それから綾人くんのアパートに到着するまで、私たちは一言も話さなかった。けれど、彼は歩くペースを上げることもなかったし、のろのろと足首を庇って歩く私に苛立ちを見せる様子もなかった。
彼の家に着くと、彼はドアに備え付けられたデジタルロックに暗証番号を入力し始める。私は番号を見ないように、そっと目線を逸らした。
「手、洗ってきて」
ドアが開けられると彼はいつものように、私を洗面台の方に促した。
結局、この間うがいをしないままキスをしてしまったことに、綾人くんは気が付かなかったらしい。今更それを掘り起こす気にはならなかったが、彼の潔癖の不完全さが、人間らしくて愛おしいような気もする。
さすがに彼が可哀想だったので、私は手を洗うと同時に、きちんとうがいをした。
つまるところ、私はこの後起こるであろう情事を心のどこかで期待しているのかもしれなかった。そんな醜くて汚い私を抱く、不完全な潔癖症を持ち合わせる綾人くんは、本当は全然、潔癖症なんかじゃないのかも、とそんな想像をしてしまう。
私と入れ替わるように、綾人くんが洗面台に入ってくる。彼が手を洗い始めたので、私は彼の背中に、後ろから抱きついた。
「何、お前」
「前来た時、綾人くんがこうやって私の首、噛んだから」
「じゃあ噛めばいいだろ」
届かないの、と反論すると彼は鼻で笑った。
別に彼に噛みつきたいわけではなかった。第一彼は、私には噛み跡をたくさんつけるくせに、私が同じことをしようとすると嫌がるのだ。だから今更、彼が嫌がるようなことをしようとは思わない。
けれど今日に限って、彼はそんなことを言って笑った。どうせ私が彼に噛みつくことはないと、高を括っているのかもしれない。


