正月二日目、俺はじいさんと並んで駅伝を眺めていた。
三が日の間はさすがに店も閉めるし、庭師の仕事も休みだ。両親は仲良く初詣に出かけている。
さっき理人が顔を出して、新年の挨拶をしていった。葵は実家の手伝いで忙しくて、次に会うのは来週のバイトのときになりそうだ。……あいつ、いつまでうちでバイトする気なんだ? 来年は大学四年で、秋には公務員試験を受けるって言ってたし、冬休み前くらいまでかな……。
それならそれで、入れ替わりに花音ちゃんが来てくれたら嬉しいけど……そもそも、俺はまだちゃんと結婚を申し込めていない。
本当は三が日のどこかで会いたかったけど、由紀さんの家に親戚が集まってて、その対応で忙しいって瑞希から聞いていたから、俺からは声をかけられなかった。
「そういえば、ばあさんと初詣行かないの?」
「来週、通院のときに待ち合わせてる」
「俺が結婚したら出てくの?」
「おう。ばあさんと二人で暮らすの、初めてだからな……。早く結婚しろ。ひ孫、楽しみにしてるんだ」
「気が早えよ」
そういえば、そうなのか。うちは家業があるから、代々同居になる。ずっとその中にいるのが嫌で、大学のときは頼み込んで一人暮らしさせてもらったけど、あれはあれで気楽で楽しかった。……俺も、一度くらいは花音ちゃんと二人暮らし、してみたかったな。
テレビでは往路の優勝が決まり、上位グループが続々とゴールしていた。
じいさんが順位にあれこれ言うのを聞き流していたら、スマホが震えた。
「はい? どうした瑞希。親戚来てるんじゃねえの?」
『あ、藤乃ちゃん? ちょっと来て。今すぐ』
「は? あ、由紀さん?」
『酒飲んでる?』
「飲んでないです」
『じゃあ来て。すぐに。親父には俺から言っとく』
それだけ言って、通話は切れた。
「なんだ……?」
「由紀の小僧か。相変わらず雑だな。まあいい、わしもばあさんと駅伝の感想会やるから、さっさと行け」
「え、なにそれ、そんなのしてたの? よくわかんないけど、行ってくる」
部屋に戻って、着替えるとまたスマホが震えて、瑞希の名前が表示された。今度はメッセージで、
『親父ぶち切れてるから、早く』
と表示されている。
冷や汗がにじんだ。……俺、由紀さんに、いや、花音ちゃんに、何かやらかした……?
車を走らせて、由紀さんの家に着いた。
駐車場から瑞希に『着いた』とメッセージを送って、家まで歩く。
呼び鈴を押すと、すぐに扉が開いた。
「遅い」
「す、すみません……」
出てきたのは由紀の親父さんで、確かに怒っていた。
顔が真っ赤なのは、たぶん酒のせい。怒ってるのに笑ってるとこは、瑞希にそっくりだった。
とにかく靴を脱いで上がらせてもらう。
「花音! お前の旦那が来たぞ!」
「えっ、藤乃さん!? なんで来たの!?」
ばたばたと足音がして、花音ちゃんが勢いよく飛び出してきた。後ろで瑞希が、申し訳なさそうに『ごめん』とジェスチャーしている。
「花音ちゃん、明けましておめでとうございます。今年もよろしく」
「あ、はい。明けましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
「由紀さんも、ご挨拶が遅れまして」
「こっち」
由紀さんは何も言わず、俺の腕をつかんで廊下をずんずん進んでいく。
「ちょっと、お父さん!」
花音ちゃんが慌てたように引き留めるけど、全然聞いてない。
連れて行かれた先は客間で、夫婦らしき人たちが二組、それに子供たちが座っていた。
「待たせたな。これ、うちの婿。須藤の長男だから、よろしく」
由紀さんは何の前触れもなく、俺を前にぐっと押し出した。
座っていた人たちは、全員俺を見て目を丸くした。
「ほ、ほんとにいたの……?」
「えっと、初めまして。須藤藤乃と申します。花音さんとは、結婚を前提にお付き合いさせていただいております」
混乱しながらも頭を下げると、その場が静まりかえった。
由紀さんが俺の肩に手を乗せた。
「そういうことだ。これからは、花音への暴言は須藤への暴言と受け取る。そのつもりでいろよ」
……暴言?
それで、思い出した。ばあさんの家に行ったとき、花音ちゃんが言っていた。
――「金食い虫の娘って言われてます」
……ああ、この人たちだったんだ。
頭の奥が、すっと冷たくなった。
「花音さんは由紀さんの大切な娘さんですが、須藤家にとっても大事なお嫁さんですし、僕にとってはかけがえのない妻です。何かあれば、須藤の次期当主として、きちんとお話させていただきます」
「ふふん、頼もしい婿殿だ。そういうことだ。何か言いたいことはあるか?」
誰も何も言わない。由紀さんの目配せにうなずき、一歩引いた。
「突然お邪魔してしまい、失礼いたしました」
軽く頭を下げて、客間を出る。廊下に出ると、瑞希と花音ちゃんが待ち構えていた。
「こっち」
瑞希が囁いて、リビングを指さす。花音ちゃんも頷くので二人と一緒に移動すると、二人のおふくろさんが、笑顔で出迎えてくれた。
「ごめんなさいね、突然」
「いえ、ちょうど駅伝が終わったところだったので、ちょうどよかったです。……なんとなく察したけど、あれで大丈夫だった?」
瑞希と花音ちゃんの方を向くと、二人は目を見合わせた。
「どうだった?」
肩をすくめる瑞希に、花音ちゃんは真顔で俺を見た。
「……すごく、かっこよかったです。夫になっていただけますか?」
「プロポーズされた……? 待って、それ俺の役目。花音ちゃん、このあと用事ある?」
「ないです」
「じゃあ、婚約指輪を買いに行こう。それでプロポーズするから」
「……逆にしてなかったのか……?」
瑞希にニコッと微笑んでから、おふくろさんのほうに向き直る。
「今日の午後、花音さんを少しお借りしてもよろしいですか?」
「いいけど、お昼食べて行きなさいよ。おせちの残りとお雑煮くらいしかないけど、お雑煮は花音作だから」
「ありがとうございます。いただきます」
「よ、用意してきますね!」
花音ちゃんが台所へ向かい、俺は瑞希と一緒にリビングのテーブルについた。
「ていうか、何があったの?」
「まあ、藤乃の予想通りだと思うけど。さっき客間にいたのは、親父の妹夫婦でさ……妹二人とも、ちょっとブラコン気味なんだよね。だから親父のいないところで、お袋とか花音にちくちく嫌味を言ってたんだけど、うっかり親父の前でやっちゃって……」
「何言ったの?」
「顔が怖い……。あのな、『大学まで出た金食い虫のくせに、浮いた話ひとつない行き遅れ』って……ちょ、待て、俺が言ったわけじゃないからな? その上、『うちの息子たちを当てにしないで』とかもあってさ。で、親父がブチ切れてお前を呼んだってわけ」
客間に戻ってキレ散らかしたいけど、腰を浮かせかけたところで花音ちゃんがお盆を持って台所から出てきた。
「お待たせしました。お餅は一つだけ入れてあります。足りなかったら、遠慮なく言ってくださいね」
「……ありがとう。なんか、泣きそう」
「えっ、そんなにお餅好きでしたか……?」
「俺が好きなのは、花音ちゃんだから……」
お椀を俺と瑞希の前に置いて、花音ちゃんは首をかしげている。
「……さっきの話をしてたんだよ」
「ああ、叔母さんたちの。ふふ、いい顔してましたね。ざまあ見ろ、って感じでした。……えっ、藤乃さん、なんで泣いてるんですか……?」
花音ちゃんが、どこからかタオルを持ってきて、そっと俺の顔を拭いてくれた。
おふくろさんがお重を持ってやってきた。
「花音、また藤乃くんを泣かせたの?」
「泣かせてないよ。お雑煮渡したら泣き出しちゃった」
「す、すみません……。花音ちゃんがあんなにひどいことを言われてるのに、全然気にしてないのを見たら、なんだか悲しくなって……。それって、暴言に慣れるくらい言われてたってことですよね」
「……まあ、そうねえ。私がちゃんと夫に報告すべきだったわ。ごめんね花音」
花音ちゃんは、困ったように俺とおふくろさんの顔を交互に見ていた。
困らせたいわけじゃなかったのに。
「花音ちゃん、またひどいこと言われたら、教えて。俺がちゃんと怒るから。前に、花音ちゃんも怒ってくれたでしょう」
「……ありがとうございます、藤乃さん。すごく、うれしかったです」
いつの間にか瑞希はお重を開けて食べ始めている。
俺もありがたくいただこう。
お節もお雑煮も美味しくて、お代わりさせてもらう。
「おいしい……ほんとに、おいしいです」
「そうですか? よかったです」
「来年から、これを食べられると思うと……俺、すごく幸せです」
「えっ、お雑煮は須藤さんの家のものにあわせますよ?」
「やだ! 俺は、花音ちゃんが作ったお雑煮が食べたい!」
「せめて、一緒に作りましょう。私だって、須藤さんの家のお雑煮、食べてみたいですし」
お腹いっぱいごちそうになって、客間でもう一度ご挨拶してから、由紀さんの家を出た。
車はそのまま置かせてもらって、バスで駅まで向かった。
繁華街へ向かうには、電車のほうが便利だ。
バスを降りて改札に向かう途中、ふと隣を歩く花音ちゃんを見ると、全身がふわふわで、もこもこだった。
大判のストールをぐるりと巻いて、短めのダウンにスキニー、ショートブーツ。かっこよさとかわいさがちょうどよくて、つい見とれてしまう。
「花音ちゃん、今日もかわいいね」
「なんですか、いきなり」
「もこもこに埋もれてる花音ちゃんかわいいなって思って。あとで、ニット帽買って被せていい?」
「かまいませんけど……じゃあ、お揃いにしましょう。藤乃さん、帽子、似合いそうです」
俺を見て微笑む花音ちゃんがかわいくて、キスしたくなる。でも、さすがに改札のど真ん前じゃ無理だよな。
でもせめて何か言いたいから、改札を抜けてから手をつなぎ直す。
「花音ちゃん、好きだよ」
「な、なんですか……もう。私も好きです」
「今日は、いつもの三倍甘やかすから」
「お手柔らかにお願いします……」
ホームは混んでいて、並んで歩くのが難しいくらい。電車はさらに混んでいて、それに乗じて、そっと花音ちゃんを抱き寄せた。
「藤乃さん、電車であんまりくっつかれるのは恥ずかしいです」
「混んでるし、眼鏡が曇って前が見えないんだ。だから、離れられない」
「どんな言い訳ですか、それ。……仕方ないですね」
甘やかすつもりだったのに、結局、俺のほうが甘やかされてる。
まあ、いいか。俺が花音ちゃんに甘やかされてるのは前からだ。
目的の駅で電車を降りて、花音ちゃんと並んでデパートへ向かった。
「とはいえ、思いつきで来ちゃったから、あんまりイメージが湧かなくて」
「私もです。いただけるとは思っていなかったので……。先に、少し調べてから行きませんか?」
近くのカフェのカウンター席に並んで、スマホを一緒に覗き込む。
メジャーなデザインを確認して、ついでに価格の相場も見ておく。
「ふうん。でも、値段は気にしなくていいよ。花音ちゃんが“かわいい”“つけたい”って思うものを選んで」
「一応予算だけでも教えてほしいのですが」
「六桁後半から、七桁前半までは出せるよ」
「……相場より、ずっと高いです……」
花音ちゃんが眉をひそめた。思わず眉間のシワを指でなぞったら、叱られた。
「実家暮らしだし、忙しくてお金を使う暇がないから貯まるんだよ」
「それはわかりますけど……」
渋い顔のままの花音ちゃんの手を握った。
「それに、牽制だからね。指輪ひとつで、花音ちゃんが軽く見られなくなって、ナンパもされなくなって、嫌な思いをしなくてすむなら――俺は全財産吐き出します」
花音ちゃんは目を丸くしてから、ふふっと笑った。
「ありがとうございます。でも、全財産なんて使っちゃダメですよ。結婚するなら、他にもっと必要なものがいろいろあるんですから」
「そうだね……そもそも、結婚するってなったら何が必要なんだっけ。婚約指輪に結婚指輪、式に披露宴……それから新婚旅行?」
「そうですねえ。必要なら、式の前撮りとかもあるでしょうか。……きっと、一番大変なのは式と披露宴ですよね」
「そうだね……」
両親やじいさんにも言われたけど、地域との付き合いを考えると、披露宴は盛大にやる必要がある。須藤と由紀、それぞれに関係する取引先や地元の人を招かないといけない。
そんなのは、家を継ぐと決めたときからわかっていたけど。
「……花音ちゃん、一緒に頑張ってくれる?」
「もちろんです」
「じゃあ、そろそろ行こうか」
また手をつないで歩き出す。
デパートの宝飾品フロアは、きらびやかな宝石があちこちできらめいていた。目星をつけていた店に向かう。
「これ、かわいいです」
「ご試着も可能です。指輪のサイズはおわかりですか? おはかりしますよ」
「お願いします!」
花音ちゃんはいくつか指輪を試していた。
正直、俺には違いがわからないけど、花音ちゃんが気に入ってくれればそれでいい。
……思いつきで、こんな大事なものを選ばせてるのが申し訳なくもあるけど。
「藤乃さん、これとこれ、どっちがいいと思いますか?」
「ごめん、俺には違いがわからない……」
「値段と石の大きさです。大きすぎると、普段つけるには邪魔かなって……」
「失礼ですが、こちらはどういった用途でお使いの予定でしょうか?」
店員さんが花音ちゃんに笑顔を向ける。
「婚約指輪です」
「でしたら、普段使いするものではありませんので、大きい石にされても良いと思いますよ。結婚指輪と重ねづけされるのでしたら、こちらのセットリングもお勧めです」
「なるほど……ますます悩みますね……」
「それなら、大きいほうにしよう。牽制にもなるし」
「はあ……」
戸惑ったような顔をしている花音ちゃんに、店員さんは目を輝かせていた。悩むなら高いほうを買ってほしいのは、商売人として気持ちはわかる。
「頼もしいご主人ですねえ……」
「そうでしょうか……?」
「言ったでしょう。この指輪は、君にプロポーズするためのものだけど、つけてることで少しでも嫌な思いを減らせたらって思ってる。結婚指輪はまた別に見に来よう。普段使いできるシンプルなのでもいいし、セットリングでもいいし」
花音ちゃんは難しい顔で黙り込んでしまった。
あれこれ言い過ぎたかな。
でも、言ったことは全部本音だ。
「えっと、はい。じゃあ、婚約指輪はこの大きいほうでお願いします。結婚指輪は、後日相談ということで」
「ありがとうございます。そうしましたら、こちらのお席へどうぞ」
店員さんに連れられて、個室へ移動する。サイズの確認や、内側の刻印を決めて、注文する。手元に届くまでには三ヶ月近くかかるらしい。
デパートを出ると、まだ夕方にはなっていなかった。
一軒目で決めちゃったから、時間が余っている。
「花音ちゃん」
「なんでしょう?」
「思いつきでふらふらして悪いんだけど、少し休んで行きませんか?」
「えっと、それは……」
スマホで近くの落ち着けそうな場所を探して、花音ちゃんに画面を見せると、目を丸くした。
「……その、嫌じゃなければ」
「嫌なんてこと、ないです」
「よかった」
手をつないだまま、二人で歩く。
二時間ほどゆっくりしてから、花音ちゃんの家まで、また電車で戻る。
「ただいまー」
「お邪魔します」
「おっかえりー」
由紀さんの家に戻ると、なぜかやたらと上機嫌な親父が出てきた。
「何してんの……」
「由紀と飲みに来ました! 藤乃は飲むなよ、帰り運転な!」
「桐子さんは、うちのかみさんと飲んでるよ!」
由紀さんも機嫌よくビールの缶を振っている。
「お父さん……。叔母さんたちは?」
「帰した!うるせーから!」
ゲラゲラ笑いながら、親父と由紀さんは客間に入っていく。覗きこんだら、酒瓶とつまみが散らかっていたのでそっと扉を閉めておいた。
「うるさいのは親父だよ。で、藤乃、プロポーズできた?」
「できてない」
「何しに行ったんだ……? とりあえず上がれよ。花音もおかえり」
「ただいま」
瑞希の後に付いてリビングに行くと、由紀さん……お袋さんが、うちの母親に盛大に愚痴っていた。
「ほんともー! あの人たちもう五十前なのよ!? お兄ちゃんお兄ちゃんと気持ちの悪い!」
「藤乃、お帰り。プロポーズした?」
「……してないです」
「しなさいよ、もう! 奥手ね!」
顔を真っ赤にした由紀のおふくろさんに怒られた。
「す、すみません……。指輪ってすぐできないんですね」
「できるわけないでしょ!? 花音、どんなのにしたの?」
「えっ、これ」
花音ちゃんがもらったパンフレットを母親たちと見ている。
瑞希が寄ってきて、耳元で囁いた。
「どのくらい?」
俺は無言で両手を広げてみせた。
「これくらい」
「それって高いの?」
「さあ。普通じゃない? 指輪ひとつで親戚の嫌味が止まるなら、安いもんだろ」
「甘いわよ、藤乃」
聞いてたらしい俺の母親が顔をしかめて振り返った。
「私ね、お義兄さんに『須藤家を乗っ取った女狐』って呼ばれてるのよ」
「それ、親父知ってる?」
「知ってるから、お義兄さんと会うときは私から離れないのよ」
なんていうか……俺、一人っ子で良かった。少なくとも花音ちゃんにそういうことを言う兄妹は居ない。言いかねない従姉がいるけど……。
母親たちと花音ちゃんは指輪の話に戻って盛り上がってるし、気づいたら花音ちゃんもビールを飲んでいる。
「瑞希は飲まねえの?」
「……いや、どっちにも混ざりたくねえよ。藤乃腹減ってない? ラーメン食べに行こう」
瑞希があまりに嫌そうな顔をするから思わず吹き出した。
「うん、行く。花音ちゃん、俺、瑞希とラーメン食べてくるね」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけて。お兄ちゃん、その人私のだから、貸してあげるけど返してね」
「お前は何なんだよ……」
「その人の奥さん」
「……はいはい。お前の旦那、借りていくよ。藤乃、にやけてないで行くぞ。ていうか、今さらプロポーズって必要か?」
「いるよ。けじめなんだよ」
車の鍵を掴む瑞希について行く。花音ちゃんが手を振ってくれたので、振り返した。
早く、その手に指輪をはめて、俺の大切な人だと、誰の目にもわかるようにしたい。
三が日の間はさすがに店も閉めるし、庭師の仕事も休みだ。両親は仲良く初詣に出かけている。
さっき理人が顔を出して、新年の挨拶をしていった。葵は実家の手伝いで忙しくて、次に会うのは来週のバイトのときになりそうだ。……あいつ、いつまでうちでバイトする気なんだ? 来年は大学四年で、秋には公務員試験を受けるって言ってたし、冬休み前くらいまでかな……。
それならそれで、入れ替わりに花音ちゃんが来てくれたら嬉しいけど……そもそも、俺はまだちゃんと結婚を申し込めていない。
本当は三が日のどこかで会いたかったけど、由紀さんの家に親戚が集まってて、その対応で忙しいって瑞希から聞いていたから、俺からは声をかけられなかった。
「そういえば、ばあさんと初詣行かないの?」
「来週、通院のときに待ち合わせてる」
「俺が結婚したら出てくの?」
「おう。ばあさんと二人で暮らすの、初めてだからな……。早く結婚しろ。ひ孫、楽しみにしてるんだ」
「気が早えよ」
そういえば、そうなのか。うちは家業があるから、代々同居になる。ずっとその中にいるのが嫌で、大学のときは頼み込んで一人暮らしさせてもらったけど、あれはあれで気楽で楽しかった。……俺も、一度くらいは花音ちゃんと二人暮らし、してみたかったな。
テレビでは往路の優勝が決まり、上位グループが続々とゴールしていた。
じいさんが順位にあれこれ言うのを聞き流していたら、スマホが震えた。
「はい? どうした瑞希。親戚来てるんじゃねえの?」
『あ、藤乃ちゃん? ちょっと来て。今すぐ』
「は? あ、由紀さん?」
『酒飲んでる?』
「飲んでないです」
『じゃあ来て。すぐに。親父には俺から言っとく』
それだけ言って、通話は切れた。
「なんだ……?」
「由紀の小僧か。相変わらず雑だな。まあいい、わしもばあさんと駅伝の感想会やるから、さっさと行け」
「え、なにそれ、そんなのしてたの? よくわかんないけど、行ってくる」
部屋に戻って、着替えるとまたスマホが震えて、瑞希の名前が表示された。今度はメッセージで、
『親父ぶち切れてるから、早く』
と表示されている。
冷や汗がにじんだ。……俺、由紀さんに、いや、花音ちゃんに、何かやらかした……?
車を走らせて、由紀さんの家に着いた。
駐車場から瑞希に『着いた』とメッセージを送って、家まで歩く。
呼び鈴を押すと、すぐに扉が開いた。
「遅い」
「す、すみません……」
出てきたのは由紀の親父さんで、確かに怒っていた。
顔が真っ赤なのは、たぶん酒のせい。怒ってるのに笑ってるとこは、瑞希にそっくりだった。
とにかく靴を脱いで上がらせてもらう。
「花音! お前の旦那が来たぞ!」
「えっ、藤乃さん!? なんで来たの!?」
ばたばたと足音がして、花音ちゃんが勢いよく飛び出してきた。後ろで瑞希が、申し訳なさそうに『ごめん』とジェスチャーしている。
「花音ちゃん、明けましておめでとうございます。今年もよろしく」
「あ、はい。明けましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
「由紀さんも、ご挨拶が遅れまして」
「こっち」
由紀さんは何も言わず、俺の腕をつかんで廊下をずんずん進んでいく。
「ちょっと、お父さん!」
花音ちゃんが慌てたように引き留めるけど、全然聞いてない。
連れて行かれた先は客間で、夫婦らしき人たちが二組、それに子供たちが座っていた。
「待たせたな。これ、うちの婿。須藤の長男だから、よろしく」
由紀さんは何の前触れもなく、俺を前にぐっと押し出した。
座っていた人たちは、全員俺を見て目を丸くした。
「ほ、ほんとにいたの……?」
「えっと、初めまして。須藤藤乃と申します。花音さんとは、結婚を前提にお付き合いさせていただいております」
混乱しながらも頭を下げると、その場が静まりかえった。
由紀さんが俺の肩に手を乗せた。
「そういうことだ。これからは、花音への暴言は須藤への暴言と受け取る。そのつもりでいろよ」
……暴言?
それで、思い出した。ばあさんの家に行ったとき、花音ちゃんが言っていた。
――「金食い虫の娘って言われてます」
……ああ、この人たちだったんだ。
頭の奥が、すっと冷たくなった。
「花音さんは由紀さんの大切な娘さんですが、須藤家にとっても大事なお嫁さんですし、僕にとってはかけがえのない妻です。何かあれば、須藤の次期当主として、きちんとお話させていただきます」
「ふふん、頼もしい婿殿だ。そういうことだ。何か言いたいことはあるか?」
誰も何も言わない。由紀さんの目配せにうなずき、一歩引いた。
「突然お邪魔してしまい、失礼いたしました」
軽く頭を下げて、客間を出る。廊下に出ると、瑞希と花音ちゃんが待ち構えていた。
「こっち」
瑞希が囁いて、リビングを指さす。花音ちゃんも頷くので二人と一緒に移動すると、二人のおふくろさんが、笑顔で出迎えてくれた。
「ごめんなさいね、突然」
「いえ、ちょうど駅伝が終わったところだったので、ちょうどよかったです。……なんとなく察したけど、あれで大丈夫だった?」
瑞希と花音ちゃんの方を向くと、二人は目を見合わせた。
「どうだった?」
肩をすくめる瑞希に、花音ちゃんは真顔で俺を見た。
「……すごく、かっこよかったです。夫になっていただけますか?」
「プロポーズされた……? 待って、それ俺の役目。花音ちゃん、このあと用事ある?」
「ないです」
「じゃあ、婚約指輪を買いに行こう。それでプロポーズするから」
「……逆にしてなかったのか……?」
瑞希にニコッと微笑んでから、おふくろさんのほうに向き直る。
「今日の午後、花音さんを少しお借りしてもよろしいですか?」
「いいけど、お昼食べて行きなさいよ。おせちの残りとお雑煮くらいしかないけど、お雑煮は花音作だから」
「ありがとうございます。いただきます」
「よ、用意してきますね!」
花音ちゃんが台所へ向かい、俺は瑞希と一緒にリビングのテーブルについた。
「ていうか、何があったの?」
「まあ、藤乃の予想通りだと思うけど。さっき客間にいたのは、親父の妹夫婦でさ……妹二人とも、ちょっとブラコン気味なんだよね。だから親父のいないところで、お袋とか花音にちくちく嫌味を言ってたんだけど、うっかり親父の前でやっちゃって……」
「何言ったの?」
「顔が怖い……。あのな、『大学まで出た金食い虫のくせに、浮いた話ひとつない行き遅れ』って……ちょ、待て、俺が言ったわけじゃないからな? その上、『うちの息子たちを当てにしないで』とかもあってさ。で、親父がブチ切れてお前を呼んだってわけ」
客間に戻ってキレ散らかしたいけど、腰を浮かせかけたところで花音ちゃんがお盆を持って台所から出てきた。
「お待たせしました。お餅は一つだけ入れてあります。足りなかったら、遠慮なく言ってくださいね」
「……ありがとう。なんか、泣きそう」
「えっ、そんなにお餅好きでしたか……?」
「俺が好きなのは、花音ちゃんだから……」
お椀を俺と瑞希の前に置いて、花音ちゃんは首をかしげている。
「……さっきの話をしてたんだよ」
「ああ、叔母さんたちの。ふふ、いい顔してましたね。ざまあ見ろ、って感じでした。……えっ、藤乃さん、なんで泣いてるんですか……?」
花音ちゃんが、どこからかタオルを持ってきて、そっと俺の顔を拭いてくれた。
おふくろさんがお重を持ってやってきた。
「花音、また藤乃くんを泣かせたの?」
「泣かせてないよ。お雑煮渡したら泣き出しちゃった」
「す、すみません……。花音ちゃんがあんなにひどいことを言われてるのに、全然気にしてないのを見たら、なんだか悲しくなって……。それって、暴言に慣れるくらい言われてたってことですよね」
「……まあ、そうねえ。私がちゃんと夫に報告すべきだったわ。ごめんね花音」
花音ちゃんは、困ったように俺とおふくろさんの顔を交互に見ていた。
困らせたいわけじゃなかったのに。
「花音ちゃん、またひどいこと言われたら、教えて。俺がちゃんと怒るから。前に、花音ちゃんも怒ってくれたでしょう」
「……ありがとうございます、藤乃さん。すごく、うれしかったです」
いつの間にか瑞希はお重を開けて食べ始めている。
俺もありがたくいただこう。
お節もお雑煮も美味しくて、お代わりさせてもらう。
「おいしい……ほんとに、おいしいです」
「そうですか? よかったです」
「来年から、これを食べられると思うと……俺、すごく幸せです」
「えっ、お雑煮は須藤さんの家のものにあわせますよ?」
「やだ! 俺は、花音ちゃんが作ったお雑煮が食べたい!」
「せめて、一緒に作りましょう。私だって、須藤さんの家のお雑煮、食べてみたいですし」
お腹いっぱいごちそうになって、客間でもう一度ご挨拶してから、由紀さんの家を出た。
車はそのまま置かせてもらって、バスで駅まで向かった。
繁華街へ向かうには、電車のほうが便利だ。
バスを降りて改札に向かう途中、ふと隣を歩く花音ちゃんを見ると、全身がふわふわで、もこもこだった。
大判のストールをぐるりと巻いて、短めのダウンにスキニー、ショートブーツ。かっこよさとかわいさがちょうどよくて、つい見とれてしまう。
「花音ちゃん、今日もかわいいね」
「なんですか、いきなり」
「もこもこに埋もれてる花音ちゃんかわいいなって思って。あとで、ニット帽買って被せていい?」
「かまいませんけど……じゃあ、お揃いにしましょう。藤乃さん、帽子、似合いそうです」
俺を見て微笑む花音ちゃんがかわいくて、キスしたくなる。でも、さすがに改札のど真ん前じゃ無理だよな。
でもせめて何か言いたいから、改札を抜けてから手をつなぎ直す。
「花音ちゃん、好きだよ」
「な、なんですか……もう。私も好きです」
「今日は、いつもの三倍甘やかすから」
「お手柔らかにお願いします……」
ホームは混んでいて、並んで歩くのが難しいくらい。電車はさらに混んでいて、それに乗じて、そっと花音ちゃんを抱き寄せた。
「藤乃さん、電車であんまりくっつかれるのは恥ずかしいです」
「混んでるし、眼鏡が曇って前が見えないんだ。だから、離れられない」
「どんな言い訳ですか、それ。……仕方ないですね」
甘やかすつもりだったのに、結局、俺のほうが甘やかされてる。
まあ、いいか。俺が花音ちゃんに甘やかされてるのは前からだ。
目的の駅で電車を降りて、花音ちゃんと並んでデパートへ向かった。
「とはいえ、思いつきで来ちゃったから、あんまりイメージが湧かなくて」
「私もです。いただけるとは思っていなかったので……。先に、少し調べてから行きませんか?」
近くのカフェのカウンター席に並んで、スマホを一緒に覗き込む。
メジャーなデザインを確認して、ついでに価格の相場も見ておく。
「ふうん。でも、値段は気にしなくていいよ。花音ちゃんが“かわいい”“つけたい”って思うものを選んで」
「一応予算だけでも教えてほしいのですが」
「六桁後半から、七桁前半までは出せるよ」
「……相場より、ずっと高いです……」
花音ちゃんが眉をひそめた。思わず眉間のシワを指でなぞったら、叱られた。
「実家暮らしだし、忙しくてお金を使う暇がないから貯まるんだよ」
「それはわかりますけど……」
渋い顔のままの花音ちゃんの手を握った。
「それに、牽制だからね。指輪ひとつで、花音ちゃんが軽く見られなくなって、ナンパもされなくなって、嫌な思いをしなくてすむなら――俺は全財産吐き出します」
花音ちゃんは目を丸くしてから、ふふっと笑った。
「ありがとうございます。でも、全財産なんて使っちゃダメですよ。結婚するなら、他にもっと必要なものがいろいろあるんですから」
「そうだね……そもそも、結婚するってなったら何が必要なんだっけ。婚約指輪に結婚指輪、式に披露宴……それから新婚旅行?」
「そうですねえ。必要なら、式の前撮りとかもあるでしょうか。……きっと、一番大変なのは式と披露宴ですよね」
「そうだね……」
両親やじいさんにも言われたけど、地域との付き合いを考えると、披露宴は盛大にやる必要がある。須藤と由紀、それぞれに関係する取引先や地元の人を招かないといけない。
そんなのは、家を継ぐと決めたときからわかっていたけど。
「……花音ちゃん、一緒に頑張ってくれる?」
「もちろんです」
「じゃあ、そろそろ行こうか」
また手をつないで歩き出す。
デパートの宝飾品フロアは、きらびやかな宝石があちこちできらめいていた。目星をつけていた店に向かう。
「これ、かわいいです」
「ご試着も可能です。指輪のサイズはおわかりですか? おはかりしますよ」
「お願いします!」
花音ちゃんはいくつか指輪を試していた。
正直、俺には違いがわからないけど、花音ちゃんが気に入ってくれればそれでいい。
……思いつきで、こんな大事なものを選ばせてるのが申し訳なくもあるけど。
「藤乃さん、これとこれ、どっちがいいと思いますか?」
「ごめん、俺には違いがわからない……」
「値段と石の大きさです。大きすぎると、普段つけるには邪魔かなって……」
「失礼ですが、こちらはどういった用途でお使いの予定でしょうか?」
店員さんが花音ちゃんに笑顔を向ける。
「婚約指輪です」
「でしたら、普段使いするものではありませんので、大きい石にされても良いと思いますよ。結婚指輪と重ねづけされるのでしたら、こちらのセットリングもお勧めです」
「なるほど……ますます悩みますね……」
「それなら、大きいほうにしよう。牽制にもなるし」
「はあ……」
戸惑ったような顔をしている花音ちゃんに、店員さんは目を輝かせていた。悩むなら高いほうを買ってほしいのは、商売人として気持ちはわかる。
「頼もしいご主人ですねえ……」
「そうでしょうか……?」
「言ったでしょう。この指輪は、君にプロポーズするためのものだけど、つけてることで少しでも嫌な思いを減らせたらって思ってる。結婚指輪はまた別に見に来よう。普段使いできるシンプルなのでもいいし、セットリングでもいいし」
花音ちゃんは難しい顔で黙り込んでしまった。
あれこれ言い過ぎたかな。
でも、言ったことは全部本音だ。
「えっと、はい。じゃあ、婚約指輪はこの大きいほうでお願いします。結婚指輪は、後日相談ということで」
「ありがとうございます。そうしましたら、こちらのお席へどうぞ」
店員さんに連れられて、個室へ移動する。サイズの確認や、内側の刻印を決めて、注文する。手元に届くまでには三ヶ月近くかかるらしい。
デパートを出ると、まだ夕方にはなっていなかった。
一軒目で決めちゃったから、時間が余っている。
「花音ちゃん」
「なんでしょう?」
「思いつきでふらふらして悪いんだけど、少し休んで行きませんか?」
「えっと、それは……」
スマホで近くの落ち着けそうな場所を探して、花音ちゃんに画面を見せると、目を丸くした。
「……その、嫌じゃなければ」
「嫌なんてこと、ないです」
「よかった」
手をつないだまま、二人で歩く。
二時間ほどゆっくりしてから、花音ちゃんの家まで、また電車で戻る。
「ただいまー」
「お邪魔します」
「おっかえりー」
由紀さんの家に戻ると、なぜかやたらと上機嫌な親父が出てきた。
「何してんの……」
「由紀と飲みに来ました! 藤乃は飲むなよ、帰り運転な!」
「桐子さんは、うちのかみさんと飲んでるよ!」
由紀さんも機嫌よくビールの缶を振っている。
「お父さん……。叔母さんたちは?」
「帰した!うるせーから!」
ゲラゲラ笑いながら、親父と由紀さんは客間に入っていく。覗きこんだら、酒瓶とつまみが散らかっていたのでそっと扉を閉めておいた。
「うるさいのは親父だよ。で、藤乃、プロポーズできた?」
「できてない」
「何しに行ったんだ……? とりあえず上がれよ。花音もおかえり」
「ただいま」
瑞希の後に付いてリビングに行くと、由紀さん……お袋さんが、うちの母親に盛大に愚痴っていた。
「ほんともー! あの人たちもう五十前なのよ!? お兄ちゃんお兄ちゃんと気持ちの悪い!」
「藤乃、お帰り。プロポーズした?」
「……してないです」
「しなさいよ、もう! 奥手ね!」
顔を真っ赤にした由紀のおふくろさんに怒られた。
「す、すみません……。指輪ってすぐできないんですね」
「できるわけないでしょ!? 花音、どんなのにしたの?」
「えっ、これ」
花音ちゃんがもらったパンフレットを母親たちと見ている。
瑞希が寄ってきて、耳元で囁いた。
「どのくらい?」
俺は無言で両手を広げてみせた。
「これくらい」
「それって高いの?」
「さあ。普通じゃない? 指輪ひとつで親戚の嫌味が止まるなら、安いもんだろ」
「甘いわよ、藤乃」
聞いてたらしい俺の母親が顔をしかめて振り返った。
「私ね、お義兄さんに『須藤家を乗っ取った女狐』って呼ばれてるのよ」
「それ、親父知ってる?」
「知ってるから、お義兄さんと会うときは私から離れないのよ」
なんていうか……俺、一人っ子で良かった。少なくとも花音ちゃんにそういうことを言う兄妹は居ない。言いかねない従姉がいるけど……。
母親たちと花音ちゃんは指輪の話に戻って盛り上がってるし、気づいたら花音ちゃんもビールを飲んでいる。
「瑞希は飲まねえの?」
「……いや、どっちにも混ざりたくねえよ。藤乃腹減ってない? ラーメン食べに行こう」
瑞希があまりに嫌そうな顔をするから思わず吹き出した。
「うん、行く。花音ちゃん、俺、瑞希とラーメン食べてくるね」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけて。お兄ちゃん、その人私のだから、貸してあげるけど返してね」
「お前は何なんだよ……」
「その人の奥さん」
「……はいはい。お前の旦那、借りていくよ。藤乃、にやけてないで行くぞ。ていうか、今さらプロポーズって必要か?」
「いるよ。けじめなんだよ」
車の鍵を掴む瑞希について行く。花音ちゃんが手を振ってくれたので、振り返した。
早く、その手に指輪をはめて、俺の大切な人だと、誰の目にもわかるようにしたい。



