十一月上旬のよく晴れた日、私は藤乃さんの運転する車の助手席で、外の景色をぼんやりと眺めていた。

「紅葉、すごくきれいですね」
「花音ちゃんのほうがきれいだよ。時間があれば野草も見たいな」

 繁忙期に入る前に小旅行をしようということになって、車で二時間ほどの温泉地を目指している。
 少し前にパーキングで休憩して、今は道中にある動植物園へ向かっている。

「あ、看板ありました。あと二キロくらい、まっすぐみたいです」
「了解。勾配もカーブもキツイけど、車酔い大丈夫?」
「藤乃さんの運転が丁寧だから、大丈夫です」

 山を登って、少し下ったところに動植物園があった。
 入り口の看板には、バナナをくわえたワニの絵が描かれていた。
 車を止めてチケットを買って中に入ると、最初のエリアにはワニがたくさんいた。

「藤乃さん、ワニが温泉に浸かってます!」
「そうだね。……ワニしかいないね?」

 マップを見ると、最初のエリアには本当にワニしかいないらしい。
 ひたすらワニを眺めてから、次のエリアへ進むと、今度はサンショウウオと洋蘭が並んでいた。
 ……なんでサンショウウオと蘭が……?
 でも藤乃さんはサンショウウオには目もくれず、夢中になって蘭を眺めていた。

「花音ちゃん、蘭だよ! すごい、こんなにたくさん……! わっ、なにこれ、初めて見た。写真撮らなきゃ……あ、これ、新種なんだって!」

 いつもは落ち着いている藤乃さんが、楽しそうに写真を撮りながら、花壇や鉢のまわりをぐるぐると歩き回っている。私はその様子を、そっとカメラに収めていた。

「由紀さんは蘭はやらないの?」
「世話がとても大変ですから。やっぱり、専門家に任せるのが一番ですね」
「そりゃそうだ。あ、あっち、ヒスイカズラだ! 今度咲いてるときにも来たいなあ」
「藤乃さん、ちょっと落ち着いてください」

 早足で行ってしまった背中に声をかけると、立ち止まって振り返った。

「無理!」
「無理でしたか……」

 あんまり笑顔で言うから、つい笑ってしまう。まあ、平日で人も少ないし、いいかな。
 楽しそうな藤乃さんのあとを、ゆっくりついて歩く。

「花音ちゃん、スイレンだよ、でっか……。あっ、あれ! 見たかったやつ! オオオニバス!」

 藤乃さんが指さした先には人が乗れそうなくらい大きい蓮の葉が浮いている。近くの看板によると、夏休みには子供が乗れるイベントもやっているらしい。

「乗りたい」
「……三十キロ未満の子供って書いてますよ」
「乗りたい~……」
「そんなに……。じゃあ、いつか……私たちの子供を乗せに来ましょうか」
「うん。……うん? ……楽しみに、してます……」

 藤乃さんが真っ赤な顔で静かになった。
 ……ちょっと気が早かったかも知れない。
 まだ結婚の約束どころか、そういう、子供ができるようなことすらしていないのに……。

「……花音ちゃん、あっちに……ウツボカズラあるって」
「い、行きましょう!」

 気を取り直して、またのんびり園内を歩き始めた。食虫植物のコーナーを見て、マナティを見て、またワニがぎっしりの水槽へ。その先にはレッサーパンダやフラミンゴもいて、にぎやかで楽しい雰囲気だった。
 バナナやマンゴーの木もあって、熱帯果樹園ではふたりして夢中で写真を撮った。

「面白かったですね」
「ね。お土産にエアプランツが売ってるみたいだから、買って帰ろう」

 園内のレストランで、おやつを食べながらひと休みした。
 パフェには園内で採れた果物が使われているらしく、なんだか特別な味がした。
 そのあとはお土産を見てまわって、今度こそ宿へ向かうことにした。

「藤乃さん、あの派手なワニのシャツ……着るんですか?」
「ううん、葵と理人にお土産であげる」
「だから二枚も買ってたんですね……」

 そこから車で一時間もかからずに、ようやく温泉街にたどり着いた。
 温泉宿が並び、足湯やお土産屋さんもあって、歩くだけでも楽しい。
 予約していた宿に車を止めて、チェックインを済ませた。
 案内された部屋には浴衣が用意されていて、それを着て温泉街を歩けるらしい。

「こちらの浴衣と羽織には当館の紋が入っておりまして、着用して散策していただくことで宣伝にもなりますので、ぜひご利用くださいませ」
「なるほど……行きましょう」
「せっかくだしね」

 藤乃さんが、さっきまでとは打って変わって穏やかに笑った。
 内風呂付きの部屋だったので、順番に着替えて、二人で浴衣を着て散策に出かけた。
 西日に照らされた温泉街は情緒があって、人通りも少なくて、まるで違う世界に来たみたいだった。

「藤乃さん、その浴衣……ちょっと小さいですか?」
「ちょっとね。これが一番大きかったんだけど。……花音ちゃんは似合うよ。すごく、きれいだ」
「……ありがとうございます」

 夕方で良かった。
 浴衣姿の藤乃さんはすごく色っぽくて、胸がどきどきしてしまう。でも、西日があれば、私の顔がどれだけ赤くなっていても、きっと目立たない。
 太い首や喉仏、浴衣の袷からのぞく鎖骨を見ないようにしながら、藤乃さんの隣を歩いた。
 途中で足湯に入ると、裾からちらりと見えるふくらはぎに目がいってしまって、心臓が騒がしくて仕方なかった。
 ……さっき宿の部屋で、押し入れに布団が入っているのを見てしまってから、もう、だめ。
 この人と、このあと……って思ったら、そわそわして仕方がない。

「花音ちゃん?」
「は、はいっ?」

 気づいたら藤乃さんが私を覗き込んでいた。
 何かを聞き逃してしまったらしい。

「大丈夫? ぼーっとしてるみたいだけど。疲れたのなら、そろそろ戻ろうか」
「……えっと、疲れてはいないですけど……でも、戻ります」

 つないでいないほうの手を口元に寄せると、藤乃さんがそっと耳を近づけてくれた。

「……早く、ふたりきりになりたいです」
「……わかった」

 手を握る力が、少しだけ強くなった。
 早足になった藤乃さんの耳が赤く見えたのは、きっと、西日のせいだけじゃない。


 宿に戻って時計を見ると、夕飯まではまだ三十分ほどあった。

「……ごはんまで、部屋で待ちましょうか」
「そうだね」

 夕飯は部屋で食べるプランにしている。
 ……つまり、あんまり甘えすぎると名残惜しくなってしまうから、しばらくお預け。
 部屋は和室だけど、窓際が板の間になっていて、二人がけのソファとミニテーブルが置かれている。
 ソファは窓の方を向いていて、旅館の前を流れる細い川と、手入れの行き届いた和風の庭が見渡せた。

「藤乃さん、夕飯まで外でも眺めませんか?」
「そうしよう。……うちの辺りだとあまり使わない草木も多いね。山の中だからかな」

 ソファに並んで座る。
 藤乃さんの腕にもたれかかると、もう片方の手がそっと伸びてきて、頬をやさしく撫でた。

「花音ちゃん、好きだよ。……キス、してもいい?」
「はい。私も好きです。……キス、してください」

 目を細めた藤乃さんの顔が近づく。
 触れる直前に目を閉じる。
 唇がふわりと触れた瞬間、胸の奥がぽうっと熱くなって、全身が甘くほどけていく気がした。
 藤乃さんと、こうしてゆっくり二人きりになるのも、本当に久しぶりだった。先月、おばあさんに会いに行った日以来かもしれない。
 市場や納品のときに会うことはあっても、互いに仕事中だからなかなか二人きりにはなれないし、なれても三十分もないくらい。

「……藤乃さん、こんな時間をくれて、本当にありがとうございます」
「どうしたの、急に」
「……藤乃さんと二人きりでゆっくりできるのが久しぶりだから、嬉しくて」
「そうだね。寂しかった」

 窓の外では、西日がゆっくりと沈みながら、空が静かに濃い藍色へと変わっていく。
 夕闇に沈んだ庭から、ゆっくりと視線を藤乃さんへ戻す。
 いつもどおり、私を優しく見ている。
 でも、その目の奥に、熱を帯びたような光が宿っている気がした。

「……はー……」
「えっ、なに……?」
「……こうして、ずっと二人でいられたらいいなって、思ったんです」
「……いられるよ」

 また唇に温かいものが触れる。でも一瞬のことで、すぐに離れてしまう。

「……でも、先に夕飯にしようか。もう、そろそろ来る頃だし」

 藤乃さんの指先が、私の浴衣の袷にそっと触れて、整えてくれた。
 私はその手をそっと取って、頬をすり寄せるように近づけた。
 唇が重なって、柔らかく触れた舌先が、ゆっくりと私の唇をなぞっていく。
 嬉しくて、幸せで、でも――そろそろ、それだけでは足りないと感じてしまう。
 なのに、部屋の入り口から声がかかった。

「お夕食をお持ちしました」
「はーい」

 名残惜しそうに、藤乃さんが顔を上げた。

「花音ちゃん、水飲んで。……そんな顔、誰にも見せたくないから。ここで待っててね」
「どんな顔ですか……?」
「……すごく、きれいで……、おいしそうな顔……かな」

 切なそうに微笑んで、藤乃さんは入り口のほうに向かってしまった。
 ……そういう藤乃さんのほうが、ずっと……そういう顔をしていると思う。
 仲居さんが静かに出ていったあとで振り返ると、座卓の上には色とりどりの料理がぎっしりと並んでいた。

「すごいです……! こんなにたくさん」
「おいしそうだねえ」

 また写真を撮って、二人で向かい合って手を合わせる。
 山の温泉地らしく、川魚の香ばしい焼き物や、山菜の風味豊かな炊き込みごはんが、湯気と一緒に食欲をくすぐる。お刺身や小鉢もおいしそうだ。

「おいしい……。藤乃さん、このごはん、本当においしいです!」
「おいしいね。写真撮っていい?」
「どうぞ……って、えっ、私の写真ですか?」
「うん。おいしそうに食べる花音ちゃん、かわいいから」
「じゃあ、私も藤乃さんが食べてる写真ほしいです」

 お腹いっぱい食べたあとは、大浴場に向かう。
 入り口で男女に分かれて、大きなお風呂にゆったりと体を沈める。
 脱衣所には寝るとき用の浴衣が用意されているので、風呂上がりはそちらに着替えた。

 ……これから、藤乃さんと“寝る”んだよね。そう思っただけで、全身が熱くなる。
 そう思うと緊張しすぎて心臓が痛い。ドクドクと口から飛び出そうなくらい跳ねている。
 いつもよりゆっくりと髪を乾かして、化粧水や乳液をていねいに肌へ馴染ませる。
 下着も、友達に付き合ってもらって、少し色気のありそうなものを選んできた。

「……いざ!」

 まるで出陣するような気持ちで女湯を出ると、手前の休憩所にいた藤乃さんが、すぐに私に気づいて歩み寄ってきた。

「お、お待たせしました……藤乃さん」
「花音ちゃん……大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
「とりあえず、これ飲もう」

 差し出されたのは、「ふるーつ牛乳」と書かれた小さなガラス瓶だった。
 受け取ると、藤乃さんは穏やかに微笑んでいる。

「休憩所で配ってたんだ」
「……ありがとうございます」
「おいしいね」

 なんていうか……藤乃さん、すごく余裕があるように見える。
 私は緊張しすぎて動きがおかしいのに、藤乃さんはそんな私を気遣う余裕すら見せている。
 ……なんだか、少しだけ悔しい。
 なんて思っていたら、藤乃さんが瓶を捨てようとして手を滑らせて、大きな音を立てていた。

「だ、大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないって言ったら、かっこ悪い?」
「悪くないです。お揃いだから、嬉しい、かな」
「……よかった」

 私も瓶を捨てて、そっと手をつなぐ。二人で並んで部屋に戻った。


 ……部屋に戻ると、座卓は片付けられていて、代わりに二組の布団が、ぴったりと寄り添うように敷かれていた。

「わあ……」

 隣を見ると、藤乃さんも私を見ていた。

「……と、とりあえず歯を磨きましょう」
「うん……」

 歯を磨いて、荷物を片付けて、そっと布団の足元に座る。落ち着かなくて、思わず背筋を伸ばしてしまう。
 どうしたらいいの……?

「花音ちゃん」
「は、はいっ」

 藤乃さんも同じように隣に正座している。
 手が伸びてきて、そっと私の膝の上の手に重なった。

「……キスして、いい?」
「……いいです。その……その先も、大丈夫です……」
「あの、慣れてないから、なにか……嫌なこととかあったら、言ってね」
「は、はい。私も……あの、はじめてなので……その、至らないところがあったら、教えてください……」

 自分でも訳の分からないことを言っていると思う。
 藤乃さんはきょとんとしてから、ゆっくり微笑んだ。

「花音ちゃん、好きだよ」
「えっ……はい。私も、藤乃さんのこと……大好きです」
「ありがとう。嬉しい」

 重なっていた手がそっと離れて、今度は私の頬をやさしく包み込むように触れた。
 目を閉じると、唇にやわらかな温もりが降りてきた。
 触れるだけだったキスが、ゆっくり深くなる。ついばむようなキスに、唇がじんわりと熱くなっていく。ああ、あたたかいな……と、ぼんやり思った。
 ゆっくりと藤乃さんが離れた。

「……電気、消すね」
「はい……」

 藤乃さんが立ち上がって、部屋の入り口に向かう。
 すぐに部屋が静かに暗くなって、戻ってきた藤乃さんの顔は、もうほとんど見えなかった。

「花音ちゃん、こっち」

 そっと布団に寝かされる。
 薄闇のなか、藤乃さんの静かな息遣いと、触れているところの体温だけが、現実のように感じられた。

「藤乃さん」
「うん」
「好きです」
「……俺も好きだよ」

 唇が重なった。
 唇の奥まで、じんわりと熱が伝わっていく。触れ合う肌が心地よくて、そっと腕を伸ばした。
 同じように抱きしめ返されて、こんなふうに、いちばん好きな人と初めてを迎えられて、本当に良かったと思った。


 翌朝、目が覚めると温かいものを抱えていた。
 部屋が暗くてよく見えない。
 シャチのぬいぐるみ……じゃなくて、藤乃さんだった。
 それで、昨晩のことを思い出してしまった。

「……すごかったなあ」

 きっと、私の身体で、藤乃さんが触れていない場所なんてなかったと思う。
 お腹の奥の方がまだドキドキしてる気がする。
 触れている藤乃さんの背中は大きくて、安心する。
 ……ふたりとも、なにも身につけていないんだな、って気づく。
 下着くらいほしいけど、探そうにも藤乃さんの腕と足に捉えられていて、身動きが取れない。

「……まあ、いいか」

 胸元にそっと頬を寄せると、腕の力がきゅっと強まった。
 見上げると、藤乃さんが私を見ているけど、眼鏡をかけていないからか、まだ眠そうなせいか、目元が少し険しい。眉間にしわが寄っている。眼鏡がないから、実はまつげが長いのはよく分かる。穏やかな印象のわりに、つり目で、ちょっとキツイ顔立ちで、……かっこよくて、大好き。

「藤乃さん、おはようございます」
「……花音ちゃん……ごめん……ほんと、ごめん……」
「えっ、なに……?」

 藤乃さんと目が合ったと思ったら、ぎゅうっと抱きしめられた。

「あの、体調……大丈夫?」
「多少ダルいですけど……大丈夫です」
「そっか、よかった」
「なんですか?」

 藤乃さんの胸元に手を付いて、体を離す。見上げると泣きそうな顔が私を見つめている。

「昨日……ちょっと、夢中になりすぎて……」
「はあ」
「無理させたなって」
「ほんとに……大丈夫です。だから……キス、してもいいですか?」

 返事を待たずに体を起こして口付ける。
 昨夜とは違って、ためらうようなキス。だから、少しだけ意地悪に噛んだら、やさしく噛み返された。
 満足するまで唇を重ねてから顔を上げると、枕元に手より少し大きいくらいの箱が転がっている。
 ……昨夜、使ったもの。避妊具の箱だ。
 蓋が開いたまま転がっていて、見た感じ半分くらいになっている。
 ……半分、減ってる……?

「藤乃さん、これ、もともと何個入りなんですか?」

 手を伸ばして箱を掴む。藤乃さんが、すごい勢いで目を逸らした。

「……一ダース入りです」
「半分残ってないです」
「ごめんなさい、我慢できなくて……」
「今何時ですか?」
「えっ、待ってメガネ……」

 藤乃さんの手が枕元を探る。メガネをかけて、キョロキョロする。

「四時過ぎだね。市場に行かなくていいから寝過ぎちゃった」
「朝ごはんのバイキングは七時からで、チェックアウトは十時です」
「まだ時間あるね。もう少し、ゆっくりしてようか」
「藤乃さん、まだ半分残ってますよ」

 そう言って箱を振ると、カタカタと乾いた音を立てた。

「えっ、うん。でもそれ、一晩で使い切るもんじゃないと思う……」
「普通、どれくらいなんですか?」
「わかんない……使ったことないし」
「……使おうと……思ったことはないんですか?」

 また面倒なことを聞いてしまった。
 ……だってさ、藤乃さんの周りは可愛い子や綺麗な人が多い。葵さんや鈴美さん、大学のときの同期だという女性。ついでにお祭りのときに女性に囲まれていたことまで思い出してしまう。

「花音ちゃん?」
「す、すみません。藤乃さんの周りは可愛い子が多いから……いえ、すみません。無しで」

 藤乃さんは目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。

「心配なのは俺もだけど……うーん、そもそも俺、好みが自分と同じくらい背の高い子だから、そういう対象になる人ってなかなかいないんだよね」
「葵さん、あんなに可愛いのに……?」
「葵は、生まれて半月の頃から知ってるから、余計に対象外なんだよね。あー……めちゃくちゃかっこ悪い話してもいい?」

 藤乃さんは目を逸らしてから、苦笑いしながら私を抱きしめてきた。顔が見えない。

「大学のとき、一人暮らししてたって言ったよね。それで……男の一人暮らしだから、まあ、そういう気分になることもあってさ」
「そういう?」
「そういう……まあ、生理現象です。他意はないです。それで、そういう動画とか見てたときに、葵からメッセージが来てさ。『差し入れ持って行くけど、いつがいい?』とかそんな感じ。普通に返事したあとで、続き……って思っても、もうすっかりやる気なくなってるんだよね」

 藤乃さん、どんな顔でそれを言ってるんだろう。身じろぎしても腕をほどいてくれなくて、私は藤乃さんの喉元に顔をくっつけたまま、じっと話を聞いていた。

「つまり、葵じゃそういう気にならないってこと。……伝わったかなあ」
「えっと……今、その話をしながらくっついてるのは、なんでですか?」
「かっこ悪い顔してるから見られたくないのと……葵では全然そういう気にならないけど、花音ちゃんだと、すごくそういう気になります……っていう、主張」
「……なんですか、それ」

 思わず吹き出してしまって、手に持っていた箱をもう一度振った。

「なるほど。藤乃さん、これ、まだ半分残ってますけど、残しておきたいですか? 使う予定、あるんですか?」
「ないです……」
「じゃあ、残しておいても仕方ないですし、使っちゃってもいいですね」
「なにが"じゃあ"なの……」

 藤乃さんがようやく腕をほどいた。
 呆れたような顔で私を見てくるから、私は微笑んで見上げた。

「使うの、イヤですか?」
「……言い方がよくない。嫌なわけないよ。花音ちゃんに誘われて、俺が断れるわけない」
「好きです」
「俺も好き」

 また抱きしめられた。
 藤乃さんの体は大きくて、そのままずっと埋もれていたくなった。


 全部は使い切れなかったけど、いくつか使ってから、二人で部屋風呂に入った。

「藤乃さんと朝風呂……贅沢ですねえ」
「そうだね。思ったより広いし、部屋風呂付きにして正解だった」

 湯船の中で、藤乃さんに後ろから抱えられて座っている。
 たまに肩をかじられたり、吸われたりする。
 本当に、贅沢だ。
 そもそも私たち、どっちも実家暮らしだから、二人でゆっくり過ごせる時間なんてほとんどない。体を重ねることも、ましてや一緒にお風呂なんて、次はいつできるかわからない。
 たとえ結婚しても、仕事の都合で最初から須藤さんの家に同居になるから、一緒にお風呂なんて無理だと思う。お風呂自体は広いけど、お義父さんとお義母さんがいる前では、恥ずかしすぎて無理……!

「……次に会えるのは、いつになりますかね」
「……会うだけなら、その気になれば毎日会えるけど……市場で、ね」
「そろそろ、クリスマス向けの出荷が始まりますから」

 来週あたりから、考えたくないくらい忙しくなって、そのまま年末まで走り続けることになる。

「そうだね。うちもクリスマスとお正月に向けた予約が、山ほど来てるよ。ありがたいんだけど……」
「年末年始あたりなら落ち着くと思うので、手伝いに行きましょうか?」
「うーん」

 藤乃さんの返事は予想外に鈍い。

「今年は、家族とゆっくり過ごしておいで。……来年は、来てくれたら嬉しい。……手伝いじゃなくて」

 ……手伝いではなく? 返事に迷っていたら、私を抱えていた藤乃さんの腕の力が強くなった。

「その……俺の手伝いじゃなくて、母さんの補佐に入ってくれたら、嬉しい」
「わかりました」

 自分でも思ったよりすんなり言葉が出た。
 もたれていた体をそっと離して、藤乃さんのほうに向き直る。

「でも、それならちゃんと約束してください。ちゃんと、先のことを。藤乃さん、水族館の後に“間違えた”って言って、それっきりなんですから」
「……そうでした。今度、指輪買いに行こう。ちゃんと調べてから行きたいし、時間も取りたいから年度が明けてからでもいいでしょうか」
「お誘い、お待ちしてます」

 そう言うと、藤乃さんが微笑んだ。私の肩に手を添え、キスをしてから、抱きしめて、かじってきた。
 名残惜しくて、のぼせそうになるまで、ずっとくっついていた。


 朝ごはんを終えて、帰り支度を済ませて車に乗った。
 今日は、私が運転する。

「藤乃さん、また来ましょうね」
「うん。花音ちゃんは、次はどこに行きたい?」
「○ズミーランド、行きたいです。あ、父に聞いたんですけど、一月の後半なら美園さん経由でチケットがもらえそうで。割引も効くし、その時期なら空いてるみたいです」
「その時期なら、俺も一日くらいは休めると思う。楽しみにしてる」

 別れるのが寂しくて、高速は空いてたけど、少しだけゆっくり走った。パーキングにも寄って、二人でぶらぶら散策して、ちょっと遠回りして湾岸線を通って海を眺めたり、ふらふらとドライブを続けた。
 高速を降りる前のパーキングでおやつを食べて、それ以上はもう引き延ばせなかった。
 車内は静かで、そうしているうちに家についてしまった。
 駐車場に車を止めても、なかなか降りられなかった。西日に照らされた畑では、父と瑞希がそれぞれ働いているのが見えた。

「……ありがとうございました。とても楽しかったです」
「花音ちゃん、そんな寂しい顔しないで。俺が泣き虫なの、知ってるでしょう?」
「知ってますけど……」

 しぶしぶ車から降りて、荷物を抱えた。
 玄関の前で立ち止まると、隣にいた藤乃さんが、私を覗き込んだ。

「またすぐ会えるよ。明日は俺も市場に顔を出すから」
「明日は私、行けないんです。目を離してた分、温室の花の確認があるので。でも、明後日は行きます」
「わかった。じゃあ、また明後日」
「……はい。楽しみにしてます」

 最後に、ほんの少しだけ手を握ってから、扉を開けた。
 藤乃さんは、出てきた母に軽く挨拶をして帰っていった。

「なんて顔してるの」
「あと三年くらい、旅行してたかった……」
「さっさと向こうの家に住まわせてもらえばいいのに」
「……『今年は家族とゆっくり過ごして』って言われたの」
「藤乃くんらしいわねえ」

 母は笑って、お土産の袋を持ち上げた。

「このおまんじゅう、食べていい?」
「いいよ。味見させてもらったけど、おいしかったよ」

 玄関がまた開いて、今度は瑞希が戻ってきた。
 西日に照らされて、十一月だというのに汗だくだった。

「お帰り、俺にもまんじゅうくれ」
「いいけど、手を洗ってね。お父さんの分も残しておいて」
「はいはい」

 ……私が、この家の娘でいられるのは、あとどれくらいだろう。
 あっちもこっちも寂しくて。でも、母にも兄にも心配かけたくないから、そっと荷物を片付けに逃げた。