何かを言いかけていた藤乃さんが、慌てたようにドアの方へ向かった。
誰かと少し話したあと、シャチを二頭受け取って戻ってきた。
さっき申し込んだぬいぐるみプランのシャチだ。
急いで立ち上がり、一頭を受け取る。思ったより大きい。たしかプランの説明のところに八十センチって書いてあった。
「か、かわいい……」
ぎゅっと抱きしめたら、ふわふわでとても柔らかい。胸の奥がじんわりあたたかくなって、幸せな気持ちで満たされる。
「かわいいのは、シャチを抱っこしてる花音ちゃんのほうだよ」
藤乃さんがそうつぶやきながら、もう一匹のシャチを胸の前にぎゅっと抱いていた。
……かわいい。写真撮りたい。
「藤乃さんがシャチを抱えてるのも、すごくかわいいです」
「……花音ちゃん」
スマホを取りに行こうとしたそのとき、藤乃さんに呼び止められた。
藤乃さんはシャチを抱えたまま、真剣な眼差しで私を見つめていた。
あ……ちゃんと向き合わなきゃいけない、大切な話だ。
そう思って、シャチをそっとベッドに寝かせた。藤乃さんも隣に並べて置いている。
「花音ちゃん。好きです……。結婚してください。……あっ、ごめん、間違えた」
藤乃さんが顔を赤くして目を逸らす。思わず口を開いた。
「えっ、間違いなんですか? ……しましょうよ、結婚」
そっと一歩、藤乃さんのほうへ足を踏み出す。
もう、手を伸ばせば届く距離だった。
私は、理由もなくあなたに触れてもいいくらいには、近づけたのかな。
「プロポーズはさ、ちゃんと別にしたかったんだ。いい雰囲気のごはんのときに、指輪も用意してさ」
そんな夢みたいなことを言う藤乃さんを、じっと見つめた。
「それ……誰と買いに行くつもりだったんですか?」
「えっ、たぶん……瑞希」
「ダメです。私の指輪なんだから、私と一緒に選んでください」
指輪も藤乃さんも、私のものだと思ってる。……違わないよね?
「……わかった。花音ちゃん。好きです。付き合ってください」
「はい。私も藤乃さんのこと、ずっと好きでした。よろしくお願いします」
そう言って、そっと腕を広げた。
藤乃さんも、同じように優しく腕を広げてくれた。
「……抱きしめても、いい?」
「はい。死ぬまで、ずっとお願いします」
「死んでも、離さないから」
そっと抱き寄せられる。あたたかくて、少しだけ固くて、それが妙に心地よくて、安心できた。
ああ、よかった。ずっと欲しかった場所が、やっと私のものになった。
ふと、さっきの藤乃さんと瑞希の会話を思い出す。
――『親の目が光ってると思えば、俺も変なことしないで済むし』
それが何を意味しているのかくらい、私にもわかってる。
経験は、ないけど。
藤乃さんは……私と、そういうことしたいのかな。というか、誰かとしたこと、あるのかな。
……こんなふうに藤乃さんの腕の中で、そんなこと考えちゃうの、ちょっと嫌だな。
「藤乃さん……藤乃さん」
「ん、どうしたの?」
ようやく腕をゆるめて私を見た藤乃さんの顔は、なんていうか……砂糖をまぶしたみたいに、優しくて甘かった。
今までも、かなり甘い顔で見られてたとは思う。
でも、今のはその比じゃなかった。
とろけるような笑顔なのに、目だけがやけに熱っぽくて潤んでいる。
「……えっと……いまって、何時ですか?」
「もうすぐ五時かな」
「まだ少し早いですけど、ごはん……行きませんか。たしか、バイキングって……」
「俺は……もうちょっと、こうしてたいな」
藤乃さんは、触れそうなくらい近くでじっと私を見つめてくる。
その視線にあらがうのは、なかなか難しい。
すぐ、「思ってたよりまつげ長いな……」なんて、どうでもいいことを考えちゃう。
「……私も、そう思ってるんですけど……できれば、シャワー浴びてからがいいです。汗、気になりますし」
「気にならないよ?」
「私が気になるんです。……それに、後のこととか時間とか、気にしたくなくて……だから、先にそういうの、ちゃんと済ませておきたいです」
そう言うと、藤乃さんがそっと手を伸ばして、私の頬に触れた。
「……わかった」
少しだけ寂しそうな顔をして、そっと手を引いた。
なんだか、大きな犬みたいだな、この人。
藤乃さんの腕をそっと引いて、耳元に顔を近づけた。
「ごはんとお風呂のあとで……いっぱい、抱きしめてください」
「……うん、わかった」
そのまま、指を絡めながら部屋を出た。
油断するとスキップしちゃいそうで、藤乃さんの腕につかまって歩いた。
夜ごはんはバイキング。海沿いのホテルだから、海鮮がとても美味しい。
天ぷらやお刺身、それに他にもいろいろあって、どれも食べたくなってしまう。
藤乃さんは、料理に添えられた食用花や、レストランの入り口に飾られた花を熱心に見つめていた。
……本当に、花が好きな人なんだな。
そんな藤乃さんの横顔を見ていたら、ぽつりと呟いた。
「俺、水族館って、初めてなんだよね」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。だから、ついディスプレイの植木とか花壇ばかり見ちゃってた」
「……今度、○ズミーランド行きませんか? たしか、あそこって専門の造園屋さんを持ってますよね」
「行きたい! そう、それね、昔バイトしたかったんだけど、そのときは募集してなくて……できなかったんだよ。親父の学生時代の友達で、美園さんって人がいてさ。由紀さんとも仲が良くて、伝手があったから頼んでみたんだけど」
「そうだったんですね。あ、だからかな。父がたまに少しだけ、あそこに卸しに行ってるんです。たぶんチケットも取れると思います。ただで、とはいかないと思いますけど」
藤乃さんが、ぱっと目を輝かせた。
「○ズミーランドって、行ったことありますか?」
「うん。高校の遠足で一度行ったよ。……って言っても、ほとんど瑞希と花壇ばっかり見て回ってたけど」
「ふふ、なんだか目に浮かびますね」
天ぷらを頬張りながら、藤乃さんは楽しそうに話している。
実家がお店をしていたから、夏休みにどこかへ出かけることがなかったこと。
水族館も動物園も、学校の行事でしか行ったことがないこと。
おじいさんや両親が働く背中を、ずっと見てきたこと。
「家族旅行とか遠出に憧れがなかったわけじゃないけど、その分、花のことを学んできて、できることも増えたし。俺の作るものを好きって言ってくれる人もいるから、そんなに悪くなかったって思ってる」
「私、藤乃さんのそういう前向きなところ、好きです。そんなにしょっちゅうは無理かもしれませんけど、水族館、また行きましょう。動物園も行きましょう。どっちも家の近くにありますし、子供の足だと遠くても、車ならすぐですから」
「……うん。ありがとう、花音ちゃん」
眩しそうに笑う藤乃さんを見て、ほっとする。
そのあと、デザートまでしっかり食べて、満足して部屋へ戻った。
「シャワー、先に浴びてもいいですか?」
「どうぞ。ゆっくり温まってきてね」
藤乃さんは、やっぱり今まで以上に甘い顔で私を見送ってくれる。
脱衣所で服を脱いで、そのまま浴室へ入った。
シャワーを出して、思わずしゃがみ込む。
「……破壊力、高すぎ……っ!」
いや、ほんとになんなの、あの人……!
もともと甘かったけど、あれ以上に甘くなるなんて、ずるい。
そもそも、須藤さんの家の男性陣は、奥さんにとても甘い。
須藤さんは、私がそばにいても気にせず、奥さんに「世界で一番美しいです!」って言える人。
おじいさんも、今は奥さんと別居してるけど、月に一度はデートして、週に一度はビデオ通話もしてるって、藤乃さんが教えてくれた。
藤乃さんは二十八歳。つまり、少なく見積もっても須藤さんは、三十年近くずっと奥さんに「世界で一番美しい」って言い続けてるってことになる。
……ってことは、つまり。須藤さんそっくりの藤乃さんも、これから三十年はあの調子ってこと?
私、それに耐えられるのかな……?
三十年もずっと「かわいい」って甘やかされ続けたら、私、ダメになっちゃわないかな。
ダメになっちゃって、かわいくなくなったら……捨てられちゃうのかな。
どうしよう。……って、今からそんなこと考えてどうするの。
まだ、付き合い始めて二、三時間なのに。
気を取り直して、立ち上がり、頭を洗う。
あんまり遅くなると、心配かけちゃうし。
急いで髪を洗って、備え付けのパジャマに着替えて部屋へ戻った。
藤乃さんは、ソファに座って静かに外を見ていた。
膝の上には、あのシャチのぬいぐるみがどっしりと乗っている。……かわいい。写真、撮りたい。
「藤乃さん、お待たせしました」
声をかけると、ゆっくり振り向いて、またとろけるような笑顔を見せてくれる。
その顔を見ると、なんていうか……胸の奥がそわそわして、くすぐったくなる。
藤乃さんはゆっくり立ち上がって、シャチをそっとソファに置いた。
「俺もシャワー、浴びてくるね」
「はい。行ってらっしゃい」
すれ違いざまに手が伸びてきて、私の指にそっと触れたかと思えば、すぐに離れていった。
……こういうとき、付き合う前は絶対に触れてこなかったのに。そっか、そういう関係になったんだ……。
藤乃さんが座っていたソファとテーブルを挟んで反対側に座ろうとしたら、そちらにもシャチがいた。シャワーを浴びている間に、藤乃さんがわざわざ置いてくれたのかと思うと、なんだか可笑しくて。
シャチを抱えてソファに座り、外を見やると、まだ嵐は続いていて、暗さと強い風雨で海はほとんど見えなかった。
藤乃さんは、さっき何を見ていたんだろう。
私にも、同じ景色が見えたらいいな。
ぼんやりと眺めていたら、藤乃さんがすぐにシャワーから出てきた。
「お待たせ、花音ちゃん」
「いえいえ。早かったですね」
「花音ちゃんと、離れていたくなかったから」
見上げると、逆光で顔はよく見えないのに、藤乃さんの笑顔と、熱を帯びたまなざしははっきりわかって、胸がそわそわしてしまう。
……今更なんだけど、もしかして、そういう……ベッドに行くような流れなのかな?
「藤乃、さん……」
緊張で声が少し掠れた。
もし、この人に求められたら、私は……きっと、断れない。
「花音ちゃん、抱きしめてもいい?」
「あ、はい。お願いします」
思ったより明るい声で言われて、拍子抜け。
立ち上がってシャチを置いて腕を広げたら、ぎゅうっと抱きしめられる。
シャワーのあとだからか、腕や首元がほんのり汗ばんでいて、肌がしっとりしていた。
夕方と違って、今は備え付けの薄手のパジャマ一枚だけ。だから、互いの体温が伝わってきて、なんだか恥ずかしい。
でも、シャチとはまったく違う種類の幸せが、胸いっぱいに広がっていく。
「藤乃さん、あったかいですね」
「花音ちゃんは、柔らかいね」
「……太ってますか?」
「まさか。女の子らしいなあって思っただけ」
藤乃さんの額が私の肩にそっと触れる。吐息が当たってくすぐったくて、顔を向けられない。
でも、離れたくなくて、背中に回した手で藤乃さんのシャツをぎゅっと握った。
「……花音ちゃん、嫌だったらそう言ってほしいんだけど」
「はい、なんでしょう?」
藤乃さんは私を抱きしめたまま、黙りこんでいる。
しばらく待つと、ゆっくり頭が上がった。
触れるか触れないかの位置で、藤乃さんが私を覗き込む。
「……キス、してもいい?」
「……はい」
「ありがとう」
どうしていいかわからないけど、とにかく目を閉じる。
唇が、かすかに触れる。少しカサついた、大きな口だ。
最初は触れているだけだった。
それが少しずつこすれ合って、ついばむように唇を優しく食まれる。
藤乃さん、口大きいもんね。本気になったら、私なんて一口で呑みこまれそう。
下唇が柔らかく吸われて、キスって、こんなえっちなものなんだなとか、ぼんやり思う。
ぼんやりしているうちに、藤乃さんの手が私の頭と腰を支えていて、もう逃げられなくなっていた。
息継ぎをしたくてなんとか顔を離したら、藤乃さんの目がわずかに見開かれた。
「ふじの、さん……?」
「……ごめん、花音ちゃん。無理そう」
何が? なんて聞き返す前にすぐそばのベッドに押し倒された。
声を出す間もなく唇を塞がれて、濡れた舌がぬるりと触れ、ゆっくりと口の中に滑り込んでくる。
……「無理そう」って、暴走せずにいるのは無理でしたってこと、なのかな……?
ますます頭がぼんやりして、意識が遠くなる。
体重はかかっていないのに、藤乃さんの体が重く感じる。熱が伝わってきて、息が詰まりそう。
口の中すみずみまで舐められて、もう触れられていない場所なんてない気がするほどの激しいキスだった。ようやく、藤乃さんの顔が離れる。
「……ごめんなさい……」
ぼんやりと息を整えていたら、視界の端で藤乃さんが小さくうずくまっていた。
……土下座かな?
「……なにがですか?」
「キス……やりすぎちゃって」
「これだけ激しくキスして、それだけで止められるのって、すごいと思いました」
これだけしたなら、その流れで行き着くところまで行っちゃってもいいかと思うくらいの激しさだったんだけど。
顔を上げた藤乃さんは、私の隣で真剣な表情を浮かべていた。
「……しないよ。あの、その、避妊具、持ってないから」
「下の売店にありましたよ?」
「見たの……?」
「いえ、化粧品の棚に一緒に並んでたのを見かけただけです」
「でも……それは、ちゃんと別のときに。今はちょっと気持ちが昂ぶってて……無理させたくないんだ」
そうかも。キスだけでこの有様だから、きっとそれ以上となれば、それ以上なんだろう。
寝転がったまま視線だけ動かして時計を探す。
まだ十時くらい。寝るには早いけど、このままだと眠ってしまいそう。
いつもなら、そろそろ寝る支度を始める時間だ。
「藤乃さん、そろそろ寝てもいいですか?」
「いいよ。俺はソファで寝るよ」
「なんでですか? ダメですよ。死ぬまで抱きしめてるって言いましたよね」
「あんまり煽らないでって言ったでしょ。やっと好きな子と付き合えて、ベッドで抱き合って、それで眠れるわけないよ」
「ちょっと、売店行ってきます」
起き上がってベッドから降りようとしたら、腕を掴まれた。
「……花音ちゃん」
振り返ると、藤乃さんが困ったような顔で見ている。
藤乃さんの前にそっと正座する。困らせたいんじゃなくて……ただ、甘えたかっただけ。
「抱きしめてもいいですか?」
腕が広げられたから、膝立ちをしてそっとそこに収まる。
藤乃さんの頭をそっと抱える。同じシャンプーを使ったはずなのに、私とは少し違う匂いがして、思わず髪に顔を埋めてしまう。
そっと体を預けて押し倒そうとしたけど、叶わなかった。背中をしっかり抱きしめられて、やさしく座らされる。
「ダメだよ、花音ちゃん」
「……だって、さみしいじゃないですか。せっかくの機会なのに」
「それはそうだけど。でも、お願い。俺に君のこと大事にさせて?」
「そんなの、ずるいです。嫌なんて、言えるわけないじゃないですか」
唇を尖らせたら、ちゅっと音を立ててキスされる。
誤魔化されてるのはわかるけど、でも、藤乃さんの言い分もわかるから、我慢する。
「そんな顔しないで。そんなに待たせないから」
「はい。私、そんなに気が長いほうじゃないので……あんまり待たせないでくださいね」
ふわっと、あくびがこぼれる。
明日は市場も畑もないのに、もう眠くて仕方がない。
藤乃さんはゆっくりと腕をほどいて、体を離した。
「さみしいな」
「隣にいるよ」
そっとベッドに寝かされて、シャチと一緒に布団をかけられる。
部屋の灯りが消されて、ベッド横のソファに藤乃さんが腰を下ろした。
手が伸びてきて、まぶたに乗っかる。
「藤乃さん。好きです」
「ありがとう。俺も花音ちゃんのこと好きだよ。……おやすみ」
「はい……おやすみなさい」
藤乃さんの手に、私の手を重ねたら、そっと握り返された。
それだけで、さみしさが少し減って、意識がゆっくり沈んでいく。
翌朝、目が覚めて時計を見たら、まだ早朝。つい市場に行くのと同じ時間に起きてしまった。
起き上がって部屋を見回すと、藤乃さんがソファにもたれるようにして眠っていた。
ベッドから降りて、そっと顔を覗き込む。メガネをかけていない藤乃さんの顔は、いつもより少し幼く見えて、かわいくて胸が高鳴る。お腹にシャチが乗っているから余計に。
……帰りの運転は私がしようかなあ。
「藤乃さん、藤乃さん」
「ん……おはよ、花音ちゃん」
「あの、私洗面所で身支度してきますから、その間だけでもベッド使ってください。まだレストランの朝ごはんまで時間がありますから」
「……じゃあ、そうさせてもらおうかな」
藤乃さんはふらりと体を起こす。
身を引こうとしたとき、そっと腕を引かれた。
「おはよ、花音ちゃん」
唇がほんの一瞬触れて、それから藤乃さんはふわりとベッドに倒れ込んだ。
シャチも一緒に布団をかけて、五分くらい寝顔を眺めてから洗面所に向かう。
二時間ほどして藤乃さんを起こし、支度が済むのを待って一緒に朝ごはんを食べに行った。
そのあとは私が運転して家まで戻った。
外は台風一過の晴天で、畑では父と瑞希が働いているのが遠くに見えた。
「藤乃さん、ありがとうございました。また、一緒にどこか行きたいです」
「こちらこそ。家まで送るよ。……あのさ、ご家族に挨拶させてもらってもいい?」
「挨拶ですか?」
藤乃さんが照れたような顔で父と瑞希のほうを見た。
「花音さんとお付き合いさせていただいてますって、ちゃんと伝えたくて。由紀さんたちに不義理はしたくないから。……花音ちゃんが、嫌じゃなければ」
「嫌なんて、あるわけないです」
考えるより先に言葉が出た。
そういうあなただから、私は好きになったんだ。
二人で並んで家に向かう。
玄関を開けたら母が顔を出した。
私が「ただいま」と言う前に、藤乃さんがぺこりと頭を下げた。
「おはようございます。花音さんとお付き合いさせていただくことになりました。まだまだ未熟者ですが、よろしくお願いします」
「あら、良かったじゃない。お父さんには言った?」
母はさらっと受け入れて、私のほうを見る。
「まだ」
「じゃあ行ってらっしゃい」
畑に向かうと、父が「おかえり」と手を振ってくれた。
「ありがとな、藤乃ちゃん。送ってくれて」
「いえ、とんでもないです。お嬢さんをお返しするのが遅くなってしまって、申し訳ありません」
「別にいいよ。連絡くれてたし。相変わらず律儀だな」
「それと、花音さんとお付き合いさせていただくことになりました。まだまだ未熟者ですが、どうぞよろしくお願いします」
藤乃さんと一緒に頭を下げると、父は「あはは」と笑った。
「やっと? 須藤には言った?」
「まだです」
「そうかい。よろこぶと思うよ。いつ藤乃ちゃんが振られるかやきもきしてたから」
「……そうでしたか」
「まあ、こっちに反対する理由なんてないしさ。花音は藤乃ちゃんのこと好きだろう?」
「う、うん」
改めて親に聞かれると返事に困るけど。
でも好きなのは間違いない。
「じゃあ、大丈夫だ。式には呼んでくれよ」
「よ、呼びます! 新婦の父親じゃないですか。……あの、ありがとうございます。今日はこれで失礼します」
「うん、またおいで」
藤乃さんは、最後まで穏やかに挨拶して帰っていった。
なんていうか、やっぱり大人だな。
「花音」
「なあに?」
振り返ると、父が鍬に手をかけたまま、藤乃さんの背中を見送っていた。
「良かったな」
「そう思う?」
「思うよ」
「なら良かった」
そう思ってもらえたなら、それだけで嬉しい。
私は安心して家に戻った。
「大変だったわね。どうする? 少し寝る?」
リビングに顔を出したら、母が帳簿をめくっていた。
少し疲れてはいるけど、ちゃんと寝たし……でも、やっぱり着替えたい。
「……そうしようかな。あ、でも温室見てこなきゃ。やっぱり着替えて畑行くよ。その代わり早めに切り上げる」
自分の部屋に戻って着替える。シャチはベッドに寝かせておいて温室に向かった。
温室に入った途端、ポケットのスマホが震えた。
表示されていたのは藤乃さんの名前だ。
送られてきたのはたった一言。
『好きだよ』
「私も、好きです」
小さくつぶやいてから、返事を送った。
さっき別れたばかりなのに、不思議とさみしくなかった。
誰かと少し話したあと、シャチを二頭受け取って戻ってきた。
さっき申し込んだぬいぐるみプランのシャチだ。
急いで立ち上がり、一頭を受け取る。思ったより大きい。たしかプランの説明のところに八十センチって書いてあった。
「か、かわいい……」
ぎゅっと抱きしめたら、ふわふわでとても柔らかい。胸の奥がじんわりあたたかくなって、幸せな気持ちで満たされる。
「かわいいのは、シャチを抱っこしてる花音ちゃんのほうだよ」
藤乃さんがそうつぶやきながら、もう一匹のシャチを胸の前にぎゅっと抱いていた。
……かわいい。写真撮りたい。
「藤乃さんがシャチを抱えてるのも、すごくかわいいです」
「……花音ちゃん」
スマホを取りに行こうとしたそのとき、藤乃さんに呼び止められた。
藤乃さんはシャチを抱えたまま、真剣な眼差しで私を見つめていた。
あ……ちゃんと向き合わなきゃいけない、大切な話だ。
そう思って、シャチをそっとベッドに寝かせた。藤乃さんも隣に並べて置いている。
「花音ちゃん。好きです……。結婚してください。……あっ、ごめん、間違えた」
藤乃さんが顔を赤くして目を逸らす。思わず口を開いた。
「えっ、間違いなんですか? ……しましょうよ、結婚」
そっと一歩、藤乃さんのほうへ足を踏み出す。
もう、手を伸ばせば届く距離だった。
私は、理由もなくあなたに触れてもいいくらいには、近づけたのかな。
「プロポーズはさ、ちゃんと別にしたかったんだ。いい雰囲気のごはんのときに、指輪も用意してさ」
そんな夢みたいなことを言う藤乃さんを、じっと見つめた。
「それ……誰と買いに行くつもりだったんですか?」
「えっ、たぶん……瑞希」
「ダメです。私の指輪なんだから、私と一緒に選んでください」
指輪も藤乃さんも、私のものだと思ってる。……違わないよね?
「……わかった。花音ちゃん。好きです。付き合ってください」
「はい。私も藤乃さんのこと、ずっと好きでした。よろしくお願いします」
そう言って、そっと腕を広げた。
藤乃さんも、同じように優しく腕を広げてくれた。
「……抱きしめても、いい?」
「はい。死ぬまで、ずっとお願いします」
「死んでも、離さないから」
そっと抱き寄せられる。あたたかくて、少しだけ固くて、それが妙に心地よくて、安心できた。
ああ、よかった。ずっと欲しかった場所が、やっと私のものになった。
ふと、さっきの藤乃さんと瑞希の会話を思い出す。
――『親の目が光ってると思えば、俺も変なことしないで済むし』
それが何を意味しているのかくらい、私にもわかってる。
経験は、ないけど。
藤乃さんは……私と、そういうことしたいのかな。というか、誰かとしたこと、あるのかな。
……こんなふうに藤乃さんの腕の中で、そんなこと考えちゃうの、ちょっと嫌だな。
「藤乃さん……藤乃さん」
「ん、どうしたの?」
ようやく腕をゆるめて私を見た藤乃さんの顔は、なんていうか……砂糖をまぶしたみたいに、優しくて甘かった。
今までも、かなり甘い顔で見られてたとは思う。
でも、今のはその比じゃなかった。
とろけるような笑顔なのに、目だけがやけに熱っぽくて潤んでいる。
「……えっと……いまって、何時ですか?」
「もうすぐ五時かな」
「まだ少し早いですけど、ごはん……行きませんか。たしか、バイキングって……」
「俺は……もうちょっと、こうしてたいな」
藤乃さんは、触れそうなくらい近くでじっと私を見つめてくる。
その視線にあらがうのは、なかなか難しい。
すぐ、「思ってたよりまつげ長いな……」なんて、どうでもいいことを考えちゃう。
「……私も、そう思ってるんですけど……できれば、シャワー浴びてからがいいです。汗、気になりますし」
「気にならないよ?」
「私が気になるんです。……それに、後のこととか時間とか、気にしたくなくて……だから、先にそういうの、ちゃんと済ませておきたいです」
そう言うと、藤乃さんがそっと手を伸ばして、私の頬に触れた。
「……わかった」
少しだけ寂しそうな顔をして、そっと手を引いた。
なんだか、大きな犬みたいだな、この人。
藤乃さんの腕をそっと引いて、耳元に顔を近づけた。
「ごはんとお風呂のあとで……いっぱい、抱きしめてください」
「……うん、わかった」
そのまま、指を絡めながら部屋を出た。
油断するとスキップしちゃいそうで、藤乃さんの腕につかまって歩いた。
夜ごはんはバイキング。海沿いのホテルだから、海鮮がとても美味しい。
天ぷらやお刺身、それに他にもいろいろあって、どれも食べたくなってしまう。
藤乃さんは、料理に添えられた食用花や、レストランの入り口に飾られた花を熱心に見つめていた。
……本当に、花が好きな人なんだな。
そんな藤乃さんの横顔を見ていたら、ぽつりと呟いた。
「俺、水族館って、初めてなんだよね」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。だから、ついディスプレイの植木とか花壇ばかり見ちゃってた」
「……今度、○ズミーランド行きませんか? たしか、あそこって専門の造園屋さんを持ってますよね」
「行きたい! そう、それね、昔バイトしたかったんだけど、そのときは募集してなくて……できなかったんだよ。親父の学生時代の友達で、美園さんって人がいてさ。由紀さんとも仲が良くて、伝手があったから頼んでみたんだけど」
「そうだったんですね。あ、だからかな。父がたまに少しだけ、あそこに卸しに行ってるんです。たぶんチケットも取れると思います。ただで、とはいかないと思いますけど」
藤乃さんが、ぱっと目を輝かせた。
「○ズミーランドって、行ったことありますか?」
「うん。高校の遠足で一度行ったよ。……って言っても、ほとんど瑞希と花壇ばっかり見て回ってたけど」
「ふふ、なんだか目に浮かびますね」
天ぷらを頬張りながら、藤乃さんは楽しそうに話している。
実家がお店をしていたから、夏休みにどこかへ出かけることがなかったこと。
水族館も動物園も、学校の行事でしか行ったことがないこと。
おじいさんや両親が働く背中を、ずっと見てきたこと。
「家族旅行とか遠出に憧れがなかったわけじゃないけど、その分、花のことを学んできて、できることも増えたし。俺の作るものを好きって言ってくれる人もいるから、そんなに悪くなかったって思ってる」
「私、藤乃さんのそういう前向きなところ、好きです。そんなにしょっちゅうは無理かもしれませんけど、水族館、また行きましょう。動物園も行きましょう。どっちも家の近くにありますし、子供の足だと遠くても、車ならすぐですから」
「……うん。ありがとう、花音ちゃん」
眩しそうに笑う藤乃さんを見て、ほっとする。
そのあと、デザートまでしっかり食べて、満足して部屋へ戻った。
「シャワー、先に浴びてもいいですか?」
「どうぞ。ゆっくり温まってきてね」
藤乃さんは、やっぱり今まで以上に甘い顔で私を見送ってくれる。
脱衣所で服を脱いで、そのまま浴室へ入った。
シャワーを出して、思わずしゃがみ込む。
「……破壊力、高すぎ……っ!」
いや、ほんとになんなの、あの人……!
もともと甘かったけど、あれ以上に甘くなるなんて、ずるい。
そもそも、須藤さんの家の男性陣は、奥さんにとても甘い。
須藤さんは、私がそばにいても気にせず、奥さんに「世界で一番美しいです!」って言える人。
おじいさんも、今は奥さんと別居してるけど、月に一度はデートして、週に一度はビデオ通話もしてるって、藤乃さんが教えてくれた。
藤乃さんは二十八歳。つまり、少なく見積もっても須藤さんは、三十年近くずっと奥さんに「世界で一番美しい」って言い続けてるってことになる。
……ってことは、つまり。須藤さんそっくりの藤乃さんも、これから三十年はあの調子ってこと?
私、それに耐えられるのかな……?
三十年もずっと「かわいい」って甘やかされ続けたら、私、ダメになっちゃわないかな。
ダメになっちゃって、かわいくなくなったら……捨てられちゃうのかな。
どうしよう。……って、今からそんなこと考えてどうするの。
まだ、付き合い始めて二、三時間なのに。
気を取り直して、立ち上がり、頭を洗う。
あんまり遅くなると、心配かけちゃうし。
急いで髪を洗って、備え付けのパジャマに着替えて部屋へ戻った。
藤乃さんは、ソファに座って静かに外を見ていた。
膝の上には、あのシャチのぬいぐるみがどっしりと乗っている。……かわいい。写真、撮りたい。
「藤乃さん、お待たせしました」
声をかけると、ゆっくり振り向いて、またとろけるような笑顔を見せてくれる。
その顔を見ると、なんていうか……胸の奥がそわそわして、くすぐったくなる。
藤乃さんはゆっくり立ち上がって、シャチをそっとソファに置いた。
「俺もシャワー、浴びてくるね」
「はい。行ってらっしゃい」
すれ違いざまに手が伸びてきて、私の指にそっと触れたかと思えば、すぐに離れていった。
……こういうとき、付き合う前は絶対に触れてこなかったのに。そっか、そういう関係になったんだ……。
藤乃さんが座っていたソファとテーブルを挟んで反対側に座ろうとしたら、そちらにもシャチがいた。シャワーを浴びている間に、藤乃さんがわざわざ置いてくれたのかと思うと、なんだか可笑しくて。
シャチを抱えてソファに座り、外を見やると、まだ嵐は続いていて、暗さと強い風雨で海はほとんど見えなかった。
藤乃さんは、さっき何を見ていたんだろう。
私にも、同じ景色が見えたらいいな。
ぼんやりと眺めていたら、藤乃さんがすぐにシャワーから出てきた。
「お待たせ、花音ちゃん」
「いえいえ。早かったですね」
「花音ちゃんと、離れていたくなかったから」
見上げると、逆光で顔はよく見えないのに、藤乃さんの笑顔と、熱を帯びたまなざしははっきりわかって、胸がそわそわしてしまう。
……今更なんだけど、もしかして、そういう……ベッドに行くような流れなのかな?
「藤乃、さん……」
緊張で声が少し掠れた。
もし、この人に求められたら、私は……きっと、断れない。
「花音ちゃん、抱きしめてもいい?」
「あ、はい。お願いします」
思ったより明るい声で言われて、拍子抜け。
立ち上がってシャチを置いて腕を広げたら、ぎゅうっと抱きしめられる。
シャワーのあとだからか、腕や首元がほんのり汗ばんでいて、肌がしっとりしていた。
夕方と違って、今は備え付けの薄手のパジャマ一枚だけ。だから、互いの体温が伝わってきて、なんだか恥ずかしい。
でも、シャチとはまったく違う種類の幸せが、胸いっぱいに広がっていく。
「藤乃さん、あったかいですね」
「花音ちゃんは、柔らかいね」
「……太ってますか?」
「まさか。女の子らしいなあって思っただけ」
藤乃さんの額が私の肩にそっと触れる。吐息が当たってくすぐったくて、顔を向けられない。
でも、離れたくなくて、背中に回した手で藤乃さんのシャツをぎゅっと握った。
「……花音ちゃん、嫌だったらそう言ってほしいんだけど」
「はい、なんでしょう?」
藤乃さんは私を抱きしめたまま、黙りこんでいる。
しばらく待つと、ゆっくり頭が上がった。
触れるか触れないかの位置で、藤乃さんが私を覗き込む。
「……キス、してもいい?」
「……はい」
「ありがとう」
どうしていいかわからないけど、とにかく目を閉じる。
唇が、かすかに触れる。少しカサついた、大きな口だ。
最初は触れているだけだった。
それが少しずつこすれ合って、ついばむように唇を優しく食まれる。
藤乃さん、口大きいもんね。本気になったら、私なんて一口で呑みこまれそう。
下唇が柔らかく吸われて、キスって、こんなえっちなものなんだなとか、ぼんやり思う。
ぼんやりしているうちに、藤乃さんの手が私の頭と腰を支えていて、もう逃げられなくなっていた。
息継ぎをしたくてなんとか顔を離したら、藤乃さんの目がわずかに見開かれた。
「ふじの、さん……?」
「……ごめん、花音ちゃん。無理そう」
何が? なんて聞き返す前にすぐそばのベッドに押し倒された。
声を出す間もなく唇を塞がれて、濡れた舌がぬるりと触れ、ゆっくりと口の中に滑り込んでくる。
……「無理そう」って、暴走せずにいるのは無理でしたってこと、なのかな……?
ますます頭がぼんやりして、意識が遠くなる。
体重はかかっていないのに、藤乃さんの体が重く感じる。熱が伝わってきて、息が詰まりそう。
口の中すみずみまで舐められて、もう触れられていない場所なんてない気がするほどの激しいキスだった。ようやく、藤乃さんの顔が離れる。
「……ごめんなさい……」
ぼんやりと息を整えていたら、視界の端で藤乃さんが小さくうずくまっていた。
……土下座かな?
「……なにがですか?」
「キス……やりすぎちゃって」
「これだけ激しくキスして、それだけで止められるのって、すごいと思いました」
これだけしたなら、その流れで行き着くところまで行っちゃってもいいかと思うくらいの激しさだったんだけど。
顔を上げた藤乃さんは、私の隣で真剣な表情を浮かべていた。
「……しないよ。あの、その、避妊具、持ってないから」
「下の売店にありましたよ?」
「見たの……?」
「いえ、化粧品の棚に一緒に並んでたのを見かけただけです」
「でも……それは、ちゃんと別のときに。今はちょっと気持ちが昂ぶってて……無理させたくないんだ」
そうかも。キスだけでこの有様だから、きっとそれ以上となれば、それ以上なんだろう。
寝転がったまま視線だけ動かして時計を探す。
まだ十時くらい。寝るには早いけど、このままだと眠ってしまいそう。
いつもなら、そろそろ寝る支度を始める時間だ。
「藤乃さん、そろそろ寝てもいいですか?」
「いいよ。俺はソファで寝るよ」
「なんでですか? ダメですよ。死ぬまで抱きしめてるって言いましたよね」
「あんまり煽らないでって言ったでしょ。やっと好きな子と付き合えて、ベッドで抱き合って、それで眠れるわけないよ」
「ちょっと、売店行ってきます」
起き上がってベッドから降りようとしたら、腕を掴まれた。
「……花音ちゃん」
振り返ると、藤乃さんが困ったような顔で見ている。
藤乃さんの前にそっと正座する。困らせたいんじゃなくて……ただ、甘えたかっただけ。
「抱きしめてもいいですか?」
腕が広げられたから、膝立ちをしてそっとそこに収まる。
藤乃さんの頭をそっと抱える。同じシャンプーを使ったはずなのに、私とは少し違う匂いがして、思わず髪に顔を埋めてしまう。
そっと体を預けて押し倒そうとしたけど、叶わなかった。背中をしっかり抱きしめられて、やさしく座らされる。
「ダメだよ、花音ちゃん」
「……だって、さみしいじゃないですか。せっかくの機会なのに」
「それはそうだけど。でも、お願い。俺に君のこと大事にさせて?」
「そんなの、ずるいです。嫌なんて、言えるわけないじゃないですか」
唇を尖らせたら、ちゅっと音を立ててキスされる。
誤魔化されてるのはわかるけど、でも、藤乃さんの言い分もわかるから、我慢する。
「そんな顔しないで。そんなに待たせないから」
「はい。私、そんなに気が長いほうじゃないので……あんまり待たせないでくださいね」
ふわっと、あくびがこぼれる。
明日は市場も畑もないのに、もう眠くて仕方がない。
藤乃さんはゆっくりと腕をほどいて、体を離した。
「さみしいな」
「隣にいるよ」
そっとベッドに寝かされて、シャチと一緒に布団をかけられる。
部屋の灯りが消されて、ベッド横のソファに藤乃さんが腰を下ろした。
手が伸びてきて、まぶたに乗っかる。
「藤乃さん。好きです」
「ありがとう。俺も花音ちゃんのこと好きだよ。……おやすみ」
「はい……おやすみなさい」
藤乃さんの手に、私の手を重ねたら、そっと握り返された。
それだけで、さみしさが少し減って、意識がゆっくり沈んでいく。
翌朝、目が覚めて時計を見たら、まだ早朝。つい市場に行くのと同じ時間に起きてしまった。
起き上がって部屋を見回すと、藤乃さんがソファにもたれるようにして眠っていた。
ベッドから降りて、そっと顔を覗き込む。メガネをかけていない藤乃さんの顔は、いつもより少し幼く見えて、かわいくて胸が高鳴る。お腹にシャチが乗っているから余計に。
……帰りの運転は私がしようかなあ。
「藤乃さん、藤乃さん」
「ん……おはよ、花音ちゃん」
「あの、私洗面所で身支度してきますから、その間だけでもベッド使ってください。まだレストランの朝ごはんまで時間がありますから」
「……じゃあ、そうさせてもらおうかな」
藤乃さんはふらりと体を起こす。
身を引こうとしたとき、そっと腕を引かれた。
「おはよ、花音ちゃん」
唇がほんの一瞬触れて、それから藤乃さんはふわりとベッドに倒れ込んだ。
シャチも一緒に布団をかけて、五分くらい寝顔を眺めてから洗面所に向かう。
二時間ほどして藤乃さんを起こし、支度が済むのを待って一緒に朝ごはんを食べに行った。
そのあとは私が運転して家まで戻った。
外は台風一過の晴天で、畑では父と瑞希が働いているのが遠くに見えた。
「藤乃さん、ありがとうございました。また、一緒にどこか行きたいです」
「こちらこそ。家まで送るよ。……あのさ、ご家族に挨拶させてもらってもいい?」
「挨拶ですか?」
藤乃さんが照れたような顔で父と瑞希のほうを見た。
「花音さんとお付き合いさせていただいてますって、ちゃんと伝えたくて。由紀さんたちに不義理はしたくないから。……花音ちゃんが、嫌じゃなければ」
「嫌なんて、あるわけないです」
考えるより先に言葉が出た。
そういうあなただから、私は好きになったんだ。
二人で並んで家に向かう。
玄関を開けたら母が顔を出した。
私が「ただいま」と言う前に、藤乃さんがぺこりと頭を下げた。
「おはようございます。花音さんとお付き合いさせていただくことになりました。まだまだ未熟者ですが、よろしくお願いします」
「あら、良かったじゃない。お父さんには言った?」
母はさらっと受け入れて、私のほうを見る。
「まだ」
「じゃあ行ってらっしゃい」
畑に向かうと、父が「おかえり」と手を振ってくれた。
「ありがとな、藤乃ちゃん。送ってくれて」
「いえ、とんでもないです。お嬢さんをお返しするのが遅くなってしまって、申し訳ありません」
「別にいいよ。連絡くれてたし。相変わらず律儀だな」
「それと、花音さんとお付き合いさせていただくことになりました。まだまだ未熟者ですが、どうぞよろしくお願いします」
藤乃さんと一緒に頭を下げると、父は「あはは」と笑った。
「やっと? 須藤には言った?」
「まだです」
「そうかい。よろこぶと思うよ。いつ藤乃ちゃんが振られるかやきもきしてたから」
「……そうでしたか」
「まあ、こっちに反対する理由なんてないしさ。花音は藤乃ちゃんのこと好きだろう?」
「う、うん」
改めて親に聞かれると返事に困るけど。
でも好きなのは間違いない。
「じゃあ、大丈夫だ。式には呼んでくれよ」
「よ、呼びます! 新婦の父親じゃないですか。……あの、ありがとうございます。今日はこれで失礼します」
「うん、またおいで」
藤乃さんは、最後まで穏やかに挨拶して帰っていった。
なんていうか、やっぱり大人だな。
「花音」
「なあに?」
振り返ると、父が鍬に手をかけたまま、藤乃さんの背中を見送っていた。
「良かったな」
「そう思う?」
「思うよ」
「なら良かった」
そう思ってもらえたなら、それだけで嬉しい。
私は安心して家に戻った。
「大変だったわね。どうする? 少し寝る?」
リビングに顔を出したら、母が帳簿をめくっていた。
少し疲れてはいるけど、ちゃんと寝たし……でも、やっぱり着替えたい。
「……そうしようかな。あ、でも温室見てこなきゃ。やっぱり着替えて畑行くよ。その代わり早めに切り上げる」
自分の部屋に戻って着替える。シャチはベッドに寝かせておいて温室に向かった。
温室に入った途端、ポケットのスマホが震えた。
表示されていたのは藤乃さんの名前だ。
送られてきたのはたった一言。
『好きだよ』
「私も、好きです」
小さくつぶやいてから、返事を送った。
さっき別れたばかりなのに、不思議とさみしくなかった。



