そこまで飲んでからようやく、彼はファイルに触れた。
「それには目を通したのか」
「いえ。どうするべきか決めかねていて」
「見るといい。それは恐らく、君の仕事に必要なものだから」
「え? あ、はい」
言われて早速開いてみてから、わたしは目を瞠った。それは、よく知っている筆跡だったから……という理由も、ないわけじゃない。
「それは当時、日向が記録していたものだ」
妻の様子がおかしいと思い始めた、その日から。
……これは、なかなかすべてを読むのには手こずりそうだ。
ゆっくりとファイルを閉じてから、小さく息を吐いた。
「翼は、何か言っていたか」
「……いいえ、何も」
「そうだろうな。ただ君の仕事を知ったのなら、通さなければならないとでも思ったのだろう。まあ、そうは言いつつもあまり見せたくはなかったんだろうが」
「……え?」
わたしの手からファイルを引き抜き、パラパラと目を通しながら、彼は小さく笑みを浮かべた。
「しかしながら、どうやら間が悪かったらしい。隠すまでの時間を、君がくれないものだから」
「……あはは、本当にそうですね」
階段なんて、超特急で駆け上がったし。ノックなんてせずに、勢いよく扉開けちゃったし。慌てて隠したところで、このわたしがそれについて触れないわけがないし。
パタン……と静かにファイルを閉じ、それをこちらに寄越しながら彼は、さっきと同じように、複雑な顔をして笑う。
「若葉はもう正常だ。だがそうではない者がもう一人いるから、私たちの調書はまた別の日にするといい」
「え? あ、……でも」
折角ツバサくんが機会をくれたのに、と言いかけた言葉は、残ったお酒を手酌する彼に止められてしまった。
「一度、そのファイルに目を通せるようになってから、またゆっくり来なさい。君の仕事は未来にも繋がるものだ、時間は惜しまない」
「……では、今夜中に目を通しておきます」
「やめておきなさい」
「でも……」
一度口を噤んでから、わたしは必死に言葉を探した。
「ご存じの通り、わたしには時間が限られています。一分一秒も、無駄にはしたくないんです」
「では、君にとって私との時間は無駄だと言うのだな」
(え。……なんでちょっと拗ねキャラ?)
思わぬ返しに、目を見開いたまま固まってしまったわたしの手を彼はぎこちなく取り、そしてもう片方の手でそっと頭を撫でた。
あまりにも予想外の行動が続き、わたしは思わず面食らう。
「あ、あの、トウセイ……さん?」
「君には、つらい選択を強いた」
「えっ、いえ! そんなことわたしは一度だって思ったことは……」
「だから尚更、私はとてもつらい」
「……え」
「君を、……君たちを見ているのが、何もできないのが」
思わず、言葉を失ってしまう。
そうなってしまったわたしの頭を慰めるように、彼はまたひとつ、撫でてくれた。
「覚えているか。君が、挨拶に来てくれた日のこと」
「そ、その節は……その、なんと言えばいいか」
「君は少し恥ずかしそうにしていたか。どこか居心地が悪そうだった。緊張もしていた」
「お恥ずかしい、限りです……」
「嬉しかったんだよ、私は」
「えっ?」
そう言ってもらえるほどのことを、わたしは何かしただろうか。



