「……お嬢様、お迎えのお車が参っております」

重々しい声とともに、サロンのドアが開かれる。
白い手袋をした執事が、頭を垂れて立っていた。

わたし――春日野 梨桜(かすがの りお)は、
薔薇の刺繍が入った制服の裾を静かに整え、椅子を立った。

「ありがとう、三宅。すぐ行くわ」

 サロンの奥には紅茶の香りが漂い、ピアノソナタが微かに流れていた。
 名門・春日野家の屋敷は、まるで異世界のように静かで、優雅で、そして冷たい。

 

廊下を歩くたびに、絨毯が沈んだ。
それはまるで、「自分の足音すら許されない」この家の、象徴のようだった。

 

 黒塗りの車が、門の前で待っていた。
 背広姿の運転手が無言でドアを開け、わたしは乗り込む。

 今日も、きっちりと用意された帰宅ルート。
 学校と家の往復以外、どこにも寄り道は許されない。

 

 窓の外を流れる風景は、どこか現実味がなかった。
 少しだけ、息苦しかった。
 胸の奥に、重くて、言葉にならない何かが沈んでいる。

 

 その夜。
 どうしても眠れなくて、わたしはこっそり部屋を抜け出した。

 庭を横切って、裏門からそっと外へ出る。

 

 夜の空気は冷たくて、でも不思議な自由を感じさせた。
 高鳴る鼓動が、足元から身体を駆け上がっていく。

 

……一度くらい、自分の意思で歩いてみたい。

 

 駅前の広場まで来たときだった。
 突然、鋭いブレーキ音が響いた。

 目の前に、何台ものバイクが滑り込んでくる。
 黒、赤、銀……光をまとった鉄の獣たち。

 

 ――これが暴走族。
 三宅達がわたしに触れさせたくなかった存在。
 聞いてはいたが、見たのは初めてだった。

 エンジン音が止まり、ヘルメットを脱いだ少年たちがわたしを見る。

 その中のひとり、
 長い脚を投げ出すように降りた金髪の男が、こちらに歩いてきた。

 

「おい、こんな時間に、こんなとこで、なにしてんだよ。」

 

 睨みつけるような鋭い目。
 だけど、その声には、どこか“人間の匂い”があった。

 

 返す言葉を探す間もなく、後ろから別の男の声が割って入る。

「凪、怖がらせるなって。女の子が泣くぞ?」

 

 現れたのは、黒髪に銀のイヤーカフ。
 そして、信じられないくらい整った顔立ち。

「こんな時間に夜風に当たるのは危険だよ。ほら、冷える」

 

 その言葉に、凪と呼ばれた金髪が鼻を鳴らす。

「じゃあ、拾ってくんのかよ。総長」

「さあ……それは、彼女が決めることじゃない?」

 

 その瞬間だった。
 ピン、と胸の奥で何かが弾けた。

 この人たちのそばに行ったら、
 なにかが壊れる――でも、なにかが始まる気がした。

 

「……あなたたち、名前は?」

 

 わたしの問いに、黒髪の青年が、片方の口角をあげて笑った。

 

「《轟焔》――俺たちの名前だよ。」

 

 その夜、世界が静かに傾いた音が、たしかに聞こえた。