの音がわずかに響く。

 

 「春日野家……想像以上だな」
 凪がポケットに手を突っ込みながら、屋敷を見上げてつぶやく。

 

 「バレたら、たぶん二度と外出できない」
 小さな声でそう言ったわたしに、凪は片眉を上げて、ふっと鼻で笑った。

 

 「じゃあ、俺が脱出させてやるよ。檻の外に」
 それは冗談とも本気ともつかない響きで、けれど胸の奥がじわりと熱くなった。

 

 「……またね」
 そう言って凪に背を向け、門をくぐろうとした、その瞬間だった。

 

 「――お嬢様?」

 

 低く張った声が、石畳に響いた。
 振り返ると、そこには白手袋をした執事・三宅が立っていた。
 月明かりが、彼の目元を静かに照らしている。

 

 「この時間に、外で、しかも……あのような車に?」

 「ちが……その、ちょっとだけ、風に当たってただけなの」

 

 凪はまだ車に寄りかかっていたが、その気配を察してすぐに運転席へ戻った。
 エンジンの音だけを残して、車は静かに夜の道へと消えていった。

 

 「……三宅、これは……」

 「ご安心ください。ご両親には、今のところ報告しておりません」

 「……!」

 

 三宅はしばし無言で、わたしの姿を見つめた。

 「お嬢様が“風に当たっていた”のなら、それ以上は申しません。ですが」

 「……?」

 

 「どうか、“お嬢様である前に、梨桜様というおひとりの女性”として、
 後悔しない行動をお選びください」

 

 まっすぐな視線が、わたしの心を射抜いた。
 叱責でも諭しでもない。ただ静かに、彼の言葉は沁みた。

 

 「……ありがとう、三宅」

 

 わたしは小さく頭を下げ、館の扉を開いた。
 玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、金の檻が音もなく閉じる音がしたような気がした。

 

 でも、さっき感じた風は、まだどこかに残っていた。






 

 翌朝。
 制服のリボンを結ぶ手が、少しだけ震えていた。

 

 いつも通りに通う学園。
 けれど、わたしの中では、何かが音を立てて変わり始めていた。

 

 クラスメイトの笑顔、先生の声、礼儀正しい会釈。
 全部が、どこか少しだけ“遠く”にある気がした。

 

 あの焚き火の輪にいた人たちは、
 誰もそんな表面だけで他人を測ったりしなかった。

 

 ――ああ、戻ってきちゃったんだ。金の檻に。

 

 昼休み。
 わたしはカフェテリアではなく、図書室へ向かった。

 

 誰もが忘れているような場所。
 ひっそりとしたその空間で、本を読むふりをしながら、ほんの少しだけ現実から逃げたかった。

 

 けれどその日、図書室の一番奥。
 誰も来ないような閲覧席のカーテンが、かすかに揺れていた。

 

 誰かが、いる?

 

 そっと覗き込むと、そこには信じられない光景があった。

 

 ――あの人。

 

 昨夜、焚き火の輪の外で本を読んでいた、メガネの彼。
 無口で冷静、まるで感情の起伏がないように見えた男。

 

 「……三影さん?」

 

 彼は静かに顔を上げる。
 そして、冷たいほど滑らかな声で言った。

 

 「おや、奇遇ですね、"お姫様"」

 

 シャツの第一ボタンまできちんと締め、ネクタイは学校指定の紺色。
 その制服は、まぎれもなく――この白鷺学園のものだった。

 

 「なんで……」

 「春日野さんこそ、なんで図書室に?」

 

 わたしは言葉を詰まらせた。
 だって彼が、この学園の生徒だなんて……思いもしなかった。

 

 「三影……じゃない、名前、なんて言うの?」

 

 彼は少し口元を緩めた。
 それは皮肉でも、挑発でもなく、どこか“理解”に近いものだった。

 

 「三影 隼人。高等部三年、首席。あなたの、ひとつ上の先輩です」

 

 「でも、昨日は……」

 「族の顔と、学園の顔は、別物ですよ」
 「……まさか、同じ世界にいるなんて思わなかった」

 

 「こちらも同じです」
 「政財界の令嬢が、あんな場所にひとりで現れるなんて思ってなかった」

 

 その瞬間、わたしの中で何かがこぼれ落ちた。
 この人は、“わたしの正体”を全部知っていたんだ。

 

 「……誰にも、言わないで」

 

 「言いませんよ。
 それに、誰かに言いふらしたいほど、あなたは軽くありませんから」

 

 その言葉に、心が少しだけふるえた。
 褒め言葉のようで、少し違う。
 でも、ちゃんと“見てくれてる”気がした。

 

 「昨日のこと、後悔してる?」

 

 わたしの問いに、隼人は静かに本を閉じた。
 そして、ゆっくりと目を合わせる。

 

 「後悔してるのは――
 あの場で、俺があなたに、何も言わなかったことです」

 

 胸が、ずきんと鳴った。

 

 「言わなかったこと?」

 「九条総長の額のキス。あれが、どれほど危険な意味を持つか」

 

 「……どういう、こと?」

 

 隼人は一歩、わたしに近づいた。
 そして小さく囁いた。

 

 「“俺たち全員、本気になったら止まらない”ってことです。覚悟していてくださいね、"お姫様"」

 

 鼓動が跳ねた。
 まるで、違う物語の幕が、いま静かに上がったようだった――