君だけの風景


 夜が終わる気配が、襖の隙間からじわりと滲んでいた。

 わたしは目を覚まして、まだ眠る遥人の横顔を見つめた。
 彼の呼吸は穏やかで、肩が微かに上下していた。

 

 時計の針は、午前五時を指していた。

 今日、わたしは家に戻る。
 旅の終わりを、自分で決めた。

 身体はもう限界に近かった。
 薬の効果も、もって数週間だと医師に言われていた。

 

 でも、後悔は、なかった。

 遥人と過ごした日々が、わたしに「生きる」ということを思い出させてくれた。
 逃げるように始めた旅の、その終点には、ちゃんと意味があったのだ。

 

 ゆっくりと布団を抜け出し、荷物をまとめた。
 窓を開けると、朝の海が遠くに光っていた。

 東の空が薄く朱色を帯び、夜の終わりと朝の始まりが、しずかにせめぎ合っていた。

 

 そのとき、背後で布団がかさりと動いた。

 「……起きたの?」

 振り返ると、遥人がまぶたを重たげに開いていた。
 わたしは小さく微笑んだ。

 

 「行く準備してた。……寝ててよかったのに」

 「ううん。見送りたいから、ちゃんと起きる」

 

 彼はゆっくりと身を起こし、髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。
 その姿は、昨日までの旅のままだった。

 

 「……ありがとう」

 「なにが?」

 「全部。……この旅、いっしょにいてくれて」

 

 遥人は笑った。
 寂しさも名残惜しさも、無理に隠さなかった。

 

 「こっちこそ。……でもさ、これが終わりだなんて、思ってないよ?」

 

 「うん。わたしも」

 

 わたしたちは、それ以上、余計なことは言わなかった。
 玄関で靴を履きながら、遥人が何かを鞄から取り出した。

 「これ、預かってて」

 差し出されたのは、小さな封筒だった。
 手触りが見覚えのあるもので、封のところに、彼の名前が書いてあった。

 

 「読むのは、家に帰ってからね。……重い話とかじゃないよ」

 

 わたしは受け取り、両手で大切に胸にしまった。

 

 宿を出ると、朝の町はまだ眠っていた。
 港の方から、船のエンジン音が低く響いていた。

 歩くたび、影が足元で揺れた。
 駅までの道のりは、思っていたよりも短く感じられた。

 

 ホームに上がると、電車が滑るように入ってきた。
 わたしは振り返り、遥人の顔をもう一度しっかりと見た。

 

 「行ってくるね」

 

 「うん。……気をつけて」

 

 わたしが乗り込んで、扉が閉まる直前。
 遥人は、ポケットから小さなキーホルダーを取り出した。

 それは、旅の途中で寄った港町の露店で、ふたりで笑いながら選んだものだった。

 

 「忘れもん!」

 彼が窓越しにそれを掲げた。
 わたしは笑って、小さく頷いた。

 

 列車が動き出す。
 遥人の姿が、だんだんと遠ざかる。

 

 でも、涙は出なかった。

 代わりに、胸の奥にあたたかな光が灯っていた。
 ふたりが過ごした時間の証のように。

 

 遠ざかる景色のなかで、
 わたしは、封筒の重みを両手で抱えながら、
 もう一度、心のなかで彼の名前を呼んだ。

 

 遥人――また、会いに行くね。

 

 電車の窓に映る自分の顔は、少しだけ大人になって見えた。