「ただいま。家に帰ってきて、花音ちゃんが迎えてくれるって……ほんと、最高だ。親父が言ってたことが身にしみてわかったよ」
「お帰りなさい。一緒に帰れるって、やっぱりいいですね……。ただいま、藤乃さん」
「おかえり、花音ちゃん」

 そう言うと、花音ちゃんが照れたように微笑んで俺を見た。
 ……幸せ……!


 去年のホワイトデーにプロポーズをしてから一年半。
 ようやく先ほど結婚式を終えてきた。そして、隣には一緒に帰ってきた花音ちゃん。……目の前には山積みの段ボール。

「昨日のうちに布団だけでも出しておいて正解でしたね……」
「だね。今日はゆっくり休んで、明日から少しずつ片付けようか」
「そうしましょう」
「お風呂一緒に入る?」
「疲れているのでは……?」
「それとこれは別問題なんだよね」

 花音ちゃんは呆れたように笑って、部屋に入っていく。
 崩れそうな段ボールをそっと支える左手には、大きなダイヤの指輪と、細くて控えめなプラチナのリングが並んで光っていた。


 そもそも、こんなに段ボールに囲まれてるのは、ひと月前に実家の水道管が割れたせいだった。
 家中がびしょびしょになって大変だったけど、親父が

「いい機会だから立て直すか」

 なんて言い出した。

「そうねえ。花音ちゃんも越してくるし、そろそろあちこちガタが来てるし、いいタイミングかも」

 母親も頷いて、見積もりを取ったら……一年近くかかるってわかって、さすがに驚いた。
 そもそも家が古いうえに、水浸しで柱まで傷んで、水道管も完全にアウト。一から引き直すしかなかった。幸い、庭の水道は別系統だったから造園業に影響はなかったし、花屋の方もそこから水を引ける。だから、店の建て直しだけなら一か月もあれば済むらしい。
 花音ちゃんも含めて家族みんなで相談して、引き受けてた造園屋の仕事だけ片づけて、結婚式までは休みにすることにした。
 その間にそれぞれの住まいを決めて、俺と花音ちゃんは新婚ってことで、理人に頼んで実家の近くの夫婦向けマンションを二年限定で借りた。二年っていうのは、普通の賃貸契約に合わせただけ。
 親父と母親も、似たようなマンションでふたり暮らしを始めた。
 二人は結婚する前からずっと実家に同居だから、二人で生活するのは初めてだと大はしゃぎで、親父は会うたびに、ふたり暮らしが最高だと延々と語ってきて、うっとうしい。
 ……まあ、気持ちはわかる。
 俺も花音ちゃんと二人きりで寝起きするの最高って思ってる。まだ今日で三日目だけど。


 この部屋には先に俺が入ったんだけど、式の準備と実家の片付けと庭師の仕事を並行してやってて、全然片付いていない。一昨日の夜に花音ちゃんの荷物を運び込んだけど、荷ほどきする暇もなくて、俺が使ってた布団でくっついて寝た。
 それまで一緒に寝てたシャチのぬいぐるみは、今は段ボール箱の上で、もう一匹と仲良く並んでる。

 昨日も一日中、俺は式の準備で、花音ちゃんは引っ越しの手続きでバタバタしてたけど、最低限の荷物だけはなんとか開けて、今日の式に臨んだ。
 正直、バタバタと緊張で頭がいっぱいで、花音ちゃんが最高にきれいだったことしか、ちゃんと覚えてない。ある意味いつも通りだけど、俺の花嫁さんが世界で一番きれいだったし、写真もたくさん残せたから、準備は本当に大変だったけど……やってよかった。
 珍しく瑞希が目を赤くしてたし、葵と理人にもちゃんとブーケを渡せたし、ほんと、苦労した甲斐があった。
 親父たちは、いつも通り騒ぎながら酒を飲んでた。由紀さんとうちの親父、どっちかが死ぬまで、ずっとあの調子で飲んでるんだろう。

 花音ちゃんが浴槽にお湯を張ってる間に、脱衣所の箱を開けてタオルを出した。一緒に洗剤も取り出して、箱をひとつ潰す。

「藤乃さん、お風呂用意できましたよ」
「ありがと。タオルも出したし、入っちゃおう」

 正直、風呂はかなり狭い。
 ……でも、狭いからこそ、花音ちゃんを抱き寄せて湯船に浸かれるのは最高だ。実家じゃ、そもそも一緒に入るなんて無理だったから、こういうのは今のうちに満喫しておきたい。

「明日は一日荷ほどきでしょうか」
「そだねえ。籍、先に入れておいて良かったね」
「ですね。これ以上やること増えたら手が回らないです……」

 そう、籍は半年前に入れた。
 俺と花音ちゃんの誕生日のちょうど真ん中、五月の初めに。式をその日にしなかったのは、単純に二人とも忙しすぎて、とてもじゃないけど無理だったから。
 花関連が一年で一番忙しくなる母の日の前に式をやったら、どっちの親も絶対来られなかった。だから、逆にもう一方の誕生日の真ん中、十月の終わりに式を挙げることにした。

 湯船に浸かりながら、後ろから花音ちゃんを抱きしめる。

「須藤花音さん」
「は、はい。照れますね……」
「慣れてくれると嬉しいな」
「はい。えへへ」
「できれば、敬語もそろそろやめてほしいな」
「努力します。……藤乃くん?」
「……もっかい言って! お願い!」
「なんでそんなに嬉しそうなんですか……?」

 花音ちゃんのお腹の前で絡めた指先で、二人の指輪がふれて、小さくカチンと音が鳴った。

「藤乃さんって、意外と腕が太いですよね」
「そう? もうちょっと太くてもいいかなって思ってた。ほら、瑞希ってがっちりしてるじゃん」

 花音ちゃんは俺の腕をさすった。

「瑞希は、夜とかひたすら筋トレしてますからね。趣味みたいです」
「へえ、そうなんだ? 知らなかったな」
「藤乃さんが泊まりに来てるときとかはしませんね。隠してたのかな」

 そうかも。俺も筋トレしようかなあ……。

「藤乃さんは今のままでいいです。今の藤乃さんが好きだから、そのままでいてください」
「……うん。俺も今の花音ちゃんが、一番好き。ずっと、好きだよ」

 赤い耳に囁く。

「花音ちゃん、顔見せて」
「……恥ずかしいから、無理です」
「残念」

 のぼせる前に風呂から上がる。花音ちゃんと同じ布団で寝るようになって、まだ三日目。けど、式を終えた今日、やっとふたりの生活が始まった気がした。
 目覚ましをセットしようとスマホを手にしたら、お祝いのメッセージがいくつか来ている。ありがたいけど、何も見ないままスマホを伏せた。
 今は、スマホじゃなくて、俺のいちばん大事な子を抱きしめていたかった。


 翌日は、朝からずっと片付け。花音ちゃんは奥の部屋から、俺は玄関側から手をつけた。
 靴の箱をぜんぶ開けて、洗面所を片付けたあと、台所で荷解きしてる花音ちゃんに声をかけた。

「調子どう?」
「あとちょっとです。……藤乃さん、杏仁豆腐って好きでしたっけ?」
「うん。花音ちゃんが作ってくれたから、好きになった」
「前に作ったときの杏仁の素が荷物に入ってて、賞味期限がもうギリギリで……。だから、今のうちに作っておこうかと思って。今作って冷蔵庫に入れておけば、夕方には食べられますよ」
「やった、楽しみ」
「じゃあ、段ボール箱をまとめるの、お願いしてもいいですか?」
「わかった」

 段ボール箱をどんどん潰して、玄関に積み上げていく。
 寝室のダンボールを開けていたら、花音ちゃんがそっと顔をのぞかせた。

「そろそろお昼にしませんか?」

 時計を見たら、たしかに昼を過ぎていた。

「そうしよう。ついでに食料も買いに行こう。冷蔵庫、空っぽだし」

 手をつないでスーパーまで歩いて、調味料と弁当、夜ごはんの食材だけを買ってきた。
 段ボールに囲まれながら弁当を食べて、また片付けを再開した。

「これ、懐かしいですね」
「ああ、それ」

 花音ちゃんが見つけたのは、俺たちが初めてデートに行ったときの、鈴美の個展の目録だった。花音ちゃんはぱらっとめくってから本棚に並べる。次の年の目録も横に置いて、その手前に置いたのは、俺が昔あげたシャクヤクのドライフラワー。
 ……ちゃんと、取っておいてくれてたんだ。
 俺も箱を開けて、チューリップのプリザーブドフラワーを取り出した。
 シャクヤクの隣に置くと、花音ちゃんが目を丸くする。

「それ、私が育てたチューリップですよね?」
「うん。瑞希がくれたやつ」
「新しいものをお持ちしますよ?」
「んー、それは花屋に欲しい。これは俺の宝物だから、棺桶に入れて。できれば手に持たせてほしい」

 そう言うと花音ちゃんは「縁起でもないことを……」と呟く。

「わかりました。じゃあ私の棺桶にはこのシャクヤク入れてください」
「やだよ、俺より先に死なないで」
「藤乃さん、それ、私のセリフなんですよ」

 しょうもないことを言いながら片付けを続ける。
 なんとか夕方までに、段ボールを全部開け終えた。箱を潰して縛っていたら、ちょうどベッドが届いた。
 一人で広いベッドで寝るのが嫌で、ワガママを言って届くのを今日にしてもらっていた。ベッドマットとシーツをふたりで広げて、引っ越し屋さんに電話して、段ボールの引き取りをお願いした。
 結婚式を終えたら、それで一区切りな気がしてたけど、全然そんなことなかった。昨日も思ったけど……本当の始まりって、たぶん今なんだと思う。

 潰した箱を全部玄関に運んでからリビングに戻ると、部屋の端の本棚の前で、花音ちゃんが座り込んでいた。

「花音ちゃん、何見てるの?」
「これ、見てました」

 花音ちゃんの手元には、俺のアルバムがあった。両親が持って行ったと思ってたけど、こっちに紛れてたらしい。

「それ……俺が葵に初めて会ったときの写真だ」
「どっちも、すごくかわいいですね」

 小学生になったばかりの子どもが、ベビーベッドの中の赤ん坊にそっと手を伸ばしている。伸ばした指を小さな手にぎゅっと握られて、思わず目を丸くしている――そんな写真だった。

「初めて見たとき、これが“人間”なんだって、ピンとこなかった。なんていうか……守らないと、すぐ消えちゃいそうでさ」
「……はい」
「まあ、俺が何かしたわけじゃないけどさ。気づいたら大きくなってて、守ってくれる人まで見つけてて……この赤ん坊が、もう婦警さんだもんなあ」

 葵は大学を出て、朝海を追いかけて警察学校に入った。まだ半年だから、訓練漬けらしいけど、たまに会うと逞しくなってて、つい眩しいものを見るような気持ちになる。
 花音ちゃんは静かにページをめくっていた。

「……これって、瑞希と私、ですよね?」
「あ、そうだね。懐かしい」

 桜の木の下で、ピカピカのランドセルを背負った俺と瑞希のあいだに、幼稚園の制服を着た花音ちゃんが並んで写っていた。俺と瑞希は学区が違ったから、きっと親どうしが待ち合わせて撮ったんだろう。
 そのあとも、瑞希はところどころに写っていた。
 小学校の卒業式や中学の入学式。制服は違うけど、笑顔で並んで写っていた。
 中学校の運動会や遠足、卒業式。高校の入学式からは、また瑞希と並ぶ写真が少しずつ増えていった。

「……やたらと瑞希が多いですね」
「高校は一緒だったからさ。瑞希は派手で友達も多くて、俺は逆に地味で、友達も少なかったけど……気づいたら、いつも隣にいるのは瑞希なんだよね」
「いいなあ」
「そう?」
「うらやましいです。藤乃さんと瑞希の写真はこんなにあるのに、私とのは一枚だけで……しかも瑞希も一緒ですし」

 唇を尖らせる花音ちゃんがかわいくて、そっと覗き込んで、顔を寄せる。

「これからたくさん撮ろう。今だって、俺のスマホは花音ちゃんの写真でいっぱいだよ」
「……私のスマホもです。そうですね。結婚式の写真ができたら、それもアルバムに入れましょう」

 花音ちゃんはアルバムをパタンと閉じた。
 本棚に並べて、立ち上がる。

「そろそろ夕飯の支度をしましょうか」
「うん。夕飯終わったら杏仁豆腐も食べたい」
「きっとできてますよ」

 リビングから台所までのほんの少しの距離を、手をつないでゆっくり歩く。
 実家で母親が料理をしている間、親父がずっと台所でウロウロしていたけど、その気持ちが今なら分かる。まあ、結局「邪魔」って追い出されてたけどさ。
 食事を終えて、風呂に入って新しいベッドでくっついて眠る。
 今日は朝から晩まで、この小さな部屋で、花音ちゃんとふたりきりだった。……ずっとこんなふうに過ごせたらいいのに、なんて思ってしまう。

「花音ちゃん」
「はあい」

 腕の中からかわいい声が聞こえる。

「好きだよ」
「私も好きです」
「よかった。ずっとここにいてね」
「いますよ。藤乃さんこそ、ちゃんと……ここにいてくれなきゃ、だめです」

 背中に回された手が、きゅっと力を込めた。

「いるよ。ずっといる」

 そう答えたら、「よかった」と小さく返ってきた。
 温かくて、やわらかくて、胸の奥まで満たされていた。


 翌日から、いよいよ仕事に戻る。花屋も造園屋も休んでいた分、やることは山積みだ。
 花音ちゃんは朝一番から、母親と一緒に市場で農家さんへ挨拶回りに出かけた。店の再開と、新しい家族の紹介も兼ねて。

「よお、藤乃ちゃん。でっかくなったね」

 出迎えてくれたのは葵の祖父の神主さんで、じいさんの幼馴染みであり、俺も小さい頃から世話になっている。

「ご無沙汰してます。先日はご足労いただきありがとうございました」

 神主さんは俺らの結婚式に参加してくれていた。葵と朝海も一緒に。

「こちらこそ。いいお式に呼んでくれてありがとう。須藤と奥さん、ずっと泣いてたね」
「そうだったの?」

 じいさんを振り返ると目を逸らされた。

「知らん!」
「素直じゃないねえ」
「藤乃、くっちゃべってねえで仕事だ仕事! 気ぃ抜けてんじゃねえだろうな?」
「はいはい。では、取りかからせていただきますね」

 神主さんに頭を下げてじいさんの後を追う。


 神社の剪定を終えて実家に戻り、道具を片づけてから着替えて、花屋に顔を出す。母親はブーケを作っていて、親父と花音ちゃんは仕入れた花の世話をしていた。

「あ、藤乃さん。おかえりなさい」
「ただいま。大丈夫? 疲れてない?」
「大丈夫です。藤乃さんこそ、久しぶりでしたけど大丈夫でしたか?」
「ちょっと疲れてたけど、花音ちゃんの顔見たら元気出たよ」
「……よく、親の前でそんなにいちゃつけるわね……」

 母さんが呆れたように言うと、花音ちゃんの頬がほんのり赤くなった。

「親父に似たもので」

 そう返すと、親父が目を丸くした。

「いくら俺だって、親の前でそこまでべたべたしてねえよ」
「そうかしら……?」

 母親が首をかしげて、花音ちゃんが吹き出した。
 そうだね。じいさんがいても、親父は平気で母親にべったりだもんね。
 俺もたぶんそうなる。というか、今、もうそうなってる。

「あ、そうだ。これ、さっき実家から持ってきました」

 花音ちゃんが苗をいくつか取り出した。

「このお家の裏に畑あるじゃないですか。自由に使っていいってお義母さんが言ってくれたので、いくつか育ててみようかと。上手くいけば花屋さんでお出しできますし、量によっては父に頼んで市場に出すこともできると思いますよ」
「うん。楽しみにしてる」
「今日は遅いので、明日植えますね。あと、これ」

 花音ちゃんが店から大きなダリアを持ってきた。

「実家で育てていたんですが、瑞希が収穫して、今日持ってきてくれたんです」
「すごい、色がきれいだし、形がいい。さすがだ」

 深い赤のダリアを手に取って、そっと花音ちゃんの髪に添えた。

「うん。すごく似合う。きれいだよ」
「……それ、ダリアの話ですか?」
「ううん、花音ちゃんの話」
「もー!」

 唇を尖らせながら顔を赤くする花音ちゃんは、すぐに笑ってくれた。
 目の前にいる、ずっと大事にしたかった女の子が、やっと俺のもとにいてくれる。