君だけの風景

 家に戻ったその日、母が玄関まで出てきた。
 父も珍しくリビングにいて、わたしの顔を見て、ぎこちない笑顔を浮かべた。

 

 「……おかえり」

 その声は、ほんの少しだけ震えていた。

 「ただいま」

 

 それ以上、何も言わなかった。
 旅に出ることを許したのは、あの日わたしが涙を見せなかったからだ。
 そして、いま戻ってきたのも、どこか「約束通り」に見せかけたからだった。

 

 部屋に戻ると、空気が止まっていた。
 旅に出る前と、何ひとつ変わっていない机。
 読みかけの本、壁にかけたままのカレンダー。
 だけどわたしの心は、もう元に戻れない場所にいた。

 

 鞄を開けて、一番上に置いてあった封筒を取り出す。

 遥人がくれた、あの手紙。
 薄いクリーム色の便箋に、見慣れた字が並んでいた。

 

 「雪乃へ」

 その宛名に、思わず指先が止まる。

 

 ゆっくりと封を切る。
 手のひらがじんわりと汗ばんでいた。

 



雪乃へ

君がこれを読んでる頃には、もう電車はずいぶん進んでるんだろうね。
昨日、君が眠っている間に、いろんなことを思った。

伝えようとして伝えられなかった言葉が、たくさんある。
でもそれを今ここでぜんぶ書くと、きっと読むのが疲れちゃうから、
今の僕が一番言いたいことを、ひとつだけ。

「ありがとう」

君と旅をして、僕は“誰かのために何かをしてもいい”と思えるようになった。

君がいた日々が、僕の“始まり”になった。
たぶん、君にとってもそうだといいなと思ってる。

君がこれから、どんな時間を過ごすにしても、
その中に少しでも僕の言葉が残っていたら、それでいい。

もしも、どこかでまた会えたら――
そのときは、もう少しちゃんと君の隣を歩けるように、僕も頑張るよ。

それまで、君の生きる日々がやさしいものでありますように。

遥人より



 読んでいるあいだ、涙は出なかった。
 けれど、最後の一文を読み終えたとき、
 わたしの頬は、濡れていた。

 

 便箋を胸に抱いて、しばらく動けなかった。
 窓の外では、風が木々を揺らしていた。
 まるで、その風のなかに彼の声が混ざっているようだった。

 

 「ありがとうって、こっちの台詞なのに」

 わたしは、声に出してつぶやいた。
 部屋にはわたししかいなかったけれど、確かにそこに誰かがいる気がした。

 

 旅は終わった。
 けれど、あの旅で見た光と、もらった言葉たちは、終わらずにここに残っている。

 

 翌朝、わたしは久しぶりに制服に袖を通した。
 鏡のなかの自分は、少しだけ背筋が伸びていた。

 

 病気は、まだそこにある。
 だけど、わたしは歩ける。

 遥人がくれた記憶を連れて、
 わたしは、今日を生きていく。