あのとき、というのは葵さんが高校生になったばかりのときのことだろう。

「まあ、言いにくいのはわかるけどさ。店も忙しい時期だったし。それが落ち着いた初夏くらいに、店に飛び込んできて『藤乃くん、私、好きな人ができたの!』って。驚いたよね」
「……それって、どれに驚いたんですか?」
「全部かなあ。ひどい目にあったのに言わなかったことも、好きな人ができたことも。俺が弟子離れする前に、弟子に師匠離れされちゃってさ」

 藤乃さんは前を見たまま、ぼんやりとつぶやいた。

「まあ、そんな気はしてたんだけどさ。葵はかわいいから。ちゃんと幸せにしてくれて、守ってくれる人が見つかってよかったよ」

 それって、どういう気持ちなんだろう。
 ……藤乃さんは、葵さんをどう思っていたんだろう。

「……藤乃さんって、葵さんのこと、好きだったんですか?」

 我ながら、ずるい聞き方だったと思う。
 あえて過去形で聞いた。もし昔そうだったとしても、今は違うんだよね、って。

「うん。ずっと好きだよ。でも、朝海のとはちょっと違う。俺、あいつのおむつ替えたり、風呂に入れてやったりしてるし、あいつの親父さんと結婚式で一緒に号泣する約束してるからさ」
「なんですか、それ」

 意味がよくわからなくて、つい聞き返してしまった。
 安心していいのかどうか、さっぱりわからない。
 ――安心って、なに?

「葵が大学生になったときに、親父さんと酒飲んでさ。彼氏ができたって号泣する親父さんを慰めて、なんかそういう約束したんだよね。……まあ、できれば俺より後にしてほしいけど」

 藤乃さんがそこまで言ったところで車についた。
 車に乗り込み、ドアを閉めようとしたら、藤乃さんの手がそれを押さえた。
 藤乃さんが屈んで顔を寄せてきたけれど、逆光で表情はまったく見えなかった。
 ドアに添えられた、染料の色が残ったままの指先ばかり見つめてしまう。

「葵には葵の王子様がいるし、俺には俺のお姫様がいる。……いると思ってる。うまく言えないけど、気をつけて帰って。怪我したり、危ない目にあったりしないで。着いたら、ちゃんと連絡して。俺、心配性だから」

 そう言って、藤乃さんはそっと車のドアを閉めた。
 ……それは、藤乃さんが私の王子様になってくれるってことで、いいのかな……?
 いつも攻撃力が高くて、私はやられっぱなしだ。
 シートベルトを締めて、エンジンをかけ、それから窓を開けた。

「……藤乃さんは、最初から私の王子様です。王子様に心配かけたくないので、安全運転で帰ります。今日は遅くまでありがとうございました」

 言うだけ言って、急いで窓を閉めた。
 軽く会釈すると、藤乃さんが一歩下がって手を振ってくれた。
 そっとアクセルを踏んで、車をゆっくり走らせる。
 私の王子様(予定)が、ミラー越しに見えなくなるまで手を振ってくれていた。