しばらく抱きしめて、ゆっくり体を離す。
 名残惜しかったけど、こんな情けない俺を慰めてくれた花音ちゃんに、ここで手を出すのは違う気がして、そっと離れた。

「ありがとう、花音ちゃん。……駐車場まで、一緒に行こう」
「……はい。あ、でも……たまに嫌な夢を見たり、眠れなくなることがあるって、葵さんから聞きました。そういうときは、連絡くださいね」
「でも、そういうときって夜だし」
「大丈夫です。私、子守歌、歌いますから」

 花音ちゃんはにっこり笑って、俺の顔を覗き込んだ。……どうにも、俺はこの子に敵わないらしい。

「……ありがとう。寝かしつけてほしくなったら、連絡するよ」
「はい。お待ちしてます」

 裏口を開けて、ふたりで外に出た。
 昨夜とは打って変わって、雲ひとつない夜空に星がまたたいていた。風がかすかに吹いて、湿った土の匂いがする。
 隣に花音ちゃんがいて、ただそれだけで、すごくいい夜だった。

「藤乃さん、良い夢を」

 花音ちゃんは由紀さんの営業車に乗り込むと、窓を開けてくれた。

「ありがとう。花音ちゃんも、良い夢を。おやすみなさい」

 今なら、キスしても許されるかもしれない――
 そう思って、目を閉じて、ゆっくり開いた。
 花音ちゃんはやわらかく微笑んで、エンジンをかけた。
 一歩下がって車から離れる。
 手を振って、ゆっくり遠ざかっていく車を見送った。

 店に戻って片付けを終わらせる。
 家に帰ると、台所から母親が顔をのぞかせた。

「遅かったわね。何かあった?」
「伝票が一枚見当たらなくてさ。探したら、机の下に落ちてた」
「……そう。さっさと風呂入っちゃって」
「うん」

 シャワーを浴びて、夜ごはんを食べて、自分の部屋に戻った。
 本棚に飾ってある、ガラスケースに入ったピンクのチューリップをそっと手に取る。
 蝶番のきしむ音は、もうどこにも聞こえない。