春は、もうすぐそこに来ていた。
曇り空はやわらぎ、街の歩道に植えられた若木が、うっすらと芽吹いていた。
わたしは、自分の足で駅に立っていた。
手には切符を握りしめていた。
今回は、誰に背中を押されたわけでもなかった。
誰に会うかも、何を得るかも、なにも決まっていなかった。
ただ――
遥人が、もう二度と会えない場所にいるような気がしてならなかった。
この旅は、「家出」ではなかった。
「追憶」でもなかった。
わたしはただ、“あの日の続きを、もう一度歩いてみたかった”。
最初に降りた駅は、名前さえ知らなかった町だった。
観光名所もなければ、写真に残すような風景もない。
でも、改札を抜けたとたん、なぜか胸が苦しくなった。
遥人と旅をしたときの、最初の町と、どこか空気が似ていた。
細い道を歩く。
古びた商店街を抜け、小さな橋を渡る。
風の匂いが、あのときと似ていた。
ふと、商店街の端にある喫茶店の看板が目に入った。
木製の、手作り感のある看板だった。
遥人が「こういうところに入ると、だいたい当たりなんだよね」と笑っていたのを思い出す。
その笑顔が、脳裏に焼き付いたまま離れない。
ひとりで入ったその店は、期待以上に静かで、温かくて、落ち着く場所だった。
カウンター席に座り、ホットココアを頼んだ。
湯気が立ち上る瞬間、彼が向かいにいないことを、また痛いほど思い知らされた。
“どんな場所に行っても、彼が先に来ていた気がしてしまう”。
遥人はここに来たことなどないはずなのに、
わたしの目は、無意識に、彼の姿を探してしまう。
彼の背丈に似た影を見かけるたびに心臓が跳ね、
後ろ姿に似た人を見つけるたびに足を止める。
でも、振り返れば、誰もいない。
何度も、何度も。
もう、こんなふうに思い出したくないのに。
夕方、町外れの丘に登った。
風が強く、髪が何度も顔にかかった。
遠くに見える家々の灯りが、夕焼けのなかで滲んでいた。
遥人と見たあの湖も、あの山道も、あの港も、もうどこにもない。
だけど、胸のなかには、それらの風景が正確に浮かんでくる。
あのとき、彼が言った言葉を、まだ一字一句覚えている。
笑い方。
歩幅。
地図を指差すときの指先。
眠る直前の、まぶたの重さ。
――もう、二度と会えないのかもしれない。
そんな思いが、胸を刺すように過ぎった。
でも、不思議なことに、その痛みのなかに、“少しだけ温かさ”があった。
彼は、わたしのなかに、確かに生きている。
それだけは、誰にも奪えない。
わたしはベンチに座り、旅ノートの空白のページを開いた。
そして、そこに初めて、自分だけの言葉を書いた。
「今日は、君がいない場所で、君のことを探していた」
「風が吹くたび、君の声が聞こえた気がした」
「いつかまた、偶然のような顔をして、君に出会えたらと思う」
書き終えたとき、ふと空を見上げた。
そこには、夕焼けと混じった一番星が、ぽつりと瞬いていた。
“これもきっと、遥人が見せてくれた景色の続きなんだ”。
そう思うことで、今夜を乗り越えることができた。
曇り空はやわらぎ、街の歩道に植えられた若木が、うっすらと芽吹いていた。
わたしは、自分の足で駅に立っていた。
手には切符を握りしめていた。
今回は、誰に背中を押されたわけでもなかった。
誰に会うかも、何を得るかも、なにも決まっていなかった。
ただ――
遥人が、もう二度と会えない場所にいるような気がしてならなかった。
この旅は、「家出」ではなかった。
「追憶」でもなかった。
わたしはただ、“あの日の続きを、もう一度歩いてみたかった”。
最初に降りた駅は、名前さえ知らなかった町だった。
観光名所もなければ、写真に残すような風景もない。
でも、改札を抜けたとたん、なぜか胸が苦しくなった。
遥人と旅をしたときの、最初の町と、どこか空気が似ていた。
細い道を歩く。
古びた商店街を抜け、小さな橋を渡る。
風の匂いが、あのときと似ていた。
ふと、商店街の端にある喫茶店の看板が目に入った。
木製の、手作り感のある看板だった。
遥人が「こういうところに入ると、だいたい当たりなんだよね」と笑っていたのを思い出す。
その笑顔が、脳裏に焼き付いたまま離れない。
ひとりで入ったその店は、期待以上に静かで、温かくて、落ち着く場所だった。
カウンター席に座り、ホットココアを頼んだ。
湯気が立ち上る瞬間、彼が向かいにいないことを、また痛いほど思い知らされた。
“どんな場所に行っても、彼が先に来ていた気がしてしまう”。
遥人はここに来たことなどないはずなのに、
わたしの目は、無意識に、彼の姿を探してしまう。
彼の背丈に似た影を見かけるたびに心臓が跳ね、
後ろ姿に似た人を見つけるたびに足を止める。
でも、振り返れば、誰もいない。
何度も、何度も。
もう、こんなふうに思い出したくないのに。
夕方、町外れの丘に登った。
風が強く、髪が何度も顔にかかった。
遠くに見える家々の灯りが、夕焼けのなかで滲んでいた。
遥人と見たあの湖も、あの山道も、あの港も、もうどこにもない。
だけど、胸のなかには、それらの風景が正確に浮かんでくる。
あのとき、彼が言った言葉を、まだ一字一句覚えている。
笑い方。
歩幅。
地図を指差すときの指先。
眠る直前の、まぶたの重さ。
――もう、二度と会えないのかもしれない。
そんな思いが、胸を刺すように過ぎった。
でも、不思議なことに、その痛みのなかに、“少しだけ温かさ”があった。
彼は、わたしのなかに、確かに生きている。
それだけは、誰にも奪えない。
わたしはベンチに座り、旅ノートの空白のページを開いた。
そして、そこに初めて、自分だけの言葉を書いた。
「今日は、君がいない場所で、君のことを探していた」
「風が吹くたび、君の声が聞こえた気がした」
「いつかまた、偶然のような顔をして、君に出会えたらと思う」
書き終えたとき、ふと空を見上げた。
そこには、夕焼けと混じった一番星が、ぽつりと瞬いていた。
“これもきっと、遥人が見せてくれた景色の続きなんだ”。
そう思うことで、今夜を乗り越えることができた。

