残暑の厳しい九月の夕方。私は汗だくで須藤造園さんに花を卸していた。
 今日は地植え用の苗を台車に積んで、須藤さん――藤乃さんのお父さんに持ってきた。

「種類と数に間違いがないか、確認のほどお願いします」

 納品書を手渡すと須藤さんは目を伏せてひとつひとつ確認する。
 その鋭い目つきは、藤乃さんと瓜二つだ。
 顔立ちはお母さん似だけど、表情や話し方はお父さんそっくりで……どちらと一緒にいても、私はつい笑みがこぼれてしまう。
 ……今は藤乃さんはいないけど、想像してしまうくらいには、いつも藤乃さんのことを考えている。

「はい、問題なし。いつもありがとう」

 須藤さんが受領書にさらさらとサインするのを見て、私はまた心の中で(字の癖もお父さん譲りなんだな)と思った。

「こちらこそ、いつもありがとうございます。失礼します」
「花屋、寄ってかないの?」

 頭を軽く下げて車に乗ろうとしたら、呼び止められた。振り向くと須藤さんが花屋のほうを見ている。

「今日はお花屋さんへの納品じゃありませんし、お仕事中ですから……」
「そんな気い遣わなくても。今の時間ならそう忙しくないだろうし。あ、じゃあこれ、藤乃に返してきて」

 須藤さんは腰から下げた道具差しから小ぶりな鋏を取り出した。
 使い込まれた鋏を受け取ると、見た目よりもずっしりと重たかった。

「それ、藤乃が剪定で使ってる鋏なんだけど、借りてそのまま返すの忘れててさ」
「ふふ、わかりました。承ります」

 須藤さんに軽く頭を下げて、鋏をそっと胸に抱えながら花屋へ向かった。
 裏口をノックすると、「はーい」と明るい声がして、すぐに扉が開いた。

「花音ちゃん、いらっしゃい。藤乃くん、いま接客中だから、お花は私が一緒に運ぶね」

 笑顔で迎えてくれたのは葵さん。その奥では、藤乃さんがにこやかにお客さんと話していた。

「こんにちは、葵さん。今日は納品じゃなくて、須藤さんのお使いで来ました。藤乃さんに鋏を届けに」

 鋏を見せると葵さんは頷く。

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 葵さんは、藤乃さんがいつもしてくれるみたいに、椅子とお茶を出してくれた。
 ありがたく受取ったところで花を抱えた藤乃さんがカウンターの内側に戻ってきた。

「花音ちゃん! いらっしゃい、ちょっと待っててね」

 藤乃さんは穏やかに笑って、お客さんと話しながら、ばらばらだった花たちを手際よくブーケにまとめていく。
 慣れた手つきで花をまとめながら、お客さんとも穏やかに言葉を交わしている。
 つい、その指先と顔を交互に見てしまう。
 ふと気づくと葵さんが店内の掃除をしながら藤乃さんを見ていた。見ているのは、たぶん手元かな。

「……っ」

 葵さんと目があったと思ったら、焦ったようにすぐに逸らされた。
 やがて藤乃さんはブーケを完成させて、お会計をしてお客さんと外に出ていく。
 葵さんがカウンターの中に戻ってきた。

「あの、花音ちゃん」
「なんですか?」
「……気をつけてはいるんだけど、もし感じ悪く見えたり、余計なこと言ってたら、ごめんね」
「どうしたんですか、急に」

 うつむき加減の葵さんは、眉間にシワを寄せて、ずいぶん悲しそうな顔をしていた。

「その、私が余計なこと言っても、理人がいれば止めてくれるけど……藤乃くんは気づくのが早いタイプじゃないし、花音ちゃんも我慢しちゃいそうで……あ、こういう言い方がダメなんだっけ」

 葵さんが焦ったように顔を上げたけど、藤乃さんは外で別のお客さんと話していた。
 外を覗くと、地域のイベントで一緒だった子どもたちに囲まれていた。しゃがんで目線を合わせながら話していて、思わず頬がゆるむ。
 葵さんも、まぶしそうに目を細めて、その様子を見ていた。

「葵さん、何かあったんですか?」
「ごめん、わかりづらかったよね。あのね、私の実家、神社なの。○○神社っていうんだけど」
「そうだったんですね。知りませんでした」
「それでね、おじいちゃんが宮司をしてて、次はお父さんが継ぐことになってて……お父さんは入婿なんだけど……まあ、それはいいとして」

 眉間にシワを寄せたまま、葵さんはポツポツと話す。
 話の行き先が見えないまま、私は黙って葵さんと、日向にいる藤乃さんを交互に見ていた。

「……お母さんが、氏子さんの奥さんたちにいろいろ言われてるのを見てきたから、私も、そうならないようにしたくて」
「いろいろ、ですか?」
「うん。娘しかいないから跡継ぎになれないとか、宮司の娘のくせに気が利かないとか……まあ、そういう……嫁姑みたいなこと」

 「あ、でも……」葵さんは困った顔で言葉をつなげた。

「おばあちゃんはそんなこと言わないし、気づいたら止めてくれるんだけど……」

 葵さんはまた外に顔を向ける。
 藤乃さんは子どもたちと話し終えて、立ち上がりながら手を振っていた。

「葵さんは、お母さんを傷つけた人たちと同じにはなりたくないんですね」
「……うん」
「そうやって気をつけてるなら、きっと大丈夫です。藤乃さんのことを大事に思ってるから、私にも気を配ってくれてるんですよね」
「どしたの?」

 戻ってきた藤乃さんが目を丸くして私と葵さんを見比べる。
 葵さんは泣きそうな顔で藤乃さんを見上げている。
 その顔に浮かんでいるのは、思慕なんかじゃなくて、叱られそうで怯えてる妹そのものだった。
 兄にやらかしたことのある私にはわかる。

「お疲れさまです、藤乃さん。こちら、お義父さんから預かってきました」

 鋏を渡すと、

「また俺の使ってる! 自分のを研げって言ってるのに……!」

 藤乃さんは「ったくもー」なんて言いながら鋏をエプロンにしまって、こそっと葵さんを指差す。

「葵は、どしたの?」
「なんて言えばいいのか……余計なこと言ってないか、不安だったみたいです
「ああ、そういうこと。理人いないから」

 藤乃さんはあっさり納得して葵さんの前に屈む。

「葵、わかってると思うけどさ。お前が何か言っても、それで花音ちゃんが傷ついてるかどうか、俺にはすぐにはわかんないんだよ。もちろん、花音ちゃんがそういう顔してくれたら気づけるけど」

 葵さんは小さくうなずいた。

「理人がいつもいるわけじゃないし、俺もそう。師匠より先に師匠離れしたのはお前だろ。自分の言動は自分で責任もて。甘えていいのは、許してくれる相手だけだ」

 藤乃さんって、意外と厳しい。たぶん、兄じゃなくて師匠だからなんだろうけど。
 葵さんは慣れているのか、表情がさっきより穏やかだった。

「出不精だった俺の背中を押したのは、お前と理人だろ? 俺にできるのは、お前が頑張るならそれを応援するだけ。失敗したら慰めるくらいはするけど、叱ったり甘えたりは、それをしてくれる人のとこに行け。俺の腕は花音ちゃんで手一杯だから」
「……うん。そうだね。ありがとう、藤乃くん。私、ちょっと考えすぎてたみたい」

 葵さんはやっと少し笑ってから、私のほうを見た。

「花音ちゃん、おめでとう。これね、朝海くんと出かけたからお土産。よかったらどうぞ」

 差し出されたのは、手のひらより少し大きめの紙袋だった。
 藤乃さんは小さくうなずいて、カウンターの外へ出ていった。

「……ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「もちろん」

 中身はハンドクリームだった。『爪のケアにも』と書いてある。

「どうしても指先、カサついちゃうでしょ。よかったら使ってね」
「ありがとうございます。では、私はそろそろ帰りますね」
「藤乃くん、呼んでくるね」

 葵さんがカウンターから出て、藤乃さんが戻ってきた。

「車まで送るよ。葵、店少しよろしく」
「ありがとうございます。葵さん、ハンドクリーム、大事に使いますね」
「どういたしまして」

 藤乃さんが裏口を開けて待っていてくれたから、私はそのまま外に出た。
 並んで、駐車場まで歩いていく。

「鋏、ありがとう。今日は親父のとこに苗を持ってきてくれたんだよね」
「はい。納品を終えて帰ろうとしたら、藤乃さんのところに顔を出す理由を用意してくれて」
「親父、そういう気も遣えるんだな。母さん以外に気を遣ってるの、初めて見たかも」

 藤乃さんは苦笑するけど、たぶん照れ隠しなんだろう。
 車に乗り込んだ私に、扉を閉める前、藤乃さんがすっと手を差し出した。

「さっきのハンドクリーム、開けていい?」
「はい、構いませんが……」
「手、貸して?」

 あ、塗ってくれるんだ?
 藤乃さんは私の横に膝をつくから、そっと手を差し出したら、優しく指先が取られる。
 ハンドクリームを指先に取った藤乃さんが、自分の手のひらで私の手にゆっくりすり込んでいく。

「わ、いい匂いです」
「ほんとだ」

 私の手に藤乃さんが顔を寄せた。
 ……なんか、王子様みたいだ。

「ごめんね、葵の甘えに付き合わせて」
「……いえ、全然そんな。でも、藤乃さんが思ったより葵さんに厳しくて……少しびっくりしました」
「俺、別に優しいわけじゃないよ。冷たくならないように気をつけてるだけ。あとは……花音ちゃんが好きだから、大事にしようとしてるだけ」
「……ありがとうございます」

 爪の先までクリームを塗り終えて、藤乃さんがやっと顔を上げた。
 立ち上がったかと思うと、爪にそっとキスされた。
 王子様だ……!

「ふ、藤乃さん……」
「なあに?」
「……それも、お義父さんがお義母さんにしてたんですか……?」

 そう聞くと、藤乃さんはきょとんとしたあと、顔を赤らめてそっぽを向いた。

「……似たようなことは、してた」
「あの、嬉しいんですけど恥ずかしいのでお手柔らかにお願いします」

 藤乃さんはこてっと首をかしげて私の方を向いた。

「嫌ではない?」
「そんなことはないです」
「そっか、良かった。じゃあまた塗らせてね」

 柔らかく微笑んでいるけど、目がちっとも笑ってない。お手柔らかになんてする気は、きっとないんだろうな。
 まあ……いいか。
 車の扉を閉めてエンジンをかける。
 走りだしても藤乃さんはずっと手を振ってくれる。
 はじめて見送ってくれた時と同じように。


 帰ったら、温室に行って、明日納品予定の苗を台車に乗せておく。
 明日は朝一で市場にも行くから早めに寝たい。
 父と兄とどちらが一緒に行くんだっけ。
 畑に向かうと、遠くに人影が見える。でも最近、父と兄の見分けがつきにくくなってきた。
 ……瑞希が大きくなったのか、お父さんが小さくなったのか。たぶん、両方なんだろうな。
 近づいてみると、瑞希だった。声をかける前に、私に気づいた瑞希が顔を上げた。

「瑞希ー、明日の市場、行く?」
「いや、親父が行くってさ」
「お父さんは?」
「農協。もうすぐ戻るんじゃないかな。市場に持ってく花は、リスト作ってあったよ」
「ありがと、見ておく」

 タブレットを確認しに温室へ戻ろうとしたところで、瑞希に呼び止められた。

「なんか藤乃にもらった?」
「葵さんがハンドクリームくれた」
「それでか。藤乃、そういうの塗るの、好きそうだもんな」
「……なんでわかるの?」
「伊達に二十八年も友達やってないよ。まあ、重くて気持ち悪いけど、いいやつだから」
「知ってる」

 私は笑って、そのまま歩き出した。
 手元を見ると、爪が少しだけツヤツヤしていて、ほのかにいい匂いがした。