……余計なことさえ言わなければ、完璧なのにな。
急いで振り返ってカウンターに戻ると、花音ちゃんがお茶を飲み終えたところだった。
母親はまだ笑いながら納品書に目を通している。
「今の方、網江さんですよね?」
「うん。葵の誕生日にブーケ注文しに来た。お茶のお代わりいる?」
「あ、もう大丈夫です。ありがとうございます。誕生日にブーケですか……」
「ご要望があれば、世界一でっかいブーケだって用意するよ?」
「いえ、私は……藤乃さんが祝ってくれるだけで、十分嬉しいです」
「……そっか」
そんなふうに言ってくれるのは、すごく嬉しい。けど、それでも俺は、やっぱり何かしてあげたくなる。
花音ちゃんが持ってきてくれたアンスリウムをバケツに移す。ハイビスカスの鉢も一緒に持ってきてくれたので、そのまま店頭に並べた。
母親が受領書にサインして返すのを見届けてから、裏口に向かった。
「車まで送るよ」
傘を手に取ると、花音ちゃんが「そういえば」と俺を覗き込んだ。
「藤乃さんはお誕生日はいつなんですか?」
「四月一日だよ」
「わ、早生まれなんですね」
「そうそう。いっそ四月二日がよかったんだけどね。しかも、母子手帳見たら夜の十一時とかでさ。あと一時間遅ければ……って、当時ちょっと恨んだよ」
「ふふっ、“藤”だから、てっきり五月生まれかと」
裏口を開けて傘を広げ、台車を押す花音ちゃんに向けてそっと傾けた。
足元は水たまりと泥だらけで、油断したらすっころびそうだ。
「名前の由来は……なんだっけな。昔、授業で親に聞いてこいって課題があって聞いたんだけど、忘れちゃってさ。納得できる理由だった気はするんだけどね」
「私のは……なんだったかな。たしか、“花開いてほしい”とか、そんな意味だったと思います」
「かわいいし、よく似合ってると思う。……いい名前だよ。ずっと呼んでいたくなる」
つい口にしてしまって、花音ちゃんが困ったように見てくる。
「そうですか……? あっ、藤乃さん、肩が濡れてますよ」
花音ちゃんの手が傘に触れて、その拍子に俺の指先にもふれた。あやうく傘を落としかける。
「俺はすぐに店に戻るから大丈夫だよ」
「藤乃さん、私が濡れたら心配するでしょう? 私だって、藤乃さんが風邪をひいたら嫌です」
「……うん。えっと、じゃあ、濡れないように、もうちょっと寄ってもいい?」
「……どうぞ」
少しだけ寄ると、花音ちゃんは口をきゅっと結んで歩き出した。
嫌だったかなあ……。
そわそわしていると、花音ちゃんの片手が台車から離れて、俺のシャツの脇あたりをそっとつかんだ。
「もうちょっと、大丈夫です」
「……ありがと」
車までのわずかな距離を、寄り添って歩いた。近すぎて、俺の騒がしい心臓の音が聞こえてるかもしれない。うるさくて、ごめん。でも、どうしても静かにできなかった。
やっと車について、花音ちゃんが台車を片付ける間、傘を傾ける。車に乗り込んだので傘を引こうとしたら、花音ちゃんがぱっとこちらを見上げて口元に手を当てた。
「あの、耳貸してください」
「なに?」
傘を差したまま屈んで、花音ちゃんの口元に耳を寄せる。
「あのですね」
ふっと当たる息があたたかくて、くすぐったい。飛び退きそうになるのを、なんとかこらえた。
「ずっと、呼んでもらって大丈夫です」
「えっ?」
「私の名前……呼んでもらっていいです。私も、呼びますから。藤乃さんのこと……ずっと」
「……ずっと?」
「はい。……ずっと、です」
やばい。なにそれ……もう、ほとんどプロポーズじゃん。
衝撃が強くてしばらく動けなかったけど、ザアザアと打ちつける雨音で我に返った。
慌てて身体を起こして傘を引くと、花音ちゃんはそっと車のドアを閉めた。
「えっと、では、また」
「う、うん。お疲れさまでした。あ、雨だから運転気をつけてね」
「はい、失礼します……」
一歩下がるとエンジンがかかった。ゆっくりと走り出すのを見送る。
急いで振り返ってカウンターに戻ると、花音ちゃんがお茶を飲み終えたところだった。
母親はまだ笑いながら納品書に目を通している。
「今の方、網江さんですよね?」
「うん。葵の誕生日にブーケ注文しに来た。お茶のお代わりいる?」
「あ、もう大丈夫です。ありがとうございます。誕生日にブーケですか……」
「ご要望があれば、世界一でっかいブーケだって用意するよ?」
「いえ、私は……藤乃さんが祝ってくれるだけで、十分嬉しいです」
「……そっか」
そんなふうに言ってくれるのは、すごく嬉しい。けど、それでも俺は、やっぱり何かしてあげたくなる。
花音ちゃんが持ってきてくれたアンスリウムをバケツに移す。ハイビスカスの鉢も一緒に持ってきてくれたので、そのまま店頭に並べた。
母親が受領書にサインして返すのを見届けてから、裏口に向かった。
「車まで送るよ」
傘を手に取ると、花音ちゃんが「そういえば」と俺を覗き込んだ。
「藤乃さんはお誕生日はいつなんですか?」
「四月一日だよ」
「わ、早生まれなんですね」
「そうそう。いっそ四月二日がよかったんだけどね。しかも、母子手帳見たら夜の十一時とかでさ。あと一時間遅ければ……って、当時ちょっと恨んだよ」
「ふふっ、“藤”だから、てっきり五月生まれかと」
裏口を開けて傘を広げ、台車を押す花音ちゃんに向けてそっと傾けた。
足元は水たまりと泥だらけで、油断したらすっころびそうだ。
「名前の由来は……なんだっけな。昔、授業で親に聞いてこいって課題があって聞いたんだけど、忘れちゃってさ。納得できる理由だった気はするんだけどね」
「私のは……なんだったかな。たしか、“花開いてほしい”とか、そんな意味だったと思います」
「かわいいし、よく似合ってると思う。……いい名前だよ。ずっと呼んでいたくなる」
つい口にしてしまって、花音ちゃんが困ったように見てくる。
「そうですか……? あっ、藤乃さん、肩が濡れてますよ」
花音ちゃんの手が傘に触れて、その拍子に俺の指先にもふれた。あやうく傘を落としかける。
「俺はすぐに店に戻るから大丈夫だよ」
「藤乃さん、私が濡れたら心配するでしょう? 私だって、藤乃さんが風邪をひいたら嫌です」
「……うん。えっと、じゃあ、濡れないように、もうちょっと寄ってもいい?」
「……どうぞ」
少しだけ寄ると、花音ちゃんは口をきゅっと結んで歩き出した。
嫌だったかなあ……。
そわそわしていると、花音ちゃんの片手が台車から離れて、俺のシャツの脇あたりをそっとつかんだ。
「もうちょっと、大丈夫です」
「……ありがと」
車までのわずかな距離を、寄り添って歩いた。近すぎて、俺の騒がしい心臓の音が聞こえてるかもしれない。うるさくて、ごめん。でも、どうしても静かにできなかった。
やっと車について、花音ちゃんが台車を片付ける間、傘を傾ける。車に乗り込んだので傘を引こうとしたら、花音ちゃんがぱっとこちらを見上げて口元に手を当てた。
「あの、耳貸してください」
「なに?」
傘を差したまま屈んで、花音ちゃんの口元に耳を寄せる。
「あのですね」
ふっと当たる息があたたかくて、くすぐったい。飛び退きそうになるのを、なんとかこらえた。
「ずっと、呼んでもらって大丈夫です」
「えっ?」
「私の名前……呼んでもらっていいです。私も、呼びますから。藤乃さんのこと……ずっと」
「……ずっと?」
「はい。……ずっと、です」
やばい。なにそれ……もう、ほとんどプロポーズじゃん。
衝撃が強くてしばらく動けなかったけど、ザアザアと打ちつける雨音で我に返った。
慌てて身体を起こして傘を引くと、花音ちゃんはそっと車のドアを閉めた。
「えっと、では、また」
「う、うん。お疲れさまでした。あ、雨だから運転気をつけてね」
「はい、失礼します……」
一歩下がるとエンジンがかかった。ゆっくりと走り出すのを見送る。



