かりそめ婚は突然に 〜摩天楼Love Story〜

失って初めて日常のありがたさを知った、とわたしが新居を訪れると、淡々とした口調でトモミ先生は語った。
彼女の美しいロングヘアはばっさりとショートにカットされていた。洗髪の手間を減らすためだ。

頭の形がいいからショートもよく似合うと褒めると「ありがとう」と微笑む。

「手が2本自由に使えることがどれだけありがたいか。片手しか使えないと、たとえばペットボトルは膝で挟んで固定して蓋を開けてるの。それでも片手が使えることに感謝しないとね。それに右手もいずれ治るわけだし」

昨日と同じ今日があるわけじゃないし、今日と同じ明日がある保証はどこにもない。
いきなりプロポーズされて、右も左も分からないままニューヨークに来てしまったわたしが言うのもなんだけど。
当たり前の日常への感謝を噛みしめる。

「保温ジャーにポトフを入れてきたの。例の、うちのおばあちゃん直伝のポトフ」

「ありがとう。ノーマンと夕飯にいただくわ」

「あとなにかやることってある? 家事とか?」

「お言葉に甘えて、今日は台所の床掃除をお願い」

喜んで、と立ち上がる。長居も負担になってしまうだろうから、なるべく用事だけ手早くすませて帰るようにしている。
彼女がおしゃべりしたい気分のときは、もちろんそれに付き合うけれど。