「─ありがとな」

この同室が1年は続くと考えると、本当に頭が痛い。夜に出掛けることも、昼休みに姿を消すことも、この男のせいで出来なくなった。

なのに、こんなふうに唐突にお礼を言ってくる。

「なんの話」

「ん?春休み前のさ」

「……」

「2月の、あの日。お前、葵咲のために怒ったろ」

「……」

─どうして、奴がその事を知っている。
嗚呼、そうか。彼女が話したのか。

『ごめんなさいっ』

顔を真っ青にして、泣きながら謝る彼女。
初めて、彼女に触れた日。

彼女のことを話題に、不愉快なことばかりを口にして盛りあがっていた取り巻きを殴った。

この神聖な学園で行うにはなかなかの暴力事件で、勿論、手はボロボロになったし、呼び出された母親は真っ青で、話題の中心になった彼女は泣いていた。

「ありがとう。痛かったろ」

「……お前が礼を言うことじゃない」

「いや、礼を言うよ。大切なあいつを守ってくれたんだから」

「……っ」

嗚呼、まただ。こいつの一言一言で傷ついている自分がいる。それを自覚する度、自分を戒める言葉が頭の中で響いて、苦しくなる。

「─なぁ、凛空」

「なに」

名前に関しては、もう諦めた。
この男に何回言ったって無駄だと悟ったし、この男は今もにこやかにこちらを見ている。

「お前、いや、凛空はさ」

「だから、何」

「─運命って信じるか?」

「……」

頭の奥を殴られたような、衝撃。
鈍い痛みが、過去を。

「………………信じない、と言ったら?」

信じない。信じるわけが無い。
だって、そんなものを信じてしまえば、自分はあの愚かな父親と同じになる。

『運命のっ、恋人なんだっ!』

そう言って、何もかもを捨てた父親は、母を、凛空の帰る場所を、信じていた思い出を壊した。

(また、お母さんを苦しめる……)

お母さんから離れていかないで、と、そう言われた。それを守る為に、この学園に入った。

そうすれば、お母さんは何も知らずに、あの家の中で、凛空が帰る日を待つだろう。

そうすれば、お母さんは傷つかずに、息子である凛空が何をやっているかを知らずに、自分は息苦しい10代を終えられる。

─だから。