朝。
わたしは制服に身を包み、前と同じようにリュックを背負っていた。
玄関のドアノブに、わたしの指先が触れたとき、背後から母の声が飛んだ。
「雪乃、どこへ行くの?」
わたしは振り返らなかった。
けれど、言葉ははっきりと返した。
「探しに行くの。遥人を」
沈黙があった。
空気の粒が、時間の中で固まったようだった。
「……もうやめなさい」
母の声は震えていた。
「忘れなさい。あの子は、もう……」
「“もう”じゃない」
わたしは靴を履きながら言った。
「“まだ”なの。わたしにとっては、まだ、何も終わってない」
玄関を出ると、薄曇りの空が広がっていた。
もうすぐ春が来るはずの空だった。
でも、風の匂いは、まだ冬の名残をまとっていた。
わたしは駅までの道を、小走りに進んだ。
ゆっくりなんてしていたら、心の中の何かが、ほどけてしまいそうだった。
背中に、父の声が追ってきた。
「雪乃!」
振り返らなかった。
その名を呼ばれることが、いちばん彼から遠ざかる気がしたから。
駅に着いたのは、朝の通勤ラッシュがすぎたあとの静けさのなかだった。
改札を抜け、ホームへと続く階段を上がると、あのベンチが見えた。
――あの日、遥人と初めて言葉を交わした、駅のベンチ。
彼の存在が、どれだけわたしの世界を変えたのか。
そして今、彼がどれほど世界から離れているのか――そのどちらもが、痛みとして重なっていた。
わたしは、ベンチに腰を下ろした。
隣の席に、誰も座らないように、リュックを置いた。
空席を守るように。
いつ彼が来ても、すぐにわたしの隣に座れるように。
時計の針が、午前を越えて午後に差し掛かった。
電車が来て、乗客を降ろし、そしてまた運んでいく。
それを何度も、何度も見送った。
わたしは、ただ、待っていた。
信じている、という気持ちよりも、
ただ、“ここにいる”ということだけを、彼に伝えたかった。
風が吹いて、髪を揺らした。
空は少しずつ色を変えていた。
光が傾き、駅の屋根が長い影を落とした。
わたしの中で、時間というものの概念が、少しずつ薄れていった。
今が何時なのかも、今日は何曜日なのかも、どうでもよくなっていく。
ただ――
あのときの続きを、ここで待っている。
やがて、隣に置いたリュックの上に、白い花びらが落ちた。
電車が来ても、誰も降りなかった。
ベンチの金属が冷たく、足先が少しずつ痺れていた。
でも、わたしは立たなかった。
帰れなかった。
遥人に会えないなら、帰る場所など、もうどこにもなかった。
空の色が、ゆっくりと橙から薄暗く移り変わっていく。
それを告げるように、ホームの端に設置された小さな街灯が、カチリと音を立てて灯った。
蛍光色の光が、夕暮れの空にひどく人工的に浮かんでいた。
その光に照らされて、ベンチの隣に置いたわたしのリュックが、ほんの少しだけ、色を失ったように見えた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
ベンチに座ったまま、わたしは半ば夢のなかにいるような感覚に包まれていた。
遠くで電車のブレーキ音が響き、風が吹き抜ける。
駅という場所が持つ、時間の“あいまいさ”に、わたしの意識がほどけていく。
そのときだった。
背後から、ゆっくりと近づいてくる足音がした。
不規則な二組の靴音。
一つはヒールのような硬い音、もう一つは、どこか重たげな革靴の音。
「……雪乃」
呼ばれた名前に、肩がわずかに震えた。
振り返ると、そこに母と父が立っていた。
母は厚手のカーディガンを羽織り、顔には疲労の色が浮かんでいた。
父はネクタイを緩め、手に紙袋をぶら下げていた。
「……こんなところで、何をしてるの」
母の声は、やわらかく、でもどこか無理に抑えたものだった。
「待ってるの」
わたしは前を向いたまま、短く答えた。
「遥人を」
母の呼吸が、わずかに詰まったようだった。
「帰ろう、雪乃」
父が静かに言った。
「まだ夜は冷える。こんな場所にずっといたら、また体調を崩す」
「……ここが寒いんじゃないよ」
わたしは笑った。
「寒いのは、“居場所のない部屋”のほう」
返ってきたのは、沈黙だった。
母がそっと近づいてきて、ベンチの隣、リュックがない方に腰を下ろした。
静かに、わたしの手を取った。
「あなたを追いかけてここに来たのは、心配だったからじゃない」
「……じゃあ、なんのために?」
母は、遠くの線路を見つめたまま、言った。
「“あなたが、あなた自身である時間”を、見届けたいと思ったの。
わたしが知らない雪乃が、ここに座っている気がして」
わたしの中で、何かがひっそりと動いた。
それは、音もなく、痛みもない、けれど確かな“ほころび”だった。
「お母さんたちは、いつも“守ること”が正しいと思ってた。
でも、守るって、時には“囲い込むこと”になってたんだって、最近、気づいた」
「わたしも、わかってた。でも、こわかった。
あなたが誰かに連れていかれることが。
あなたが“わたしの子ども”じゃなくなることが――こわかった」
夕陽が、母の横顔を淡く照らしていた。
その顔には、少しだけ昔の母の面影が戻っていた。
「ごめんね」
母が小さく言った。
「あなたにとっての大切な人を、“知らない”というだけで遠ざけてしまった。
病気のあなたを守ろうとするあまり、“普通の女の子”としてのあなたを見失ってた」
わたしは黙っていた。
風が少しだけ強くなり、スカートの裾が揺れた。
「彼のことを、何も知らない。名前も、住所も、連絡先も」
「うん」
「でも、それでもあなたは、待ち続けるのね」
「待つしかないの」
「……どうして?」
「“思い出”じゃ、足りないから」
沈黙が、駅のベンチを包んだ。
すれ違う電車の音が、遠くに消えていく。
父が、そっと紙袋を差し出した。
「これ、温かい飲み物と上着。母さんが持ってけって言ってた」
「ありがとう」
母が立ち上がり、背を向けながら言った。
「帰るときは、迎えに行くから。体調が悪くなったら、すぐに連絡しなさい。
……あなたの居場所は、ちゃんとここにあるから」
そうして、彼らは去っていった。
父の背中が、駅の階段に消える最後の瞬間まで、わたしは見送った。
空には、もう星が瞬いていた。
風が吹き、どこか遠くの夜を運んできた。
わたしは再び、カバンの隣に身を寄せて、遥人の名を心のなかで呼んだ。
呼んでも呼んでも返ってこない名を、わたしは、ずっと呼び続けるのだった。

