君だけの風景

 旅の最後の目的地を、わたしたちは何も言わずに決めた。
 列車に乗って、ただ「もう少しだけ遠くへ」と願いながら、
 地図も見ず、行き先案内の電光掲示を頼りに、終点まで行くと決めた。

 

 そこは、名も知らぬ港町だった。
 海が異様に近くて、駅の改札を出た瞬間、潮の匂いがぶわっと頬を撫でた。
 空が、広かった。
 水平線が、やけにまっすぐで、空と地面の境界がぼやけていた。

 

 「ここ、いいね」

 わたしがつぶやくと、遥人が頷いた。

 「うん。すごく、いい」

 

 駅前の道は古くて、舗装の継ぎ目がひび割れていたけれど、
 歩くたびに靴の裏から伝わってくる感触が、どこか懐かしかった。

 

 宿を決めたのは、小さな民宿だった。
 名前も素朴で、看板の文字が陽に焼けてかすれていた。
 部屋の障子は少し歪んでいて、窓は風を通す音が心地よかった。

 

 夜、ふたりで並んで歩いた海辺の遊歩道には、灯台があった。
 光がぐるりと回って、空をなぞるたびに、わたしたちの影が伸びたり縮んだりした。

 

 「わたし、もうすぐ戻らなきゃいけない」

 遥人の横で、ふと口にした。

 「うん、わかってた。……でも」

 

 「でも?」

 

 「それでも来てよかったって、思ってる」

 

 その言葉に、わたしは何も返さなかった。
 代わりに、小さく頷いて、海の方を向いた。

 

 波音が、遠くの出来事みたいに聞こえていた。
 その日は、やけに星が多かった。

 

 翌朝、わたしはいつもより少し早く目を覚ました。
 ふと横を見ると、遥人はまだ眠っていた。

 窓の外から、朝の海の匂いがする。

 そっと布団から出て、窓を開けると、光が部屋に満ちた。
 その光に照らされる遥人の寝顔を見て、わたしは胸が痛くなった。

 この人と、もっと長くいられたら――
 そう思う自分を、もう否定することはできなかった。

 

 午前中、ふたりで市場へ出かけた。
 魚の匂いが鼻をつき、地元の人たちのやり取りが飛び交う中、
 遥人が珍しくはしゃいでいた。

 「これ、絶対うまいよな」と言って買った焼きイカを、
 ふたりで分け合って食べた。

 

 午後には、わたしたちは小さな丘に登った。
 そこには古びた神社があり、石段の先に、海が見渡せた。

 

 「ここ、すごいね」
 「うん、すごい」

 

 ただそれだけを言い合って、
 わたしたちは、しばらく言葉もなく並んで海を見ていた。

 時折吹く風に、髪がなびき、遥人が手でそっとわたしの頬を押さえた。
 それがあまりに自然で、わたしは目を閉じた。

 

 世界は、こんなにも優しかったのだ。
 あの頃は、気づけなかっただけで。

 

 「雪乃」

 彼が小さく呼んだ。

 「……なに?」

 

 「君と過ごせたこと、俺の人生でいちばんの宝物だって、今わかった」

 

 わたしは、涙が出そうになった。
 でも、それは悲しみからじゃなかった。

 

 「じゃあ、もっと宝物を増やそうよ。これからも」

 

 そのとき、遥人はなにも言わなかった。
 けれど、彼の横顔が、わたしにそうしようと誓ってくれていた。

 

 夕暮れになり、わたしたちは宿へ戻った。
 その夜の食卓は、どこか最後の晩餐のようだった。

 それぞれの皿に並んだ料理が、静かに別れの気配を漂わせていた。
 でも、わたしは笑っていた。
 遥人も笑っていた。

 

 この日々が、永遠ではないとわかっているからこそ、
 かけがえのなさが胸に迫るのだった。

 

 夜、ふたりで布団に入り、電気を消したあと、
 わたしは、そっと彼の名前を呼んだ。

 「遥人くん」

 「うん」

 「ありがとう」

 

 彼は、なにも言わず、わたしの手を握った。
 言葉よりも、伝わるものがあった。

 その夜、わたしは深く眠った。
 心の底から、安心したまま。