十月のある夕食後。両親が台所を片付けていたので、先に風呂に行こうとしたら、廊下でじいさんに呼び止められた。
「藤乃、ちょっとこっち」
「なに?」
やけに渋い顔のじいさんについて、部屋に行く。座布団に胡座をかいたじいさんの正面に、同じように腰を下ろす。
「……ばあさんが、一度会いに来いと言っている」
「嫌だ」
即座にそう返すと、じいさんは渋い顔のまま頷いた。
「うん……、藤乃がそういうのはわかるんだが。……由紀の娘と一緒になるなら、一度揃って顔を見せに来いと」
「余計に嫌に決まってるだろ」
ばあさんは今、伯父……親父の兄と同居している。子供の頃、何度も嫌がらせをしてきた伯父にも会いたくないし、その原因になった従姉の鈴美にだって顔を合わせたくない。
花音ちゃんを連れて行くなんて、なおさら嫌だ。何を言われるか、考えるだけで気が重くなる。
「いつまでも逃げ回っていられないのはわかるだろう?」
「そうだけどさあ」
「お前らが結婚するなら、周囲との兼ね合いがあるからあいつらを呼ばないわけにはいかないし」
「呼ばないって選択肢、ないのかな」
「……ねえなあ。ただでさえ末息子の小春が家業を継いでヤイヤイ言われたのに、さらにその後継ぎと嫁の披露に長男が出てないとなると、あいつらは須藤の家から勘当されているのだと周囲の目には映る。俺たちがどう思っていようと、周りはそう受け取る。たぶん、市内の仕事はごっそり無くなるだろうな」
自業自得とは思うけど、それで路頭に迷われても後味が悪いし、家庭内のごたごたを面白おかしく噂されるのも家の評判に響く。
それはわかってるけどさあ!!
「その辺りの機微も由紀の娘ならわかってるだろ?」
「わかってるのと、実際に体験させるのは別だよ。うちの揉め事に花音ちゃんを巻き込みたくない」
「アホか。うちに嫁に来るなら、いずれは避けられん。巻き込みたくないなら、最初から関わるなって話だ」
「……うん」
「というか、だ。由紀の家だって似たようなもんだろうが。嫁として須藤のごたごたに関わるか、娘として由紀の跡目問題に関わるかの違いでしかねえだろ」
「それは、そうだけど……。……ったく、わかったよ。で、いつ行けばいいんだ?」
「ばあさんに聞け。いや、今確認しよう」
じいさんがスマホを出してきてばあさんと電話する。
俺も代わって二言三言交わしてじいさんにスマホを返す。
「はぁ、気が重い……」
ぼやきながら部屋に戻って、花音ちゃんにメッセージを送る。
すぐに『わかりました』とだけ返ってきて、ぐだぐだ言ってる自分が嫌になる。
ついでに瑞希にも長文の愚痴を送ったら、「がんばれ」と吹き出しがついた、狸か猫かわからない変なスタンプが返ってきた。
返事があっさりしてるところ、あの兄妹はやっぱり似てるな、と今さら思う。
数日後、俺は駅のホームで花音ちゃんと待ち合わせていた。
スーツほどじゃないけど、襟付きのシャツに細身のスラックス、ブレザーを羽織って、きちんとした格好で来た。
伯父に余計なことを言われたくないし、俺は背があるぶん、服装を整えるとそれなりに迫力が出るのも自覚してる。
約束の数分前、花音ちゃんから電車に乗ったことと、乗っている車両の連絡が来たので、ホームを移動した。
しばらくして電車がホームに入ってきて、ドアが開くと、花音ちゃんが小さく手を振ってくれた。
「こんにちは、藤乃さん。……今日もかっこいいですね」
「こんにちは。それは俺のセリフだよ。花音ちゃんは今日もかわいいね。持って帰りたいくらい」
「持って帰ってもらっていいですよ?」
花音ちゃんはそう言って微笑む。
今日の花音ちゃんは、柔らかそうなブラウスに、ふんわりした膝下丈のスカート。ストッキングにパンプスを合わせている。俺がお願いしたんだけど、そうやってきちんとした服で来てくれるのが嬉しいし、やっぱりかわいい。
髪もふわっと結んである。
「花音ちゃん、今日は来てくれてありがとう。本当にごめん。嫌な思いをさせるってわかってるのに……」
「大丈夫ですよ。由紀の家でもそういうのはありますから。私が大学行ったときも叔母たちから散々言われましたし。それに、今日は藤乃さんがずっと隣にいてくれるんですよね? だから、大丈夫です。」
「好き」
思わずそう言うと、花音ちゃんはにこにこして頷いた。
「私も好きです。一緒に頑張りましょう。……藤乃さん、大きな犬みたいですね。耳と尻尾が垂れてるのが見えます」
……そうかも。
俺が犬なら、間違いなく耳も尻尾も垂れ下がって、背中まで丸まってる。花音ちゃんに会ったら、全力で尻尾を振って、じゃれついて手とか顔を舐めまわすと思う。間違いない。……犬じゃないけど、抱きしめてキスしたい。今、すぐに。
そうしているうちに、目的の駅に着いた。
花音ちゃんの手を引き、そのままバスに乗り換えた。
「あの、気になってたんですけど……藤乃さんのお父さんって長男じゃないですよね。なんでお兄さんが継がなかったんですか?」
「詳しくは聞いてないけど、伯父が反抗期のときに親父に押しつけようとしたら、親父がその気になって継いじゃって、それっきりみたい」
「あら……。藤乃さんへの嫌がらせって、それも理由に含まれますか?」
「……今まで気づかなかったけど、たしかにありそうだな。そっか……余計に行きたくなくなった」
肩を落とした俺の膝の上に置いた手を、花音ちゃんが笑顔のままそっと握ってくれた。
「ちゃんと、ご一緒しますから」
「ありがとう」
目的のバス停で降りて、歩く。
花音ちゃんの手を、いつもより少し強く握って、帰りたい気持ちをなんとか堪えた。
「……ここ」
立ち止まったのは、うちより二回りくらい小さい一軒家だ。造園屋と花屋を兼ねてるうちよりは小さいけど、一般的に見れば、普通か、ちょっと大きいくらいだと思う。
「花音ちゃん、悪いけど、これ代わりに渡してくれる?」
持ってきておいた紙袋を花音ちゃんに渡す。
中身はばあさんの好きな和菓子の詰め合わせだ。
「私も用意してますよ。ロールケーキとクッキーなんですけど……」
花音ちゃんが持っていた紙袋を見せてくれる。
……ちゃんとした贈答用の菓子店のものだ。
「ありがとう。わざわざ用意してくれたんだ?」
「あったほうがいいかなと思いまして。藤乃さんのは和菓子ですし、被らなくてよかったです。今度から事前に相談しますね」
「……うん。俺も、次からちゃんと伝えるよ」
花音ちゃんの手をそっと離し、インターホンに手を伸ばす。ためらっていると、花音ちゃんがそっと手を伸ばして呼び鈴を押した。
「ちょっ……」
「……はい、須藤です」
抗議する前に、伯父の奥さんの声がした。
「……須藤藤乃です。祖母に会いに来ました」
「……聞いています。今、開けます」
通話が切れる。
花音ちゃんを見ると、何も言わずにまた手を握ってくれた。
「嫌なことは、さっさと済ませたほうがいいです。大丈夫。絶対に一人にはしませんから」
「……好き」
門の横の扉がゆっくりと開いた。
そこから、小柄な女性が出てくる。美鈴とよく似ているけど、無表情な人だ。たしか、俺の母親より少し年上だったはずなのに、ずっと若く見える。
「ご無沙汰しております」
「藤乃くん……大きくなったわね。そちらがお相手の方?」
花音ちゃんが静かに頭を下げる。
「由紀花音と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「ご丁寧にどうも。……そう、由紀の家の人なの。ともかく、中へどうぞ」
「……鈴美さんは?」
「います。呼びましょうか?」
「いえ、今日は祖母に会いに来ましたので」
「まあ……そうでしょうね」
それきり黙りこくって、おばさんは先を行く。
俺と花音ちゃんも黙ったまま、付いていく。
「失礼します。お邪魔いたします」
上がらせてもらって、縁側沿いに奥へと進み、ばあさんの部屋に案内された。
「久しぶりだね、藤乃。……小春にそっくりになったね」
ばあさんの前に座布団が並んでいたから、奥を花音ちゃんに勧めて、俺も手前に腰を下ろす。
「よく言われるよ。ばあさん、小さくなったね。これ、よかったら食べて」
紙袋を差し出すと、ばあさんはゆっくり微笑む。
「じいさんから聞いたのかい。このお店、好きなのよ。ありがとうね」
「あ、あの、よろしければこちらもお召し上がりください」
花音ちゃんが紙袋を差し出すと、ばあさんは静かに頷いた。
「ご丁寧にありがとう、由紀の娘だね」
「は、はい。由紀花音と申します」
「呼び立てして悪いね」
ばあさんが紙袋をおばさんに手渡すと、おばさんは無表情のまま小さく頷いて部屋を出ていった。
すぐにお茶と茶菓子が出される。
「ありがとうございます」
おばさんは一つ頷いて下がっていった。縁側に通じるふすまは開け放たれていて、庭には穏やかな秋風が吹き抜け、ススキやフジバカマ、リンドウが静かに揺れていた。
「で、なんで呼んだんだよ」
「久しぶりに孫の顔を見たかっただけだよ。ようやく彼女もできたと聞いたしね」
「マジでそれだけ?」
「それだけだよ」
「……そう。ここに来るの、ほんと嫌だったんだけど」
ため息をついたら、ばあさんが肩をすくめた。
「それについちゃ、悪かったね。……冬一郎――お前の伯父さんは、そもそもお前の父親が気に入らなかったのよ。昔からね」
「そんな気はしてたけど」
「小春の方がでっかくなっちゃったからねえ」
「……は?」
……なんだ、それ。
確かに兄である冬一郎伯父より、弟の小春……父の方が背が高い。とはいえ、差はせいぜい十センチもないはずだけど。
「小春の方が背も高くて家業も継いで、今じゃ須藤の当主だからね。冬一郎が僻むのも無理ないさ」
「それで俺に、あんなくだらない言いがかりつけてたんだ?」
「その上、鈴美が藤乃を気に入っちまったから、最悪だよ」
「知らないよ……。俺、何も悪いことしてないんだけど」
思わずボヤいてしまう。
そんな理由で十年近くも嫌がらせされてたのかと思うと、正直どう受け止めればいいのか、わからなかった。
「すまないね、花音さん。放置しちまって」
ばあさんが花音ちゃんに向き直った。
「い、いえ、お気になさらず」
「小春は昔から由紀の息子と仲が良かったけど……今でもそうなの?」
「はい。父と須藤さんは今でもよく一緒にごはんに行ってます」
「そうかい。まあ小春が幸せにしてるならいいんだ。藤乃はどう?」
ばあさんが顔だけ俺に向ける。
「何が?」
「花音さんと一緒にいられて、幸せ?」
「幸せだよ」
そう答えると、ばあさんは黙って頷いた。
「花音さん。この子には、私のいたらなさでいらない苦労をかけた。でも、桐子さんのおかげで真っ直ぐに育ってくれた。目をかけてやれなかったけど、大切な孫なんだ。どうか、よろしくお願いします」
そしてゆっくり頭を下げる。
花音ちゃんが慌てて畳に手を付いた。
「そ、そんな、どうか頭を上げてください。こちらこそ、藤乃さんにも須藤のご家族にも、本当によくしていただいています。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
この光景を、俺はどう受け止めればいいんだろう。
ばあさんが家を出たのは、少なからず自分のせいだと思ってた。
でも、ばあさんも、俺のことをずっと気にかけてくれてたらしい。
「……ばあさんは、帰ってこないの? じいさん寂しそうだけど」
思わずそう言うと、ばあさんは静かに首を横に振った。
「今さら戻るつもりはないよ。藤乃が結婚したら、じいさんが引退して、一緒に医療付きのマンションに入ろうかって話してるけどね」
「えっ、そうなの?」
……そんなの、聞いてないけど。
親父たちは聞いているのだろうか。
「あの家も、さすがにもう一人増えたら狭いだろうしね。それに、じいさんとは月一デートしてるから気にしなくていいし……」
ばあさんはニヤッと笑って声を落とした。
「実はね、桐子さんとも月一くらいでお茶してるんだよ。じいさんと小春には内緒ね」
「そうなの!?」
「あの子は、うちの三女だから」
ばあさんは庭を眺める。
意味を聞こうとした、そのとき、廊下の向こうから、ドカドカと足音が響いてきた。
「……ご無沙汰してます」
やってきたのは冬一郎伯父で、憎々しげに俺を睨んでいる。
「何しに来た」
「冬一郎、おやめ。私の客人だよ」
「母さん! まだ小春を贔屓するのか!?」
「ここで藤乃になにかあって、困るのはお前だろうに」
伯父がばあさんと俺を交互に見て、俺の奥にいる花音ちゃんに気づいた。
「ちっ……ガキのくせに、生意気に色気づきやがって」
腹が立って、思わず背筋を伸ばした。
伯父を睨みながら、ゆっくり言葉を選ぶ。
「伯父さん。由紀の家に失礼があれば、俺も親父も黙ってませんよ」
「……お前、じじいを味方につけて偉そうにしやがって!」
「冬一郎、もう一度言います。おやめなさい。これ以上、恥の上塗りをしてどうするの」
「……っ」
伯父は足を踏みならして出て行った。
……何しに来たんだ。
「ごめんね、花音ちゃん。……見ての通り、まあ……ちょっと相性が悪くてさ」
「私は大丈夫です。ありがとうございます。藤乃さんもおばあさまも、かばっていただいて」
花音ちゃんがやわらかく微笑んでくれて、胸の奥がきゅっとなった。
申し訳なくて仕方ないけど、それでも笑ってくれてよかった。
「お義母さん」
「あら、どうしたの」
音もなく、おばさんが戻ってきた。
「お持たせなんですけど、よければ三人で召し上がってください。あの人が見つけたら、きっと怒って捨ててしまいますから」
「まあ、ありがとう。あなたと鈴美の分もちゃんと隠しておきなさいよ」
「はい、そうさせてもらいます」
おばさんは、また静かに出て行った。入れ替わりで、今度は鈴美が顔を出す。
「ふっくん、久しぶり」
思わず花音ちゃんを背中にかばった。
鈴美が顔をしかめた。
「おばあちゃん、私もお話させてもらってもいい?」
「喧嘩しないならね」
「……気をつけます」
ばあさんの横に鈴美が正座した。……こいつ、どういうつもりで出てきたんだ?
「ふっくん、そちらの方と結婚するの?」
「そのつもりだけど」
「……あなた、前にふっくんと私の展覧会に来てた人だよね。あのときから付き合ってたの?」
花音ちゃんは鈴美をまっすぐ見つめて言った。
「いえ、あのときはまだお付き合いしていません」
「……どっちから告白したの?」
「俺からだよ。鈴美、何が言いたい?」
鈴美はうつむいて、膝の上の拳を握りしめた。小さな手には白く骨が浮いている。
「……だって」
「藤乃、やめなさい。鈴美もだよ。喧嘩しないと約束したからここに置いているんだ。落ち着いて話せないなら、出て行きなさい」
「……ごめん。……藤乃さん……ご結婚、おめでとうございます」
「うん……」
まだプロポーズもしてない。でも、それを否定する気にもなれず、ただ頷いた。
鈴美は顔を上げずに出て行った。
「下手くそだねえ、あの娘も」
ばあさんは苦笑して、おばさんが持ってきてくれた菓子を食べている。
俺らにも勧めてくれたのでありがたく食べる。
美味しくて、つい手が伸びる。今度自分用にも買おう。
「なあ、さっきの“母さんが三女”って、どういう意味?」
「ああ。桐子さんは元々別の花屋の娘だったんだけどね、家族と揉めて追い出されたところを小春が拾ってきたから、うちの子にしたんだよ」
「なにそれ……?」
「そのままさ。小春がじいさんを継いで、桐子さんが私のやってた小さな花屋を引き継いで、あそこまで大きくしてくれたんだ。私は感謝してるけど、つけいる隙がなくなった冬一郎は、あのとおり」
俺の顔は母親似だけど、話し方や表情は親父に似ているらしい。
……伯父が家を継げなくなった原因となった二人に似ていて、しかも娘まで奪われそうになったから、俺は目の敵にされてたらしい。
「……俺、ただのとばっちりじゃん」
「そのとおりだよ。私がじいさんのところに帰ったりしたら、あれは小春を刺しかねない。だから私は帰らない」
「そっか。わかった。馬鹿なこと聞いてごめん」
ばあさんは「かまわないよ」と穏やかに言って、お茶を口にした。
そして花音ちゃんに体を向けた。
「すまないね、うちのもめ事に付き合わせて」
「気になさらないでください。……お恥ずかしい話ですが、由紀の家でもある話ですので」
珍しく遠くを見つめる花音ちゃんを、そっと覗き込んだ。
花音ちゃんや瑞希から、そういう話を聞いたことはないけど、やっぱりあるんだ?
「瑞希や花音ちゃんも揉めるの?」
「瑞希はそうでもないです。大事な跡取り様なので。でも私と母は叔母たちからの風当たりが強いですね。大好きなお兄ちゃんを横取りした憎い嫁と、金食い虫の娘って言われてます」
花音ちゃんは何でもないように言ったけど、それってなかなか酷くないか。
「それ、由紀さんと瑞希は知ってるの?」
「女は、男の人に見つかるような場所では陰口は叩かないものなんですよ。ま、父と瑞希も察してはいるので私たちを叔母たちと鉢合わせさせないようにしてくれてます」
「……それ、初めて聞いた……」
「言いませんよ、そんな重たいこと。そもそも正月くらいしか会いませんし」
「今度、ちゃんと挨拶させてね」
「大丈夫ですって」
「……俺が、嫌なんだよ」
ばあさんが、ふふっと笑った。
「藤乃は小春にそっくりだね、まったく。おや、もうこんな時間だ。またおいで。私が生きているうちに式を挙げてね」
「はいはい、近いうちにね」
「花音さんも気をつけてお帰り」
「はい、ありがとうございました」
花音ちゃんと並んで、ばあさんの部屋を出た。
座ったまま手を振るばあさんが、やけに小さく見えた。
玄関でおばさんが見送ってくれたから、騒がせたことを謝っておく。
「桐子さんにも、よろしくお伝えください」
「はあ……」
「実は、桐子さんとはたまにお茶をしているんです。秋絵さん、夏葉さんも一緒に」
「えっ……そうなんですか……?」
秋絵と夏葉は親父の姉さんたちだ。須藤家の嫁と娘で集まってるってことか……?
「花音さんも、いずれいらしてね。ちなみに前回は……」
おばさんが上げた名前は都市部にある高級ホテルだ。そんな豪華な集まり、してたのか……。
「そこで女子会プランを利用してエステとアフタヌーンティーを楽しんできました。ちなみに費用はお義母さん……と見せかけて、お義父さん持ちです。次回は桐子さんから花音さんにもお声がけしますね。鈴美は呼ばないから、安心していらっしゃい」
「あ、ありがとうございます……」
「藤乃さん。長く付き合うには、どれだけ親しくても距離を保つことが大事です。たまにはひとりになったり、別の相手と過ごして息抜きすることで、改めて愛情を感じられるんですよ」
「はあ……」
「呼び止めてしまってごめんなさいね」
おばさんに挨拶をして、家を出た。
昼過ぎに来たはずなのに、空はもうすっかり赤く染まっていた。
花音ちゃんの手をそっと取って、指を絡めた。
「今日はありがとう、付き合ってくれて」
「いえ、紹介していただけて嬉しかったです」
「……ていうか、叔母さんたちが集まってるなんて知らなかった。最後におばさんが言ってたのって、なんだったんだろう……?」
夕陽に向かってゆっくりと歩く。虫の音が響き、秋の風が心地いい。
「たぶん、お祝いかな」
虫の音がこんなに賑やかなのに、花音ちゃんの声だけは不思議とよく聞こえた。
……お祝い?
「せっかく、一緒になるなら、長続きするようにって教えてくれたんだと思います。末永くお幸せに……ということかと」
「そっか。お祝いなら、ありがたく受け取ろうかな」
「そうしましょう」
バス停に着いたところで、後ろからパタパタと足音が聞こえた。
振り返ると鈴美が走ってくる。
「っ、ふっくん、あの、私、私ね」
息を切らす鈴美を見ながら、花音ちゃんを背中に庇う。
息を整えた鈴美が、まっすぐに俺を見上げる。
「……藤乃くん、私、あなたのことがずっと好きです」
「俺は、お前のことは好きにならない」
「……うん。ありがとう、ちゃんと振ってくれて。花音さんとお幸せに。それじゃ」
鈴美は小さく微笑んで、踵を返し、そのまま静かに去っていった。
バスが来て、花音ちゃんと一緒に乗り込む。がらんとした車内の一番後ろに、並んで腰を下ろした。
「藤乃さん、告白されても驚きませんでしたね」
「まあ……そんな気はしてたから。でも、自分から聞くのも変だし」
繋いだままの花音ちゃんの手を握り直して、そっと肩に寄りかかった。
「花音ちゃん、今日は一緒に来てくれてありがとう。そばにいてくれて、本当に助かった。『一人にしない』って言ってくれたおかげで、逃げずにちゃんと向き合えたよ」
「私も嬉しかったですよ、誘ってもらえて、紹介してもらえて。……おばあさんとお義母さんって……似てますよね」
「……うん。あっさりした感じは似てる。娘って言ってたし、母娘なら似ててもおかしくないね」
バスがゆっくり駅のロータリーに入っていく。
電車に乗り換えて、並んでつり革に掴まる。
「最寄り駅まで送るよ」
「はい、ありがとうございます」
暮れていく夕陽を眺めながら、他愛のない話をぽつぽつと続けた。
言わなきゃいけないことがある。でも、それを考えただけで喉が渇いていくのがわかった。
もし俺が犬だったら、きっと尻尾は脚の間に挟まってた。
やがて駅に着いた。
電車を降り、階段を下りて、改札の手前まで歩く。
今言わなきゃ、きっともう言えなくなる。
「藤乃さん」
「うん?」
「何か、言いたいことがあるのではないですか?」
やっぱり俺はこの子に敵わない。
花音ちゃんの手を握り直して、まっすぐその瞳を見つめた。
「花音ちゃん、来月旅行に行かない?」
「旅行ですか? はい、行きたいです」
「その……年末年始から年度始めにかけて、造園屋も花屋も目が回るくらい忙しくなるからさ。たぶん、まともに会うのも難しくなる。だから、その前に」
「確かに……年末はうちも忙しくなりますから」
花音ちゃんが受け入れてくれて、胸の奥がふっと軽くなる。
……もう一個、言わないといけないんだけど。
「それで……行くなら、ちゃんと……準備しますので」
「旅行の準備ですか?」
首を傾げる花音ちゃんの耳元に口を寄せた。
「……避妊具の、です……」
「……っ、わ、わかりました。私も準備、しておきます」
「花音ちゃんも?」
「心の準備を……」
真っ赤な顔で俺を見る花音ちゃんに、何も言えない。言えないけど、もし尻尾があったら、全力で振り回してた。
「藤乃、ちょっとこっち」
「なに?」
やけに渋い顔のじいさんについて、部屋に行く。座布団に胡座をかいたじいさんの正面に、同じように腰を下ろす。
「……ばあさんが、一度会いに来いと言っている」
「嫌だ」
即座にそう返すと、じいさんは渋い顔のまま頷いた。
「うん……、藤乃がそういうのはわかるんだが。……由紀の娘と一緒になるなら、一度揃って顔を見せに来いと」
「余計に嫌に決まってるだろ」
ばあさんは今、伯父……親父の兄と同居している。子供の頃、何度も嫌がらせをしてきた伯父にも会いたくないし、その原因になった従姉の鈴美にだって顔を合わせたくない。
花音ちゃんを連れて行くなんて、なおさら嫌だ。何を言われるか、考えるだけで気が重くなる。
「いつまでも逃げ回っていられないのはわかるだろう?」
「そうだけどさあ」
「お前らが結婚するなら、周囲との兼ね合いがあるからあいつらを呼ばないわけにはいかないし」
「呼ばないって選択肢、ないのかな」
「……ねえなあ。ただでさえ末息子の小春が家業を継いでヤイヤイ言われたのに、さらにその後継ぎと嫁の披露に長男が出てないとなると、あいつらは須藤の家から勘当されているのだと周囲の目には映る。俺たちがどう思っていようと、周りはそう受け取る。たぶん、市内の仕事はごっそり無くなるだろうな」
自業自得とは思うけど、それで路頭に迷われても後味が悪いし、家庭内のごたごたを面白おかしく噂されるのも家の評判に響く。
それはわかってるけどさあ!!
「その辺りの機微も由紀の娘ならわかってるだろ?」
「わかってるのと、実際に体験させるのは別だよ。うちの揉め事に花音ちゃんを巻き込みたくない」
「アホか。うちに嫁に来るなら、いずれは避けられん。巻き込みたくないなら、最初から関わるなって話だ」
「……うん」
「というか、だ。由紀の家だって似たようなもんだろうが。嫁として須藤のごたごたに関わるか、娘として由紀の跡目問題に関わるかの違いでしかねえだろ」
「それは、そうだけど……。……ったく、わかったよ。で、いつ行けばいいんだ?」
「ばあさんに聞け。いや、今確認しよう」
じいさんがスマホを出してきてばあさんと電話する。
俺も代わって二言三言交わしてじいさんにスマホを返す。
「はぁ、気が重い……」
ぼやきながら部屋に戻って、花音ちゃんにメッセージを送る。
すぐに『わかりました』とだけ返ってきて、ぐだぐだ言ってる自分が嫌になる。
ついでに瑞希にも長文の愚痴を送ったら、「がんばれ」と吹き出しがついた、狸か猫かわからない変なスタンプが返ってきた。
返事があっさりしてるところ、あの兄妹はやっぱり似てるな、と今さら思う。
数日後、俺は駅のホームで花音ちゃんと待ち合わせていた。
スーツほどじゃないけど、襟付きのシャツに細身のスラックス、ブレザーを羽織って、きちんとした格好で来た。
伯父に余計なことを言われたくないし、俺は背があるぶん、服装を整えるとそれなりに迫力が出るのも自覚してる。
約束の数分前、花音ちゃんから電車に乗ったことと、乗っている車両の連絡が来たので、ホームを移動した。
しばらくして電車がホームに入ってきて、ドアが開くと、花音ちゃんが小さく手を振ってくれた。
「こんにちは、藤乃さん。……今日もかっこいいですね」
「こんにちは。それは俺のセリフだよ。花音ちゃんは今日もかわいいね。持って帰りたいくらい」
「持って帰ってもらっていいですよ?」
花音ちゃんはそう言って微笑む。
今日の花音ちゃんは、柔らかそうなブラウスに、ふんわりした膝下丈のスカート。ストッキングにパンプスを合わせている。俺がお願いしたんだけど、そうやってきちんとした服で来てくれるのが嬉しいし、やっぱりかわいい。
髪もふわっと結んである。
「花音ちゃん、今日は来てくれてありがとう。本当にごめん。嫌な思いをさせるってわかってるのに……」
「大丈夫ですよ。由紀の家でもそういうのはありますから。私が大学行ったときも叔母たちから散々言われましたし。それに、今日は藤乃さんがずっと隣にいてくれるんですよね? だから、大丈夫です。」
「好き」
思わずそう言うと、花音ちゃんはにこにこして頷いた。
「私も好きです。一緒に頑張りましょう。……藤乃さん、大きな犬みたいですね。耳と尻尾が垂れてるのが見えます」
……そうかも。
俺が犬なら、間違いなく耳も尻尾も垂れ下がって、背中まで丸まってる。花音ちゃんに会ったら、全力で尻尾を振って、じゃれついて手とか顔を舐めまわすと思う。間違いない。……犬じゃないけど、抱きしめてキスしたい。今、すぐに。
そうしているうちに、目的の駅に着いた。
花音ちゃんの手を引き、そのままバスに乗り換えた。
「あの、気になってたんですけど……藤乃さんのお父さんって長男じゃないですよね。なんでお兄さんが継がなかったんですか?」
「詳しくは聞いてないけど、伯父が反抗期のときに親父に押しつけようとしたら、親父がその気になって継いじゃって、それっきりみたい」
「あら……。藤乃さんへの嫌がらせって、それも理由に含まれますか?」
「……今まで気づかなかったけど、たしかにありそうだな。そっか……余計に行きたくなくなった」
肩を落とした俺の膝の上に置いた手を、花音ちゃんが笑顔のままそっと握ってくれた。
「ちゃんと、ご一緒しますから」
「ありがとう」
目的のバス停で降りて、歩く。
花音ちゃんの手を、いつもより少し強く握って、帰りたい気持ちをなんとか堪えた。
「……ここ」
立ち止まったのは、うちより二回りくらい小さい一軒家だ。造園屋と花屋を兼ねてるうちよりは小さいけど、一般的に見れば、普通か、ちょっと大きいくらいだと思う。
「花音ちゃん、悪いけど、これ代わりに渡してくれる?」
持ってきておいた紙袋を花音ちゃんに渡す。
中身はばあさんの好きな和菓子の詰め合わせだ。
「私も用意してますよ。ロールケーキとクッキーなんですけど……」
花音ちゃんが持っていた紙袋を見せてくれる。
……ちゃんとした贈答用の菓子店のものだ。
「ありがとう。わざわざ用意してくれたんだ?」
「あったほうがいいかなと思いまして。藤乃さんのは和菓子ですし、被らなくてよかったです。今度から事前に相談しますね」
「……うん。俺も、次からちゃんと伝えるよ」
花音ちゃんの手をそっと離し、インターホンに手を伸ばす。ためらっていると、花音ちゃんがそっと手を伸ばして呼び鈴を押した。
「ちょっ……」
「……はい、須藤です」
抗議する前に、伯父の奥さんの声がした。
「……須藤藤乃です。祖母に会いに来ました」
「……聞いています。今、開けます」
通話が切れる。
花音ちゃんを見ると、何も言わずにまた手を握ってくれた。
「嫌なことは、さっさと済ませたほうがいいです。大丈夫。絶対に一人にはしませんから」
「……好き」
門の横の扉がゆっくりと開いた。
そこから、小柄な女性が出てくる。美鈴とよく似ているけど、無表情な人だ。たしか、俺の母親より少し年上だったはずなのに、ずっと若く見える。
「ご無沙汰しております」
「藤乃くん……大きくなったわね。そちらがお相手の方?」
花音ちゃんが静かに頭を下げる。
「由紀花音と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「ご丁寧にどうも。……そう、由紀の家の人なの。ともかく、中へどうぞ」
「……鈴美さんは?」
「います。呼びましょうか?」
「いえ、今日は祖母に会いに来ましたので」
「まあ……そうでしょうね」
それきり黙りこくって、おばさんは先を行く。
俺と花音ちゃんも黙ったまま、付いていく。
「失礼します。お邪魔いたします」
上がらせてもらって、縁側沿いに奥へと進み、ばあさんの部屋に案内された。
「久しぶりだね、藤乃。……小春にそっくりになったね」
ばあさんの前に座布団が並んでいたから、奥を花音ちゃんに勧めて、俺も手前に腰を下ろす。
「よく言われるよ。ばあさん、小さくなったね。これ、よかったら食べて」
紙袋を差し出すと、ばあさんはゆっくり微笑む。
「じいさんから聞いたのかい。このお店、好きなのよ。ありがとうね」
「あ、あの、よろしければこちらもお召し上がりください」
花音ちゃんが紙袋を差し出すと、ばあさんは静かに頷いた。
「ご丁寧にありがとう、由紀の娘だね」
「は、はい。由紀花音と申します」
「呼び立てして悪いね」
ばあさんが紙袋をおばさんに手渡すと、おばさんは無表情のまま小さく頷いて部屋を出ていった。
すぐにお茶と茶菓子が出される。
「ありがとうございます」
おばさんは一つ頷いて下がっていった。縁側に通じるふすまは開け放たれていて、庭には穏やかな秋風が吹き抜け、ススキやフジバカマ、リンドウが静かに揺れていた。
「で、なんで呼んだんだよ」
「久しぶりに孫の顔を見たかっただけだよ。ようやく彼女もできたと聞いたしね」
「マジでそれだけ?」
「それだけだよ」
「……そう。ここに来るの、ほんと嫌だったんだけど」
ため息をついたら、ばあさんが肩をすくめた。
「それについちゃ、悪かったね。……冬一郎――お前の伯父さんは、そもそもお前の父親が気に入らなかったのよ。昔からね」
「そんな気はしてたけど」
「小春の方がでっかくなっちゃったからねえ」
「……は?」
……なんだ、それ。
確かに兄である冬一郎伯父より、弟の小春……父の方が背が高い。とはいえ、差はせいぜい十センチもないはずだけど。
「小春の方が背も高くて家業も継いで、今じゃ須藤の当主だからね。冬一郎が僻むのも無理ないさ」
「それで俺に、あんなくだらない言いがかりつけてたんだ?」
「その上、鈴美が藤乃を気に入っちまったから、最悪だよ」
「知らないよ……。俺、何も悪いことしてないんだけど」
思わずボヤいてしまう。
そんな理由で十年近くも嫌がらせされてたのかと思うと、正直どう受け止めればいいのか、わからなかった。
「すまないね、花音さん。放置しちまって」
ばあさんが花音ちゃんに向き直った。
「い、いえ、お気になさらず」
「小春は昔から由紀の息子と仲が良かったけど……今でもそうなの?」
「はい。父と須藤さんは今でもよく一緒にごはんに行ってます」
「そうかい。まあ小春が幸せにしてるならいいんだ。藤乃はどう?」
ばあさんが顔だけ俺に向ける。
「何が?」
「花音さんと一緒にいられて、幸せ?」
「幸せだよ」
そう答えると、ばあさんは黙って頷いた。
「花音さん。この子には、私のいたらなさでいらない苦労をかけた。でも、桐子さんのおかげで真っ直ぐに育ってくれた。目をかけてやれなかったけど、大切な孫なんだ。どうか、よろしくお願いします」
そしてゆっくり頭を下げる。
花音ちゃんが慌てて畳に手を付いた。
「そ、そんな、どうか頭を上げてください。こちらこそ、藤乃さんにも須藤のご家族にも、本当によくしていただいています。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
この光景を、俺はどう受け止めればいいんだろう。
ばあさんが家を出たのは、少なからず自分のせいだと思ってた。
でも、ばあさんも、俺のことをずっと気にかけてくれてたらしい。
「……ばあさんは、帰ってこないの? じいさん寂しそうだけど」
思わずそう言うと、ばあさんは静かに首を横に振った。
「今さら戻るつもりはないよ。藤乃が結婚したら、じいさんが引退して、一緒に医療付きのマンションに入ろうかって話してるけどね」
「えっ、そうなの?」
……そんなの、聞いてないけど。
親父たちは聞いているのだろうか。
「あの家も、さすがにもう一人増えたら狭いだろうしね。それに、じいさんとは月一デートしてるから気にしなくていいし……」
ばあさんはニヤッと笑って声を落とした。
「実はね、桐子さんとも月一くらいでお茶してるんだよ。じいさんと小春には内緒ね」
「そうなの!?」
「あの子は、うちの三女だから」
ばあさんは庭を眺める。
意味を聞こうとした、そのとき、廊下の向こうから、ドカドカと足音が響いてきた。
「……ご無沙汰してます」
やってきたのは冬一郎伯父で、憎々しげに俺を睨んでいる。
「何しに来た」
「冬一郎、おやめ。私の客人だよ」
「母さん! まだ小春を贔屓するのか!?」
「ここで藤乃になにかあって、困るのはお前だろうに」
伯父がばあさんと俺を交互に見て、俺の奥にいる花音ちゃんに気づいた。
「ちっ……ガキのくせに、生意気に色気づきやがって」
腹が立って、思わず背筋を伸ばした。
伯父を睨みながら、ゆっくり言葉を選ぶ。
「伯父さん。由紀の家に失礼があれば、俺も親父も黙ってませんよ」
「……お前、じじいを味方につけて偉そうにしやがって!」
「冬一郎、もう一度言います。おやめなさい。これ以上、恥の上塗りをしてどうするの」
「……っ」
伯父は足を踏みならして出て行った。
……何しに来たんだ。
「ごめんね、花音ちゃん。……見ての通り、まあ……ちょっと相性が悪くてさ」
「私は大丈夫です。ありがとうございます。藤乃さんもおばあさまも、かばっていただいて」
花音ちゃんがやわらかく微笑んでくれて、胸の奥がきゅっとなった。
申し訳なくて仕方ないけど、それでも笑ってくれてよかった。
「お義母さん」
「あら、どうしたの」
音もなく、おばさんが戻ってきた。
「お持たせなんですけど、よければ三人で召し上がってください。あの人が見つけたら、きっと怒って捨ててしまいますから」
「まあ、ありがとう。あなたと鈴美の分もちゃんと隠しておきなさいよ」
「はい、そうさせてもらいます」
おばさんは、また静かに出て行った。入れ替わりで、今度は鈴美が顔を出す。
「ふっくん、久しぶり」
思わず花音ちゃんを背中にかばった。
鈴美が顔をしかめた。
「おばあちゃん、私もお話させてもらってもいい?」
「喧嘩しないならね」
「……気をつけます」
ばあさんの横に鈴美が正座した。……こいつ、どういうつもりで出てきたんだ?
「ふっくん、そちらの方と結婚するの?」
「そのつもりだけど」
「……あなた、前にふっくんと私の展覧会に来てた人だよね。あのときから付き合ってたの?」
花音ちゃんは鈴美をまっすぐ見つめて言った。
「いえ、あのときはまだお付き合いしていません」
「……どっちから告白したの?」
「俺からだよ。鈴美、何が言いたい?」
鈴美はうつむいて、膝の上の拳を握りしめた。小さな手には白く骨が浮いている。
「……だって」
「藤乃、やめなさい。鈴美もだよ。喧嘩しないと約束したからここに置いているんだ。落ち着いて話せないなら、出て行きなさい」
「……ごめん。……藤乃さん……ご結婚、おめでとうございます」
「うん……」
まだプロポーズもしてない。でも、それを否定する気にもなれず、ただ頷いた。
鈴美は顔を上げずに出て行った。
「下手くそだねえ、あの娘も」
ばあさんは苦笑して、おばさんが持ってきてくれた菓子を食べている。
俺らにも勧めてくれたのでありがたく食べる。
美味しくて、つい手が伸びる。今度自分用にも買おう。
「なあ、さっきの“母さんが三女”って、どういう意味?」
「ああ。桐子さんは元々別の花屋の娘だったんだけどね、家族と揉めて追い出されたところを小春が拾ってきたから、うちの子にしたんだよ」
「なにそれ……?」
「そのままさ。小春がじいさんを継いで、桐子さんが私のやってた小さな花屋を引き継いで、あそこまで大きくしてくれたんだ。私は感謝してるけど、つけいる隙がなくなった冬一郎は、あのとおり」
俺の顔は母親似だけど、話し方や表情は親父に似ているらしい。
……伯父が家を継げなくなった原因となった二人に似ていて、しかも娘まで奪われそうになったから、俺は目の敵にされてたらしい。
「……俺、ただのとばっちりじゃん」
「そのとおりだよ。私がじいさんのところに帰ったりしたら、あれは小春を刺しかねない。だから私は帰らない」
「そっか。わかった。馬鹿なこと聞いてごめん」
ばあさんは「かまわないよ」と穏やかに言って、お茶を口にした。
そして花音ちゃんに体を向けた。
「すまないね、うちのもめ事に付き合わせて」
「気になさらないでください。……お恥ずかしい話ですが、由紀の家でもある話ですので」
珍しく遠くを見つめる花音ちゃんを、そっと覗き込んだ。
花音ちゃんや瑞希から、そういう話を聞いたことはないけど、やっぱりあるんだ?
「瑞希や花音ちゃんも揉めるの?」
「瑞希はそうでもないです。大事な跡取り様なので。でも私と母は叔母たちからの風当たりが強いですね。大好きなお兄ちゃんを横取りした憎い嫁と、金食い虫の娘って言われてます」
花音ちゃんは何でもないように言ったけど、それってなかなか酷くないか。
「それ、由紀さんと瑞希は知ってるの?」
「女は、男の人に見つかるような場所では陰口は叩かないものなんですよ。ま、父と瑞希も察してはいるので私たちを叔母たちと鉢合わせさせないようにしてくれてます」
「……それ、初めて聞いた……」
「言いませんよ、そんな重たいこと。そもそも正月くらいしか会いませんし」
「今度、ちゃんと挨拶させてね」
「大丈夫ですって」
「……俺が、嫌なんだよ」
ばあさんが、ふふっと笑った。
「藤乃は小春にそっくりだね、まったく。おや、もうこんな時間だ。またおいで。私が生きているうちに式を挙げてね」
「はいはい、近いうちにね」
「花音さんも気をつけてお帰り」
「はい、ありがとうございました」
花音ちゃんと並んで、ばあさんの部屋を出た。
座ったまま手を振るばあさんが、やけに小さく見えた。
玄関でおばさんが見送ってくれたから、騒がせたことを謝っておく。
「桐子さんにも、よろしくお伝えください」
「はあ……」
「実は、桐子さんとはたまにお茶をしているんです。秋絵さん、夏葉さんも一緒に」
「えっ……そうなんですか……?」
秋絵と夏葉は親父の姉さんたちだ。須藤家の嫁と娘で集まってるってことか……?
「花音さんも、いずれいらしてね。ちなみに前回は……」
おばさんが上げた名前は都市部にある高級ホテルだ。そんな豪華な集まり、してたのか……。
「そこで女子会プランを利用してエステとアフタヌーンティーを楽しんできました。ちなみに費用はお義母さん……と見せかけて、お義父さん持ちです。次回は桐子さんから花音さんにもお声がけしますね。鈴美は呼ばないから、安心していらっしゃい」
「あ、ありがとうございます……」
「藤乃さん。長く付き合うには、どれだけ親しくても距離を保つことが大事です。たまにはひとりになったり、別の相手と過ごして息抜きすることで、改めて愛情を感じられるんですよ」
「はあ……」
「呼び止めてしまってごめんなさいね」
おばさんに挨拶をして、家を出た。
昼過ぎに来たはずなのに、空はもうすっかり赤く染まっていた。
花音ちゃんの手をそっと取って、指を絡めた。
「今日はありがとう、付き合ってくれて」
「いえ、紹介していただけて嬉しかったです」
「……ていうか、叔母さんたちが集まってるなんて知らなかった。最後におばさんが言ってたのって、なんだったんだろう……?」
夕陽に向かってゆっくりと歩く。虫の音が響き、秋の風が心地いい。
「たぶん、お祝いかな」
虫の音がこんなに賑やかなのに、花音ちゃんの声だけは不思議とよく聞こえた。
……お祝い?
「せっかく、一緒になるなら、長続きするようにって教えてくれたんだと思います。末永くお幸せに……ということかと」
「そっか。お祝いなら、ありがたく受け取ろうかな」
「そうしましょう」
バス停に着いたところで、後ろからパタパタと足音が聞こえた。
振り返ると鈴美が走ってくる。
「っ、ふっくん、あの、私、私ね」
息を切らす鈴美を見ながら、花音ちゃんを背中に庇う。
息を整えた鈴美が、まっすぐに俺を見上げる。
「……藤乃くん、私、あなたのことがずっと好きです」
「俺は、お前のことは好きにならない」
「……うん。ありがとう、ちゃんと振ってくれて。花音さんとお幸せに。それじゃ」
鈴美は小さく微笑んで、踵を返し、そのまま静かに去っていった。
バスが来て、花音ちゃんと一緒に乗り込む。がらんとした車内の一番後ろに、並んで腰を下ろした。
「藤乃さん、告白されても驚きませんでしたね」
「まあ……そんな気はしてたから。でも、自分から聞くのも変だし」
繋いだままの花音ちゃんの手を握り直して、そっと肩に寄りかかった。
「花音ちゃん、今日は一緒に来てくれてありがとう。そばにいてくれて、本当に助かった。『一人にしない』って言ってくれたおかげで、逃げずにちゃんと向き合えたよ」
「私も嬉しかったですよ、誘ってもらえて、紹介してもらえて。……おばあさんとお義母さんって……似てますよね」
「……うん。あっさりした感じは似てる。娘って言ってたし、母娘なら似ててもおかしくないね」
バスがゆっくり駅のロータリーに入っていく。
電車に乗り換えて、並んでつり革に掴まる。
「最寄り駅まで送るよ」
「はい、ありがとうございます」
暮れていく夕陽を眺めながら、他愛のない話をぽつぽつと続けた。
言わなきゃいけないことがある。でも、それを考えただけで喉が渇いていくのがわかった。
もし俺が犬だったら、きっと尻尾は脚の間に挟まってた。
やがて駅に着いた。
電車を降り、階段を下りて、改札の手前まで歩く。
今言わなきゃ、きっともう言えなくなる。
「藤乃さん」
「うん?」
「何か、言いたいことがあるのではないですか?」
やっぱり俺はこの子に敵わない。
花音ちゃんの手を握り直して、まっすぐその瞳を見つめた。
「花音ちゃん、来月旅行に行かない?」
「旅行ですか? はい、行きたいです」
「その……年末年始から年度始めにかけて、造園屋も花屋も目が回るくらい忙しくなるからさ。たぶん、まともに会うのも難しくなる。だから、その前に」
「確かに……年末はうちも忙しくなりますから」
花音ちゃんが受け入れてくれて、胸の奥がふっと軽くなる。
……もう一個、言わないといけないんだけど。
「それで……行くなら、ちゃんと……準備しますので」
「旅行の準備ですか?」
首を傾げる花音ちゃんの耳元に口を寄せた。
「……避妊具の、です……」
「……っ、わ、わかりました。私も準備、しておきます」
「花音ちゃんも?」
「心の準備を……」
真っ赤な顔で俺を見る花音ちゃんに、何も言えない。言えないけど、もし尻尾があったら、全力で振り回してた。



