その日も、わたしは《ことばの庭》へと向かっていた。
桜の花びらが、風に巻かれて足元を過ぎていく。
街はすでに春のなかにいて、
毎日のように通っているこの道さえも、ほんの少しだけ色を変えていた。
心のなかでは、もう答えを出していた。
会えないままでもいい。
あの言葉に出会えただけで、十分だと思えていた。
店の扉を開けたとき、鈴の音が、いつもより少し高く響いた気がした。
空気の温度が、わずかに違った。
その違和感を、わたしの身体のどこかが先に察知していた。
視線を、店の奥にやった。
壁の掲示板の前に、ひとりの男の子が立っていた。
背中だけが見えた。
けれど、その立ち方、その肩の傾き、首筋の角度――
わたしの記憶のなかに、確かに刻まれていた彼の輪郭だった。
息が止まるかと思った。
声をかけようにも、声帯がうまく働かない。
でも、心は確かに叫んでいた。
遥人――。
彼は、わたしが貼った便箋の前で、立ち尽くしていた。
読み終えたあと、手を伸ばすでもなく、ただその場に静かに佇んでいた。
その後ろ姿を見つめながら、
わたしは、心の底に沈んでいた涙のかけらがゆっくり浮かび上がってくるのを感じていた。
どれだけの時間が経ったのかわからない。
けれど彼が、ゆっくりと掲示板の前から離れ、
そのままレジの横を通り、出口へと向かおうとしたとき――
わたしは、ついに口を開いた。
「……遥人くん」
彼の動きが止まった。
まるで、時が一瞬凍りついたようだった。
ゆっくりと、振り返る。
その顔は、変わっていた。
わたしが知っていた遥人の面影と、いくつかの季節が重なっていた。
でも――
瞳の奥だけは、何ひとつ変わっていなかった。
「……雪乃?」
その名前を、こんなにも静かに呼ばれたのは、初めてだった。
再会は、涙ではなく、祈りのような重さを帯びていた。
「どうして、ここに……」
「それ、こっちのセリフだよ」
小さく笑って、でも目の奥が熱くて、うまく笑えなかった。
彼もまた、苦笑いを浮かべたまま、言葉を探しているようだった。
「わたし、あのとき……言いたいこと、ちゃんと言えなかったから」
「俺もだよ。ずっと、言えないままだった。……ごめん」
謝罪も再会の言葉も、どちらも“ぴたりと合う場所”を見つけられないまま、
わたしたちはただ、数歩の距離を保って、そこに立っていた。
そしてようやく、遥人がひとつ息を吸ったあと、静かに言った。
「もう一度、話そう。……ゆっくりでいい。話そうよ、全部」
その言葉が、胸に沁みた。
わたしの時間も、彼の時間も、確かに“ここに戻ってきた”のだと知った。
その日は店を出て、近くの公園のベンチに並んで座った。
わたしと彼は、肩が少しだけ触れ合うくらいの距離を取ったまま、
互いの旅の話を、空白の時間の話を、少しずつ語り合った。
風が頬を撫でた。
もう、あの頃のわたしたちではなかったけれど、
あの頃よりも少しだけ、言葉の重みを知っているふたりだった。
再会とは、記憶の続きをなぞることではない。
再会とは、新しい記憶を作るために再び向かい合うことだった。
その日から、わたしの季節は、もう一度、始まり直した。
桜の花びらが、風に巻かれて足元を過ぎていく。
街はすでに春のなかにいて、
毎日のように通っているこの道さえも、ほんの少しだけ色を変えていた。
心のなかでは、もう答えを出していた。
会えないままでもいい。
あの言葉に出会えただけで、十分だと思えていた。
店の扉を開けたとき、鈴の音が、いつもより少し高く響いた気がした。
空気の温度が、わずかに違った。
その違和感を、わたしの身体のどこかが先に察知していた。
視線を、店の奥にやった。
壁の掲示板の前に、ひとりの男の子が立っていた。
背中だけが見えた。
けれど、その立ち方、その肩の傾き、首筋の角度――
わたしの記憶のなかに、確かに刻まれていた彼の輪郭だった。
息が止まるかと思った。
声をかけようにも、声帯がうまく働かない。
でも、心は確かに叫んでいた。
遥人――。
彼は、わたしが貼った便箋の前で、立ち尽くしていた。
読み終えたあと、手を伸ばすでもなく、ただその場に静かに佇んでいた。
その後ろ姿を見つめながら、
わたしは、心の底に沈んでいた涙のかけらがゆっくり浮かび上がってくるのを感じていた。
どれだけの時間が経ったのかわからない。
けれど彼が、ゆっくりと掲示板の前から離れ、
そのままレジの横を通り、出口へと向かおうとしたとき――
わたしは、ついに口を開いた。
「……遥人くん」
彼の動きが止まった。
まるで、時が一瞬凍りついたようだった。
ゆっくりと、振り返る。
その顔は、変わっていた。
わたしが知っていた遥人の面影と、いくつかの季節が重なっていた。
でも――
瞳の奥だけは、何ひとつ変わっていなかった。
「……雪乃?」
その名前を、こんなにも静かに呼ばれたのは、初めてだった。
再会は、涙ではなく、祈りのような重さを帯びていた。
「どうして、ここに……」
「それ、こっちのセリフだよ」
小さく笑って、でも目の奥が熱くて、うまく笑えなかった。
彼もまた、苦笑いを浮かべたまま、言葉を探しているようだった。
「わたし、あのとき……言いたいこと、ちゃんと言えなかったから」
「俺もだよ。ずっと、言えないままだった。……ごめん」
謝罪も再会の言葉も、どちらも“ぴたりと合う場所”を見つけられないまま、
わたしたちはただ、数歩の距離を保って、そこに立っていた。
そしてようやく、遥人がひとつ息を吸ったあと、静かに言った。
「もう一度、話そう。……ゆっくりでいい。話そうよ、全部」
その言葉が、胸に沁みた。
わたしの時間も、彼の時間も、確かに“ここに戻ってきた”のだと知った。
その日は店を出て、近くの公園のベンチに並んで座った。
わたしと彼は、肩が少しだけ触れ合うくらいの距離を取ったまま、
互いの旅の話を、空白の時間の話を、少しずつ語り合った。
風が頬を撫でた。
もう、あの頃のわたしたちではなかったけれど、
あの頃よりも少しだけ、言葉の重みを知っているふたりだった。
再会とは、記憶の続きをなぞることではない。
再会とは、新しい記憶を作るために再び向かい合うことだった。
その日から、わたしの季節は、もう一度、始まり直した。

