二月の半ば、須藤造園さんに納品へ行くと、藤乃さんのお父さんが駐車場にいた。顔がやつれている。

「こんにちは。納品に伺いました。お体、具合が悪いんですか?」
「いらっしゃい。今の時期はどうしても忙しくてね、市からの仕事も重なってバタバタしてるんだ。藤乃なら花屋にいるよ。あいつも疲れてるから、声かけてやって」
「かしこまりました。先にこちらの納品を済ませてもよろしいですか? 父から預かってきましたので」

 車から降りて、荷台の苗を下ろす。駅前の改修用に頼まれていたものだ。
 納品書を渡して、付き合わせていく。

「ん、大丈夫。由紀は元気してる?」
「はい。去年この時期に腰を痛めたので、今年は大人しくしてます」
「あはは、また酒持ってくって伝えておいて。じゃあ、ありがとね」

 受領書を受け取って、今度は台車に切り花を積む。
 ガラガラ押して行って花屋さんの裏口の扉を叩くと、「はーい」と明るい声がした。

「花音ちゃん、いらっしゃい」

 顔を出したのは藤乃さんで、やっぱりやつれている。

「お疲れさまです。藤乃さん、顔色、良くないですね……」
「とんでもなく忙しいんだ。葵と鈴美は喧嘩してるし……」

 そう言われて店内を覗くと、葵さんと鈴美さんがにらみ合っていた。二人とも、すごく美人だから迫力がある。……ハブとマングースみたい。
 カウンターの前では、奥さんが手際よくアレンジを作っていた。振り返って、にこっと笑ってくれたので、私もそっと会釈を返した。

「あの二人は気にしなくていいよ。お客さんが来たら、母さんが止めるから。今日は……梅と菜の花、それにチューリップだね。あ、これ、去年もらったチューリップだ」
「はい。いかがでしょうか」

 藤乃さんは黙ったまま、一本ずつ丁寧に確認してバケツに移していく。
 すべての花を確認し終えると、私に椅子をすすめてくれた。

「少しだけ、待っててね」

 藤乃さんの手の中で、赤いチューリップにかすみ草とブプレリウムが添えられて、小さなかわいいブーケができあがった。

「うん、どうかな?」
「……とても、きれいです」
「俺もそう思うよ。素敵な花をありがとう」
「こちらこそ、私たちの花を大切にしてくださって、本当にありがとうございます」
「写真、撮ってもいい?」
「……はい。でも、一緒に撮りたいです」
「あ、じゃあ私が撮るよ」

 気づけば葵さんがカウンターの中に戻っていて、藤乃さんのスマホを受け取っていた。
 撮ってもらった写真は、前に撮ったときと同じ構図だったけれど、あのときより少しだけいい顔ができていた気がした。

「葵もやっと仕事に戻ったし、俺は花音ちゃん送ってくるよ」
「う……ごめんなさい。行ってらっしゃい」

 葵さんにブーケを渡して、藤乃さんと一緒に裏口から出た。

「お忙しそうですね。お義父さんも、少し顔色が悪く見えました」
「うん。バレンタイン、卒業式、ホワイトデー、入学式って続くだろ? そのあとすぐ母の日もあるし。だから俺と母さんが花屋にかかりきりになって、庭師の仕事はじいさんと親父だけ。バイトも雇うけど、やっぱり大変なんだ」

 藤乃さんがそう言って肩を落としたところで駐車場に着いた。
 運転席のドアを開けて、助手席に手を伸ばす。

「少し早いですけど……これ、藤乃さんに。お疲れの気晴らしになれば」

 小さめの紙袋を渡すと、藤乃さんの目が丸くなった。

「……これ、バレンタインの……?」
「はい。藤乃さんみたいにセンスはないんですけど、私なりに、一生懸命選びました」
「そんなことないよ。ありがとう。……すごく嬉しい」

 藤乃さんは、紙袋を持ち上げて、顔を隠してしまった。
 そんなに……?

「ちょ、泣かないでくださいよ。藤乃さんなら、チョコなんていくらでももらえるはずです」
「もらうこともあるけど、そういうことじゃなくてさ。一番好きな子からもらえたのが、嬉しいんだよ。……ホワイトデー、何がいい? 当日は難しいかもしれないけど、ちゃんと用意するから」

 紙袋の向こうから、やっと藤乃さんが照れた顔をのぞかせた。
 でも、ホワイトデーかあ……瑞希と父以外から、もらったことない。

「思いつかない……あ、指輪! 婚約指輪を一緒に取りに行きませんか? それで……そのとき、プロポーズしてくれたら嬉しいです」
「わかった。ちょっと待ってね」

 藤乃さんがスマホを取り出して、何かを調べ始めた。そっと覗くと、婚約指輪をお願いしているお店のページだった。続けてカレンダーを開いて、目を細めている。

「この店、二十時まで営業してるね。店じまいを母さんに頼めば、十八時には出られるから……この日なら、十八時半に迎えに行けると思う」
「はい、大丈夫です」
「よかった。一応両親とじいさんの予定も確認するから、決まったらまた連絡するよ」
「わかりました。私も家で確認しておきます」

 今度こそ車に乗り込もうとすると、藤乃さんの手がそっとドアを押さえた。
 もう一方の手で、私の左手をそっと取る。

「バレンタイン、ありがとう。……本当に嬉しかった」

 そう言いながら、私の左手の薬指の付け根に、そっと唇を落とした。
 ……お、王子様みたい……。
 最近忙しくて忘れてたけど……藤乃さん、こういうの、何気なくやる人だったなあ……。

「い、いえ……喜んでもらえて、よかったです……。それじゃ、失礼します……」
「うん、また」

 藤乃さんがそっと一歩下がったので、私はドアを静かに閉めた。
 窓の外では、藤乃さんが砂糖をまぶしたみたいな甘い笑顔で、優しく手を振っていた。

 小さく手を振り返して、それからふと思いついて、口パクで――

「すき」

 と伝えてみた。
 藤乃さんの顔が一瞬で真っ赤になった。窓をコツンとノックされて開けると、真っ赤な顔のまま、ちょっとだけ睨まれた。

「花音ちゃん……それはずるいと思う」
「ごめんなさい。言いたくなっちゃって……」
「俺だって、ずっと言いたかったよ。でもキリがなくなるし、帰せなくなるから我慢してたんだよ? それなのにさあ」
「言わないほうがいいですか?」
「……ううん。もっと言って。俺も、いっぱい言うから」

 藤乃さんが口元に手を添えたから、私はそっと耳を近づけた。

「俺も……好きだよ」
「えへへ、確かに帰りがたいですね……」
「でしょ。気をつけて帰ってね」
「はい、ありがとうございます」

 手を振って、アクセルをゆっくり踏む。
 ルームミラーには、藤乃さんが、ずっと手を振っている姿が映っていた。


 家に帰って車を降りようとしたらスマホが震えた。
 葵さんの名前が表示されている。

「なんだろう? 珍しい」

 タップすると写真が送られてきていた。

「……これは……」

 そこに写っていたのは、藤乃さんの横顔だった。
 目を細めて、口元はやわらかく緩んでいる。視線の先には、私が贈った小さなブーケ。
 ここ最近、自分用の温室で育てていた花をまとめただけの簡単なものだけど、藤乃さんの好きそうなものを集めたつもりだ。
 それと、一緒に紙袋に入れたチョコもバラをデザインしたものを取り寄せた。

「よかった……こんなに喜んでもらえて」

 この写真、印刷しておこうかな。……見つかったら、やっぱり恥ずかしいかも。
 そんなことを考えながら、今度こそ車を降りた。
 今日はまだ、やるべきことがある。藤乃さんの隣で胸を張れるように、自分の仕事をきちんとやろう。


 ひと月後の夕方、藤乃さんからメッセージが届いて、仕事を切り上げた。

「瑞希ー、行ってくるねー!」
「おうよ」

 見送ってくれる瑞希に手を振って、急いで家に戻った。
 シャワーを浴びて着替えて、支度を終えたところで玄関で呼び鈴が鳴った。
 私より先にお母さんが玄関にいる。

「お忙しいところ、すみません」
「うちは大丈夫よ。須藤さんのほうが大変なんじゃない?」
「あはは、まあ……かなり忙しいですね。でも、今日はちゃんと時間を作りました」
「頑張ってね」

 ……なんでお母さんが、藤乃さんをそんなに応援してるんだろう……?
 プロポーズ、頑張ってって……娘の母親が言うことかなあ?

「お待たせしました」

 首を傾げながら玄関に顔を出すと、スーツ姿の藤乃さんがぱっと笑顔で私を見た。

「花音ちゃん! 今日もかわいいね。いつもかわいいけど、今日は特にきれいに見える」
「あの、藤乃さん、母もいますので……」
「あら、ごめんなさいね。写真、撮っていい?」
「なんで!?」
「桐子さんに送るのよ」

 お母さんはポケットからスマホを出してきて、カメラを向ける。藤乃さんがさらっと私の肩を寄せるから、慌ててカメラに向かって笑顔を作る。

「うんうん、よく撮れたわ。花音にも送るから、藤乃くんにもちゃんと送ってあげてね」
「う、うん。じゃあ、行ってきます」

 藤乃さんがドアを開けてくれる。
 お母さんの笑顔に見送られて、私は玄関をあとにした。


「あの、どうしてスーツなんですか?」
「花音ちゃんがスーツ好きって言ってたから。それに、今日はちょっといいレストランを予約してあって」
「えっ、私もちゃんとした服の方がいいですか?」
「そのままで大丈夫だよ。そのワンピースとハイヒール、とてもよく似合ってる。すごく綺麗だよ」

 藤乃さんは満面の笑みで私の手を取った。
 そのまま電車で移動して、指輪を受け取りに行く。

「いかがでしょうか?」
「すごい、きれい」

 店員さんが出してくれた小箱からキラキラ光る指輪が出てきた。まるで女の子の夢をそのまま形にしたような、大きなダイヤの指輪だった。

「サイズの確認をお願いします」
「俺がつけていい?」
「……はい、お願いします」

 藤乃さんは、指輪をすっと手にして私の左手を取った。指輪がぴたっと薬指の付け根に収まる。

「ゆるかったり、キツかったり、違和感などはありませんか?」
「大丈夫です」
「つけていかれますか?」
「あ、いったん外していい?」

 藤乃さんはそっと指輪を外して、丁寧に箱へ戻した。

「またあとで改めて、ね」
「……はい」

 箱を紙袋に入れてもらって店を出る。藤乃さんは片手に紙袋を持ち、もう一方の手で私の手をやさしく引いた。

「どこに行くんですか?」
「あそこ」

 藤乃さんが指差したのは、駅の横の一際大きいビルだ。
 ビルに入るとエレベーターで一番上まで上がると、正面はレストランの入り口になっていた。藤乃さんが名乗ると、席に案内される。

「コースでいい?」
「あ、はい。大丈夫です!」

 勢いでうなずいたけど、メニューに値段が書いてない……。
 これって、時価……?
 藤乃さんが注文してくれたけれど、値段がわからなくて私は落ち着かない。

「あの、これ……お値段が書かれてなくて……」
「俺が出すから気にしなくていいよ」
「でも……」
「ホワイトデーだから。カッコつけさせて」
「いつも、なにもしなくても、かっこいいです……」

 藤乃さんは柔らかく微笑んで私を見ている。
 恥ずかしくて、つい目をそらしたら、窓の外は夜景が広がっていた。

「わあ……外、すごくきれいですね」

 それで思い出した。
 これは水族館に行ったときに、藤乃さんがしたいって言ってたことだ。
 ――「プロポーズはさ、ちゃんと別にしたかったんだ。いい雰囲気のごはんのときに、指輪も用意してさ」
 たしかに、すごくいい雰囲気。だけど、慣れていないから、胸がそわそわしてしまう。
 藤乃さんはなんでそんなに落ち着いていられるの……?
 ウェイターがテーブルにグラスを二つ置く。私の方にはワイン、藤乃さんは帰りの運転があるから炭酸水。

「せっかくだから飲みたいけど、帰りは車だからね」
「じゃあ、私も控えめにしておきます」

 前菜、スープ、魚料理、肉料理。どれも本当に美味しくて、目の前ではスーツ姿の藤乃さんが、優しい笑顔でずっと私を見つめている。
 ……幸せすぎて、明日死んでしまうんじゃないかって思うくらい。
 そんなことを考えるほどには、今、とても幸せだ。
 デザートを食べ終えたころ、藤乃さんがそっとテーブルに身を乗り出した。

「花音ちゃん。手を出して」
「はい?」

 両手を出したら左手を取られた。そして先ほどの指輪が出てきて、薬指に通される。

「由紀花音さん、俺と結婚してください」
「……喜んで、お願いします。……でも、藤乃さん……ちょっと、かっこつけすぎです」
「うん。花音ちゃんの前では、いつもかっこつけていたいんだ。……まあ、情けないところもいっぱい見られちゃってるけどさ。……花音ちゃん、泣かないで」

 藤乃さんに言われて、はじめて自分が泣いていることに気がついた。なるほど、指輪も藤乃さんの顔も、ぼやけて見えなかったわけだ。

「嬉しくて……。ありがとうございます、藤乃さん」
「どういたしまして。花音ちゃんのこと、一生大切にするよ」
「私も、藤乃さんのこと大事にさせてください」

 涙が落ち着いてから、食後のコーヒーを飲んで、レストランを出る。
 見送ってくれたウェイターが「おめでとうございます」と声をかけてくれて、ちょっと気恥ずかしかったけれど、それ以上に嬉しかった。


 電車で帰って家に着くと、藤乃さんは駐車場へ向かった。

「これ、ホワイトデーのお返し」
「わ……すごいです」

 渡されたのは、大きなバラのブーケ。両腕でやっと抱えられるほどだ。
「このままだと世話が大変だから、小分けにして飾ってね」
「はい……、これ、瑞希のバラですね」
「あ、わかった? さすが」

 藤乃さんはいたずらっ子みたいな顔で笑った。
 瑞希の育てるバラは、私のよりもシンプルで上品。ブーケにするとまとまりがよくて扱いやすいから、須藤さん以外の花屋さんからも人気がある。

「花音ちゃんの言うとおり、花農家の子に花を渡すのはどうかと思ったけど、俺が一番気持ちを込めて渡せるのは、これしかないから」
「ありがとうございます。本当に、嬉しいです」
「ちなみに、これ百八本あるんだ。意味は……自分で調べてみて。一本だけ、花音ちゃんのバラも混ぜてあるから、探してみてね」
「はい。絶対に見つけます」

 ブーケは藤乃さんが持ってくれて、家に向かう。
 玄関を開けると、瑞希が出てきた。

「おかえり。でっか……マジで全部まとめたんだ」
「ただいま。ねえ、瑞希は誰かに花をあげたことある?」
「ない。花は贈るもんじゃなくて、売るもんだから。……で、藤乃、プロポーズした?」
「した」
「お前、こういうキザというか、派手な演出好きだよね」
「うん。わかりやすいでしょ」
「まあ、そうだけど。俺が売った花が妹宛に帰ってくるの、微妙」

 呆れた顔で瑞希はブーケを眺める。
 そうだよね、当たり前だけど、瑞希も知ってたんだ。

「百八本のバラって、どんな意味か知ってる?」
「さあな、自分で調べろ。藤乃は泊まってく?」
「いや、忙しいから帰る。花音ちゃんもまたね。仕事が落ち着いたら、今後のこと決めさせて」
「はい。本当に、今日はありがとうございました」

 藤乃さんは、静かに手を振って帰っていった。
 瑞希がブーケを受け取りながら、私の左手に目をやった。

「へえ、それがそう。嬉しいもんなの?」
「えへへ……嬉しい。なんかそわそわしちゃって、汚したくないから、ちょっと外しておこうかな」
「おふくろが楽しみにしてたから、見せてやれよ」
「うん、そうだね」

 リビングで母に見せたら、目を輝かせて写真を撮っていた。
 父は、

「須藤のプロポーズも相当だったけど、藤乃ちゃんもなかなかだね……。ていうか、孫が須藤に似るのか……やだなあ」

 なんて、また勝手なことを言っている。
 まだ現実じゃないみたいで、胸の奥がふわふわしていた。
 振り返ると、瑞希がブーケをほどいていた。その中に、一輪だけ違うバラが混ざっている。

「あっ、これだ」
「ああ、それか」

 瑞希も気づいたのか、苦笑いした。

「それ持って、こっち向け」

 送られてきた写真には、一輪のバラを持った私が、少し照れた顔で写っていた。
 ホワイトデーだからか、ブーケには白いバラが多く使われていた。ブラウンや緑、明るいオレンジも混ざっている。
 そんな中に、一輪だけ濃いピンクのバラがあった。……花言葉は、「愛を誓う」。

「本当にキザな男だな」
「ほんとにねえ」
「……須藤のプロポーズの上をいくなあ」
「お父さん、それ知ってるの?」
「うん。高校の……進路指導室でプロポーズしてたんだよな、あいつ。俺と進路指導の先生、それに坂木と美園も一緒にいてさ」
「進路指導室で、プロポーズ……?」

 父の思い出話を聞きながら、四人で手分けしてバラを花瓶に分けた。私の部屋用にも、ピンクのバラと、数本を選ぶ。
 花瓶を持って部屋に戻る。
 スマホで百八本のバラの意味を調べた。

「……ほんとに、キザな人だなあ」

 思わず顔が緩む。そっと画面を操作して、藤乃さんの名前をタップする。
 瑞希に送ってもらった写真を添えて、一言だけメッセージを送る。

『私も、愛してます』