九月も半ばを過ぎたのに、まだ暑さが和らがない。
 理人の祖父の依頼で、マンションの庭木の剪定をしているけど、陽射しが肌にまとわりついて、じりじりと焼かれるようだ。
 虫や葉っぱが入るから、長袖長ズボン、ハイネックに前掛け。頭は汗が止まらないから手ぬぐいを巻いてるけど、それもすぐに滴ってくる。ファン付きの空調服を着てはいるけど、それでも暑さはどうにもならない。

「お疲れさまです」

 一時間おきくらいに理人が冷たい麦茶と塩飴を持ってきてくれる。そのおかげで、なんとか持ちこたえている。

「おう、サンキュ」

 はしごから下りて麦茶を受け取る。あとちょっとで終わりそうなんだけど。

「そろそろお昼にしませんか? 簡単ですけど用意しました」
「作ってくれたんだ? 理人の手料理、久しぶりで嬉しいよ。……いや、俺以外の誰かが作ってくれたってだけでも、嬉しい」
「その気持ちはわかります」

 はしごや箒、ちりとりなんかを隅に寄せて、理人についていく。
 俺が大学生だった頃から、理人にはたまに飯を作ってもらっていた。理人はまだ小学生だったけど、家庭科の課題につきあったり、親御さんの差し入れを一緒に食べたりしていた。
 今では理人も大学生になったけど、今もこうして食事を作ってもらったり、たまに一緒に食べに行ったりしている。

「今日は暑いから冷やしラーメンです。レイラさんが出張のお土産にくれたんですけど、美味しかったから、藤乃さんもぜひ」
「ありがと」

 管理人室に入ると、ミニキッチンに簡易ベッド、座布団とこたつ机が置かれていて、暮らすには無理があるけど、日中を過ごすには十分な設備だった。
 ミニキッチンの端に置かれた小さな冷蔵庫から、盛り付け済みのラーメン鉢が二つ出てきた。ラーメンには味玉、めんま、チャーシューが乗っていて豪華だ。
 冷蔵庫の上の電子レンジからは温かい餃子まで出てきて、至れり尽くせりだった。
 理人は小中学生の頃から俺の世話を焼いていたし、高校ではラーメン屋でバイトもしていたから、料理がやたらと上手い。というか、進学校に通っていたのにバイトまでしてたんだよな、こいつ。

「いただきます」
「召し上がれ」
「お、うまいなこれ。ラーメンがそのまま冷たくなってるんだ?」
「そんな感じです。冷やし中華とはまた違っておいしいですよね」

 冷たいラーメンと温かい餃子の組み合わせが絶妙で、箸が止まらなかった。
 どちらも美味しくて、あっという間になくなってしまった。

「うまかった……! ごちそうさまでした!」
「どういたしまして。あ、そうだ。菅野さん、また凹んでましたよ」

 理人が立ち上がって食器を片付けるから、手伝う。
 洗うのくらいさせてほしい。理人は手際も気配りも抜群だから、油断すると何もかもやってくれてしまって、こっちが人としての危機感を覚える羽目になる。
 こいつと付き合っててダメにならない茉利野はしっかり者だと思う。

「葵? 今度はどうしたの」
「花音さんに余計なことを言ってしまったと」
「ふうん。気にしなくていいのにね」

 この前、花音ちゃんに気を遣いすぎて、半泣きになっていたときのことだろう。
 甘える相手は選べって言ったのは、理人にじゃなくて朝海にって言ったつもりだったんだけどなあ。

「藤乃さんはもう少し気を遣ってください。たまに無神経で冷たいですから」
「気をつけてるつもりなんだけどな。葵だとどうしても気が緩んじゃって、難しいんだよ」
「いい大人が何言ってるんですか」

 俺が洗ったラーメン鉢を理人はさっさとキッチンペーパーで拭いて片付けている。散らかっているのが苦手なタイプなんだ、理人は。たぶん俺の部屋を見たら、すごい勢いで片付けるんだろう。
 ……というか、俺が一人暮らししてた頃も、散々片付けられたんだった。

「そういえば、月末のお祭りって何かやるんですか? 最近、商店街の青年会で活動されてますよね」
「……うん。瑞希と一緒にお神輿の先導役する」
「わ、すごいですね。レイラさんとデートがてら見に行きますね」

 理人はにこにこしているけど、正直、俺は気が重い。
 地元のお祭りは三年に一回くらいのペースで開催する。
 前回までは裏方だったけど、今年は青年会の仕事をするようになったせいで、毛槍を持ってお神輿の先導役を任された。
 ……今年は花音ちゃんとお祭りを回れそうになくて、それが正直、かなり不満だ。

「お神輿は担がないんですか?」
「うん。俺と瑞希が背が高すぎて、他の人が大変になっちゃうからね」
「ああ……」
「やだなあ……花音ちゃんと浴衣デート、したかったのに……」
「まったく、いい大人が何をぼやいてるんですか……。花音さんにも役目があるでしょう? 菅野さんは藤乃さんの家の手伝いですよね?」
「うん。花音ちゃんは神社でお神酒配ったり、子どもたちにお菓子配ったり」

 そう、葵はうちの店を手伝ってくれる。
 今回のお神輿は、大人用の大きいものと、子ども用の小さいものの二つがある。それぞれに休憩所としてうちの駐車場を貸し出すことになっているから、準備と片付けをしてもらうことになっている。
 朝海が神輿の警備に入るから、その間のお守りってわけだ。
 花音ちゃんも似たようなものだけど、お神輿を担ぎ終えた人たちにお酒やお菓子を配る係だ。
 つまり、俺が役目を終えて戻れば、花音ちゃんが出迎えてくれるってわけだ。
 気が進まない役目だけど、花音ちゃんが笑顔で待ってくれてるなら、それだけで頑張れる気がする。

「理人はなにかするの?」
「いいえ、僕……というか、祖父がスポンサーなのでそれ以外には役目はないです」
「なるほど……」

 ふと理人が顔を曇らせた。

「菅野さんは藤乃さんのご実家で、花音さんも神社で他の方と一緒ということであれば大丈夫だとは思いますが……」
「なに?」
「最近、近隣のお祭りで女性への悪質な声かけが続いているんです。気をつけてください。菅野さんには、僕からも伝えておきます」
「ナンパってこと?」

 詳しく聞くと、理人は顔をしかめて教えてくれた。
 初夏、隣の市の祭りで女子大生に対するしつこい声かけがあったらしい。警備中の地元の人が気づいたものの、相手は逃げてしまった……その後も、似たような事例が片手では数えきれないほど起きているらしい。

「断っても、時間をおいてまた付きまとわれたり、馴れ馴れしく迫ってきたり……でも、別の男性が声をかけると、あっという間に立ち去るそうです。くれぐれも、花音さんに気をつけるよう伝えてください」
「わかった。ありがと」


 夕方になる前に、午後の剪定と花壇の手入れを終えて、理人に声をかけてマンションを出た。
 帰宅して片付けたら、花屋に顔を出す。
 母親と葵が店番をしていたので手伝って、葵が上がるタイミングで俺も店を出て親父を拾ってから葵を送る。

「藤乃くんとパパさんは、今から青年会?」
「そうなんだよ。めんどくさい……」

 親父が助手席でスマホをいじりながらぼやく。

「言うなよ、俺だって面倒なんだから。つーかたまには親父が運転してくれよ」
「老眼だから無理」
「ったくさー……」
「そうやって言いながらも運転してくれるのが、藤乃くんのいいところだよね」
「褒めても何も出ないぞ」

 ふと思い出して、昼間理人から聞いたナンパの話を葵にする。
 葵は知っていたらしく、「それね」と頷いた。

「朝海くんから聞いてたよ。だから藤乃くんの家の手伝いになったんだ」
「ああ、そういうことか。……ってことは、親父も知ってたの?」
「……今思い出した。由紀には俺から伝えておく。花音ちゃんにも、お前からちゃんと言っとけよ」

 「桐子さんをうちの敷地から出さないようにしないと……」なんてつぶやきながら、親父はスマホをいじっている。たぶん、由紀さんにメッセージでも送ってるんだろう。もしかしたら、母親にも。
 そうこうしているうちに神社に着く。
 祭り前の神社は、提灯がぐるりと飾られていて、すでにどこか賑やかな雰囲気だった。

「送ってくれて、ありがとう」
「いーえ。祭りの日もよろしく」
「頑張ります!」

 そのまま、青年会の打ち合わせが行われている社務所へ向かう。

「お疲れ様でーす」
「よーお」

 奥の方で瑞希が手を振っているから、向かう。
 由紀さんもいて、親父は「由紀ー、酒持ってるかー?」なんて声をかけている。……何しに来たんだ、ほんと。

「俺は持ってないけど坂木がビール差し入れてくれたから飲もう飲もう!」

 ……親父が運転しない本当の理由は、老眼じゃなくてこれなんだよな。いや、それならせめて行きくらい運転してくれって話だよ。
 今日は神輿の経路確認と、法被のサイズ確認。
 大きく印刷した地図に、経路と休憩所、時間が書いてある。

「由紀と須藤の息子たちは特にしっかり把握しとけよ。毛槍が先導役なんだからな」
「うっす」
「前日にまた地図見ながら現地の確認すっからね。狭い場所や車の通りが多い場所、あとはバス停なんかも確認しといて」
「了解」
「とにかく、お前らは背があるし、顔も悪くない。見栄えがいいから、先頭に立ってもらえれば青年会や町内会の印象も良くなる」
「……そうでしょうか?」

 とにかく、瑞希と一緒に、地図で神社を起点に経路を順に確認する。
 一通り終えてから、つまみをかじっている瑞希に声をかける。

「今日、花音ちゃんは?」
「留守番」
「……そっか」
「藤乃が法被着てる写真を撮ってこいって言われてる」
「写真ほしいのは、こっちなんだけど!?」
「はいはい。……あ、試着、俺らの番ですか?」

 衣装管理をしているのは葵の母親で、パーティションの前で俺と瑞希を呼んでいる。
 パーティションの奥に入ると法被を渡されて、羽織る。

「……法被って、こんなに小さかったっけ?」
「法被が小さいのではなく、藤乃くんが大きいのよ。瑞希くんも肩がキツそうねえ……」
「これじゃ、毛槍なんて持ちあがんないっすよ」

 結局、置いてあった中から一番大きいサイズを出してもらってギリギリ。
 ついでに写真も撮ってもらって終わりだ。

「花音ちゃんに送った?」
「送ったけど……返事来た。……ウザ……」

 瑞希のスマホを覗きこんだら、手を合わせる絵文字と一緒に、「瑞希いらないから、藤乃さんだけの写真送って」なんて返事が来ていた。
 まあ、俺も瑞希と花音ちゃんの二人の写真が送られてきたら同じこと返すけど。

「ていうか俺を挟むなよ。二人でやれ」
「自分の写真撮って送るの恥ずかしいんだけど」
「俺が挟まってるだけで、やってること変わんねーだろ」

 瑞希が俺のスマホをひったくってカメラを向けてきたから、とりあえずピースしておいた。何枚か撮られて返されたので、そのまま花音ちゃんに送る。
 すぐに『かっこいいです!ありがとうございます!』と返ってきた。
 祭り当日は花音ちゃんの写真を撮りまくろう。
 その返信に、理人から聞いた話も添えておいた。ついでに瑞希にも伝えておく。
 酒盛りをしている親父を回収して、家に帰る。

 そんなふうにして準備を進めているうちに、祭りの当日がやってきた。
 早朝に葵が来て、じいさんと母親と一緒に準備を始めたから、俺と親父は神社に向かう。
 社務所の奥に用意された控室で着替えて、葵の祖父である神主さんが祝詞をあげるのを見守る。
 俺と瑞希は毛槍を受け取り、親父と由紀さんは獅子頭を担ぐ。神輿が担がれたら、いざ出発だ。
 ……花音ちゃんは倉庫で作業中らしくて、会えなかったのは残念だけど、戻ればきっと会える。だから、前を向こう。
 先導役は俺らだけど、周りには青年会や町内会のおっさんがたくさんいて、わあわあ言いながら進んでいく。
 道沿いには人垣ができていて、カメラのフラッシュがやたらと眩しい。正直もう帰りたいけど、ゴールには花音ちゃんが待っている。それだけを支えに、とにかく経路通りに歩く。
 何ヶ所目かの休憩所でうちの駐車場にやってくる。

「藤乃くん、お疲れさま」
「おー、助かる」
 葵が麦茶を持ってきてくれたから、遠慮なく飲み干す。

「由紀さんもどうぞ」

 麦茶を受け取った瑞希が、汗でぐちゃぐちゃの顔のままパッと笑う。

「ありがと、葵ちゃん。可愛い子にもらうとより美味い気がする」
「やめとけ瑞希。こいつの彼氏に刺されるの、俺だからな」
「刺されるのは俺じゃないから、いくらでも言うわ」
「ウザ……」

 休憩中も、町内会の記録係が写真を撮っていく。
 たまに一般の人にも撮られるけど……なんなんだろうな、あれ。
 休憩所毎に花音ちゃんにもメッセージを送る。
 今回は葵に瑞希との写真を撮らせたので送っておく。
 ……花音ちゃんの写真もほしいけど、送ってはくれない。
 まあ、向こうは町内会の女性陣に囲まれて写真撮るどころじゃないんだろうけど。
 汗を拭いて立ち上がり、ペットボトルを葵に返して毛槍を受け取る。
 ゴールの神社まではあと二時間くらいだろうか。つまり、花音ちゃんの顔を見られるまで、あと二時間。じりじりとだけど、近づいている。

「行こうか」
「おうよ」

 瑞希と並んで歩き出す。
 隣にいるのが、気心の知れた顔で本当に良かった。
 そうじゃなかったら、とっくに嫌になってたと思う。