君だけの風景

 遠くでカラスが鳴いていた。
 それが朝なのか夕方なのか、わたしにはわからなかった。

 目を開けたとき、天井の白さが痛かった。
 機械の規則的な音、わずかに冷たい点滴の針の感触、静かすぎる空間。
 すべてが、旅の終わりを告げていた。

 ――終わってしまった。
 わたしの“旅”が。

 


 あの朝。
 遥人が買ってくれたパン屋の紙袋が、まだ温かかった。

 「雪乃、バターのほうと、あんこのほう、どっちがいい?」

 「どっちも食べたいって言ったら、引く?」

 「同じこと考えてたんだって感動する」

 笑いながら袋を開ける彼の横顔が、やけに光って見えた。
 わたしはそのとき、ほんの一瞬だけ、「ああ、わたし、このまま全部捨ててもいいかも」と思った。

 ――病気も、学校も、家庭も、未来も。
 すべて捨てて、この人と旅を続けていたいって。

 

 そのあとの記憶は断片的だった。

 急に、全身が冷たくなった。
 胃の奥がきしむように痛み、目の前がぼやけ、足元が抜けた。

 遥人の声が聞こえていた。
 「…雪乃? 大丈夫? 雪乃!」

 だけど声は遠く、鼓膜の外を滑っていた。
 落ちる、落ちる、落ちていく――そんな感覚だけが、最後に残った。

 

 ……それから、どれくらい経ったのか。
 目を開けた瞬間、わたしはすべてを悟った。

 病院。
 点滴。
 消毒液の匂い。
 そして、母の顔。

 「雪乃!」

 涙ぐみながら抱きついてきた母の腕は、震えていた。
 その後ろに、父と弟の蒼太が立っていた。
 でも、わたしはすぐに尋ねた。

 「……遥人は?」

 母の表情が固まった。
 父は視線をそらした。
 蒼太は口をつぐんだままだった。

 「……どこ?」

 わたしの声が震えた。
 でも、誰も答えなかった。

 


 数日が経ち、あまりにもやつれたわたしを見兼ね、ようやく医師がそっと語った。

 「彼は、雪乃さんをここに運んでくれた直後、ご家族と……少し、言い合いがあったようです」

 「……言い合い?」

 「お父さまが、“未成年の娘を連れ回した”と彼のことを非難されていたと、私は聞いています。
 彼は、自分が責められることは覚悟していたように見えました。
 ですが、目を覚さないあなたと、ご家族の悲痛な表情を見て、黙って……帰られました」

 わたしの中の何かが崩れた。
 ゆっくりと、けれど確実に、心が剥がれていくような感覚だった。

 

 遥人は、わたしのためにすべてを投げ出してくれた。
 わたしが病気を“忘れて”生きられるように、景色を見せ、笑わせ、励ましてくれた。
 それなのに――

 彼を、わたしの家族が傷つけた。
 追い出した。

 言葉がうまく出なかった。
 わたしの中で、“病気の娘を守る親”という存在が、もう信じられなくなっていた。