退院は、梅雨の終わりとほぼ同時だった。
雨はすっかり上がっていたが、空はまだくすんでいて、空気の奥底には水分が残っていた。
街の景色は何も変わっていないはずなのに、わたしにはすべてが色褪せて見えた。
病院の正面玄関から出ると、母と父が待っていた。
蒼太は来ていなかった。
「無理しないで。ゆっくり歩いてね」
母はそう言って、肩に手を添えた。
その手のぬくもりを、わたしは感じながらも応えなかった。
歩き出した瞬間、足元に微かな違和感があった。
自分の重さを、久しぶりに思い出した。
体の奥に何かが沈んでいるような感覚。
あの旅の軽さが、まるで夢だったかのようだった。
家に戻ってきたのは、半年ぶりだった。
ただいま、という言葉は喉まで出かかったけれど、声にはならなかった。
玄関を開けると、いつもの香りがした。
洗剤と木の床の香り。
リビングの奥で小さく鳴っていたテレビの音。
すべてが“戻ってきた”と告げているのに、わたしの中には、“戻ってきた”という実感がなかった。
自室のドアを開けると、すべてが“そのまま”だった。
旅に出る前に脱いだ制服が、まだ椅子にかかっていた。
机の上には、未提出のままのレポートと、夏期講習の案内が置かれていた。
「……時が止まってたみたいだね」
わたしは、独り言のように呟いた。
でも、それは違った。
止まっていたのは、家ではなく、わたしのほうだった。
翌日から、訪ねてくる人が増えた。
クラスメイト。担任の先生。部活の後輩。
みんな一様に、笑顔だった。
そして皆、口をそろえて言った。
「よかった、本当に無事で……心配してたんだよ」
わたしは何度も頷いた。
でも、その“心配”の言葉が、どうしても身体に入ってこなかった。
彼らは、“病気のわたし”を迎えていた。
“戻ってきた東雪乃”を、優しさで包もうとしていた。
でもその優しさが、今のわたしには、苦しかった。
夜になって、机の引き出しを開けた。
旅の途中で書きためていたノートが出てきた。
遥人と交換で書いていた「旅ノート」。
彼が最後に書いたページを、わたしは何度も読み返した。
そこには、こんな言葉があった。
「旅の終わりは、次の旅の始まりだと思う。
君と過ごした日々は、“途中”であることの美しさを教えてくれた。
終わりなんて、きっと存在しない。
だって、思い出した瞬間に、また会えるから」
わたしは、そのページに指を滑らせた。
文字のひとつひとつが、呼吸をしているようだった。
涙は、出なかった。
涙を流すには、まだ時間が必要だった。
わたしのなかで“喪失”は、まだ名前を持っていなかった。
それからしばらくして、病院の医師から一通の封書が届いた。
遥人が置いていった、ただひとつの「もの」だった。
それは、二枚の切符だった。
ひとつは、旅の途中で彼が買った観光地の記念切符。
もうひとつは、無地の切符で、日付も行先も書かれていなかった。
裏には、彼の字でこう書かれていた。
「行き先は君が決めて。
そのとき、僕もたぶん、同じ空を見てると思う」
わたしはその切符を、机の引き出しに大切にしまった。
それが“終わり”を示すものではないと、確かに感じられたから。
知らなかったこと。
でも、どこかで知っていたこと。
人は、たとえ同じ時間を過ごしても、
その“重なり方”でしか、誰かを救うことはできない。
遥人がくれたのは、景色ではなかった。
“景色を見る自分自身”だった。
それに気づいたのは、旅が終わってからずっとあとのことだった。
雨はすっかり上がっていたが、空はまだくすんでいて、空気の奥底には水分が残っていた。
街の景色は何も変わっていないはずなのに、わたしにはすべてが色褪せて見えた。
病院の正面玄関から出ると、母と父が待っていた。
蒼太は来ていなかった。
「無理しないで。ゆっくり歩いてね」
母はそう言って、肩に手を添えた。
その手のぬくもりを、わたしは感じながらも応えなかった。
歩き出した瞬間、足元に微かな違和感があった。
自分の重さを、久しぶりに思い出した。
体の奥に何かが沈んでいるような感覚。
あの旅の軽さが、まるで夢だったかのようだった。
家に戻ってきたのは、半年ぶりだった。
ただいま、という言葉は喉まで出かかったけれど、声にはならなかった。
玄関を開けると、いつもの香りがした。
洗剤と木の床の香り。
リビングの奥で小さく鳴っていたテレビの音。
すべてが“戻ってきた”と告げているのに、わたしの中には、“戻ってきた”という実感がなかった。
自室のドアを開けると、すべてが“そのまま”だった。
旅に出る前に脱いだ制服が、まだ椅子にかかっていた。
机の上には、未提出のままのレポートと、夏期講習の案内が置かれていた。
「……時が止まってたみたいだね」
わたしは、独り言のように呟いた。
でも、それは違った。
止まっていたのは、家ではなく、わたしのほうだった。
翌日から、訪ねてくる人が増えた。
クラスメイト。担任の先生。部活の後輩。
みんな一様に、笑顔だった。
そして皆、口をそろえて言った。
「よかった、本当に無事で……心配してたんだよ」
わたしは何度も頷いた。
でも、その“心配”の言葉が、どうしても身体に入ってこなかった。
彼らは、“病気のわたし”を迎えていた。
“戻ってきた東雪乃”を、優しさで包もうとしていた。
でもその優しさが、今のわたしには、苦しかった。
夜になって、机の引き出しを開けた。
旅の途中で書きためていたノートが出てきた。
遥人と交換で書いていた「旅ノート」。
彼が最後に書いたページを、わたしは何度も読み返した。
そこには、こんな言葉があった。
「旅の終わりは、次の旅の始まりだと思う。
君と過ごした日々は、“途中”であることの美しさを教えてくれた。
終わりなんて、きっと存在しない。
だって、思い出した瞬間に、また会えるから」
わたしは、そのページに指を滑らせた。
文字のひとつひとつが、呼吸をしているようだった。
涙は、出なかった。
涙を流すには、まだ時間が必要だった。
わたしのなかで“喪失”は、まだ名前を持っていなかった。
それからしばらくして、病院の医師から一通の封書が届いた。
遥人が置いていった、ただひとつの「もの」だった。
それは、二枚の切符だった。
ひとつは、旅の途中で彼が買った観光地の記念切符。
もうひとつは、無地の切符で、日付も行先も書かれていなかった。
裏には、彼の字でこう書かれていた。
「行き先は君が決めて。
そのとき、僕もたぶん、同じ空を見てると思う」
わたしはその切符を、机の引き出しに大切にしまった。
それが“終わり”を示すものではないと、確かに感じられたから。
知らなかったこと。
でも、どこかで知っていたこと。
人は、たとえ同じ時間を過ごしても、
その“重なり方”でしか、誰かを救うことはできない。
遥人がくれたのは、景色ではなかった。
“景色を見る自分自身”だった。
それに気づいたのは、旅が終わってからずっとあとのことだった。

