君だけの風景

 退院の見通しはまだ立っていなかった。
 診断名は、心疾患から併発された進行性の自己免疫疾患。
 もともと軽症だったものが、環境の変化と身体的負荷で、一気に悪化したのだと、主治医は静かに言った。

 その説明を受けたとき、わたしは頷くだけだった。
 驚きも、怒りも、悲しみすらも、すでに心の底に沈んでいた。
 まるで、肺の奥に水を満たしたまま呼吸しているような、そういう日々が続いていた。

 

 ある晩、見舞いに来た両親に、わたしははっきりと言った。

 「わたしが一緒に旅してたのは、病気のことを忘れられる場所を探すためじゃないの。
  “病気じゃないわたし”として、世界のなかに居たかったの」

 ふたりは何も言わなかった。

 「遥人は、その“わたし”を、ちゃんと見てくれた。
  健康な子のふりをしなくても、ただの雪乃として、同じ時間を過ごしてくれた」

 病室のカーテン越しに、夕方の光が差し込んでいた。
 白いカーテンが、薄桃色に染まっていた。
 その色が、あのとき旅先で見た、どこかの夕焼けと似ていた。

 

 「お母さんたちは、わたしを“守る”ことでしか関われないの?
  “治療中の娘”っていう枠に押し込めて、“異物”を排除して、安心してるだけじゃないの?」

 言葉が、鋭くなっていくのを感じていた。
 でも、それでも言わずにはいられなかった。

 「遥人は、わたしの病気も、家庭のことも、未来の不安も全部知ってて、それでも笑ってくれた。
 わたしにたくさん景色を見せてくれて、たくさんのことを教えてくれた。
  それが、どれだけ救いだったか……あなたたちにはわからない」

 

 母は泣いた。
 父も黙っていた。

 「ごめんなさい」と母が言った。

 でも、その謝罪はどこか空っぽだった。
 すべてを終えたあとにだけ置かれる、慰めのような、そんな響きだった。

 

 それから数日後、わたしは医師に訊いた。

 「遥人の名前……わたし、フルネームも知らなかった。
  連絡先も、住所も、何も……」

 旅のなかで、わたしたちは「いつかは別れる」と思っていた。
 その“いつか”が、こんなかたちで来るとは思わなかったけれど。

 医師は苦い顔をして、静かに言った。

 「……彼は、自分の名前を名乗りませんでした。
  “必要なときが来れば、また会える”とだけ言っていました。
  彼が残していったのは、あなたのことを大切に思っていた痕跡だけです」

 

 わたしは、夜の病室で、泣いた。
 誰にも見られないように、枕を抱きしめて、声を押し殺して、
 旅先で見た景色を一つずつ、心のなかに映し直して――

 ――そうして、遥人の面影をたどっていった。