翌朝、瑞音はがばっと起き上がった。
あの後、寝落ちしてしまったらしい。
「先輩!?」
ベッドの上には自分一人しかいない。
慌ててリビングに駆け込むと、スポーツウェア姿の響がいた。
「おはよう」
響のすっきりした表情にホッとする。
「すいません、寝落ちしてしまって! 昨晩は寝られました?」
「この通り、よく寝られたよ。清々しくって、5キロほど走ってきたよ」
「えっ……すごい」
「ついでにブーランジェリーに寄ってきた。朝ご飯はパンでいい?」
響がテーブルの上の紙袋に目をやる。
「あっ、はい」
「筋トレ終わってシャワーを浴びたら、目玉焼きとスムージー作るから待ってて」
そう言うと、響が腕立てを始める。
「そうそう、今日は買い物に行かない? 夜までオフなんだ」
「はいっ! あ、でも大丈夫なんですか? 先輩って芸能人だから……」
恋人ではないとはいえ、二人きりで歩いているのはまずいだろう。
「大丈夫。結構バレないんだ」
響がにこりと笑う。
そして、響の言った通りだった。
帽子をかぶり、眼鏡をかけ、耳にはピアス。
ラフな格好をした響は街に溶け込んでいた。
長身でスタイルがいいせいか、たまに女性が振り向いて目で追ってくるくらいだ。
「ほら、気づかない」
「そ、そうなんですかね……」
チラチラ見てくる女性たちの視線が気になってしょうがない。
「堂々としていれば大丈夫だよ」
響は爽やかな好青年役が多い。
そのせいか、あの映画のホストのような格好をしていると、イメージが違って気づかれにくいようだ。
「ファッションって面白いよなあ。全然気持ちが変わる。フォーマルを着ると背筋が伸びるし、こういう格好はリラックスとテンションアップ」
響の足取りが軽い。
「今日は何を買うんですか?」
「ミルクフォームメーカー。カプチーノを家で作ってみたい」
「先輩、コーヒーが好きですもんね……」
響は食後には必ずコーヒーをドリップしていれている。
瑞音もご相伴に預かるが、とても美味しい。
「カフェ店員の役柄の時にハマってね。あー、自分のカフェを開きたい……」
「先輩ならやっていけそうですよね」
そう口にして、瑞音は少し胸がチクリとするのを感じた。
今もまだ、過去に囚われて何をしたいのかわからない自分とは大違いだ。
大型商業施設を歩いて店を冷やかしていると、響が足を止めた。
「おっ、すごいな。グランドピアノだ」
吹き抜けのロビーに漆黒のグランドピアノが置かれている。
「ストリートピアノだって。昼寝ちゃん、何か弾いてみてよ」
「えっ」
響の無邪気な言葉に瑞音は驚いた。
「私が……?」
「昼寝ちゃんのピアノ、聞いてみたいなあ」
響が首を傾げてこちらを見てくる。
色気のある流し目に、ドキッとする。
(あ、ホストモードだ……)
服装のせいか、以前の役柄が降りてきているようだ。
普段の先輩は、こんな甘えた表情をしない。
(ど、どうしよう……)
高校を卒業してから、ピアノには触れないできた。
敢えて避けていたのだ。
(でも……)
六年の時を経て、目の前に鎮座するグランドピアノを見ると指がうずうずした。
(そうだ、私はピアノを弾くのは好きだった……)
弾いてみたい。
胸の奥底からわき上がる衝動に瑞音は驚いた。
こんなにも強い感情を抱くのは久しぶりだった。
「……そばにいてくれますか?」
「もちろん」
響がにこり、と笑う。
相手をとろけさせる笑みだ。
「わかりました」
(先輩と一緒ならば、きっと大丈夫)
瑞音は思い切ってピアノの方へ向かった。
(ブランクがある。きっとうまく指は動かない。だけど――)
(すごく弾きたい!)
瑞音がピアノの目に座ると、買い物客が足を止める。
皆の視線が集まるのがわかる。
途端に手が冷たくなっていく。
「大丈夫?」
手をこすり合わせていると、響がその上から手を重ねてきた。
「えっ」
「寒いの?」
響の大きな手がゴシゴシと自分の手をさする。
カッと頬が赤くなるのを感じた。
響の熱が手に移ってじんわりと温まるのがわかる。
(うう、ダメ……。集中しなきゃ)
「曲……何がいいですか?」
「えっ、リクエストしていいの?」
響が驚いた顔になったが、すぐに口を開いた。
「じゃあ、あの車のCMで使われている曲がいいな。ショパンの――」
「幻想即興曲ですね」
切ないメロディで人気の曲だ。
瑞音も好きでよく弾いていた。
左右で違うリズムを奏でる必要があり、テンポも速いので難曲と言われている。
(でも――好きで何百回と弾いた曲だもの)
瑞音はそっと鍵盤に手を置いた。
鍵盤の感触に心が踊る。
そこからはもう夢中だった。
何かに取り憑かれたかのような集中力で、瑞音はピアノを弾き続けた。
世界にあるのは自分とピアノだけ。
聴衆については意識の外にあった。
「……っ!」
万雷の拍手に瑞音は我に返った。
気づくと曲を弾き終えていたのだ。
あの後、寝落ちしてしまったらしい。
「先輩!?」
ベッドの上には自分一人しかいない。
慌ててリビングに駆け込むと、スポーツウェア姿の響がいた。
「おはよう」
響のすっきりした表情にホッとする。
「すいません、寝落ちしてしまって! 昨晩は寝られました?」
「この通り、よく寝られたよ。清々しくって、5キロほど走ってきたよ」
「えっ……すごい」
「ついでにブーランジェリーに寄ってきた。朝ご飯はパンでいい?」
響がテーブルの上の紙袋に目をやる。
「あっ、はい」
「筋トレ終わってシャワーを浴びたら、目玉焼きとスムージー作るから待ってて」
そう言うと、響が腕立てを始める。
「そうそう、今日は買い物に行かない? 夜までオフなんだ」
「はいっ! あ、でも大丈夫なんですか? 先輩って芸能人だから……」
恋人ではないとはいえ、二人きりで歩いているのはまずいだろう。
「大丈夫。結構バレないんだ」
響がにこりと笑う。
そして、響の言った通りだった。
帽子をかぶり、眼鏡をかけ、耳にはピアス。
ラフな格好をした響は街に溶け込んでいた。
長身でスタイルがいいせいか、たまに女性が振り向いて目で追ってくるくらいだ。
「ほら、気づかない」
「そ、そうなんですかね……」
チラチラ見てくる女性たちの視線が気になってしょうがない。
「堂々としていれば大丈夫だよ」
響は爽やかな好青年役が多い。
そのせいか、あの映画のホストのような格好をしていると、イメージが違って気づかれにくいようだ。
「ファッションって面白いよなあ。全然気持ちが変わる。フォーマルを着ると背筋が伸びるし、こういう格好はリラックスとテンションアップ」
響の足取りが軽い。
「今日は何を買うんですか?」
「ミルクフォームメーカー。カプチーノを家で作ってみたい」
「先輩、コーヒーが好きですもんね……」
響は食後には必ずコーヒーをドリップしていれている。
瑞音もご相伴に預かるが、とても美味しい。
「カフェ店員の役柄の時にハマってね。あー、自分のカフェを開きたい……」
「先輩ならやっていけそうですよね」
そう口にして、瑞音は少し胸がチクリとするのを感じた。
今もまだ、過去に囚われて何をしたいのかわからない自分とは大違いだ。
大型商業施設を歩いて店を冷やかしていると、響が足を止めた。
「おっ、すごいな。グランドピアノだ」
吹き抜けのロビーに漆黒のグランドピアノが置かれている。
「ストリートピアノだって。昼寝ちゃん、何か弾いてみてよ」
「えっ」
響の無邪気な言葉に瑞音は驚いた。
「私が……?」
「昼寝ちゃんのピアノ、聞いてみたいなあ」
響が首を傾げてこちらを見てくる。
色気のある流し目に、ドキッとする。
(あ、ホストモードだ……)
服装のせいか、以前の役柄が降りてきているようだ。
普段の先輩は、こんな甘えた表情をしない。
(ど、どうしよう……)
高校を卒業してから、ピアノには触れないできた。
敢えて避けていたのだ。
(でも……)
六年の時を経て、目の前に鎮座するグランドピアノを見ると指がうずうずした。
(そうだ、私はピアノを弾くのは好きだった……)
弾いてみたい。
胸の奥底からわき上がる衝動に瑞音は驚いた。
こんなにも強い感情を抱くのは久しぶりだった。
「……そばにいてくれますか?」
「もちろん」
響がにこり、と笑う。
相手をとろけさせる笑みだ。
「わかりました」
(先輩と一緒ならば、きっと大丈夫)
瑞音は思い切ってピアノの方へ向かった。
(ブランクがある。きっとうまく指は動かない。だけど――)
(すごく弾きたい!)
瑞音がピアノの目に座ると、買い物客が足を止める。
皆の視線が集まるのがわかる。
途端に手が冷たくなっていく。
「大丈夫?」
手をこすり合わせていると、響がその上から手を重ねてきた。
「えっ」
「寒いの?」
響の大きな手がゴシゴシと自分の手をさする。
カッと頬が赤くなるのを感じた。
響の熱が手に移ってじんわりと温まるのがわかる。
(うう、ダメ……。集中しなきゃ)
「曲……何がいいですか?」
「えっ、リクエストしていいの?」
響が驚いた顔になったが、すぐに口を開いた。
「じゃあ、あの車のCMで使われている曲がいいな。ショパンの――」
「幻想即興曲ですね」
切ないメロディで人気の曲だ。
瑞音も好きでよく弾いていた。
左右で違うリズムを奏でる必要があり、テンポも速いので難曲と言われている。
(でも――好きで何百回と弾いた曲だもの)
瑞音はそっと鍵盤に手を置いた。
鍵盤の感触に心が踊る。
そこからはもう夢中だった。
何かに取り憑かれたかのような集中力で、瑞音はピアノを弾き続けた。
世界にあるのは自分とピアノだけ。
聴衆については意識の外にあった。
「……っ!」
万雷の拍手に瑞音は我に返った。
気づくと曲を弾き終えていたのだ。


