素知らぬ顔でグラスをキュッキュと拭いていたマスターはというと、私の視線から逃げるように裏の事務所へと姿を消した。
まあ、今お客が私だけだから、シズルさんだけで事足りると思ったんだろう。……でも私は、逃げたと思ってますからね。
「……好きな子っていうのは、この間そこの窓際に座ってた子?」
「……え?」
なんで、彼がそのことを知っているんだろう。今日、ここで始めて会ったはず……なのに。
「あの子は違うと思うよ」
「……な、なんでわかるんですか」
「あれ? マスターから聞いてない?」
「……え? 何を?」
「……あ、そうか。マスター、話は聞いててもあの子と一致はしなかったんだ……」
「あ、あの……」
「あの子が一体誰なのか。知りたい?」
「お、教えてください……!」
「……ごほん。それでは聞かせて進ぜよう。それはそれは、素敵な恋物語と友情劇を――」
――――――…………
――――……
そして、話を聞き終わった私は、何故かどっと疲れていた。
「と、途轍もない救出劇でしたね……」
「でも、これで彼女の本当の王子様は別にいるってわかったよね」
彼女は、桐生君の元婚約者。彼は、彼女と彼女の王子様の背中を押して、かわいそうな王子役を演じきった。
「実際のところは、結構どす黒い脅ししたみたいだけど」
「……それは何となく察します」
「……ふーん? けど、そういうところもかっこいいよねー」
「でも、桐生君が彼女のことを好きだったのは本当なんですよね」
「……まあ、婚約を進めていいと思ってたくらいだから」
「……」
だったら、まだ彼の中には彼女への想いがあるのだろうか。幼馴染みだという彼女と、彼女の王子様を見るたび、心を痛めていたのだろうか。まだ、痛めていたりするのだろうか。
「……でも、だったらあの子は一体……」
「その救出劇を提案してくれて、主軸で実行に移してくれた子がいるんだよ」
「え?」
「彼はその子のことを、きっと“恩人”だと思ってる」
「……!」
「ずっと、大切にしていた二人の幸せそうな姿を、見ることができてるから」
そっか。そうだったんだ。だから彼は、あの子のことを恩人だなんて……。
(あれ? じゃあなんで、あんなにいっぱい写真があったんだろう)
……写真? あれ。そういえば私、肝心なこと、何か忘れてやいないだろうか。
「その恩人の子も、ころっと好きになっちゃったみたいだけど」
「え」
今、ちょっと聞き捨てならないことが聞こえたような気がするんですけど。
「それ以上は、直接本人からいろいろ聞いてみるといいよ。もうそろそろ、教えてくれると思うからさ」
「……え?」
それって、一体どういうことだろうか。
けれど、シズルさんはただ優しく笑うだけで、手元の作業へと視線を落としていった。



