私の「荷物、持とうか?」という言葉に、拓海くんは驚いたように、しかしどこか光を宿した瞳で私を見つめていました。
その数秒が、私には永遠のように長く感じられました。
それは、ガラスの向こう側から、ようやく声が届いた瞬間のような、静かで、しかし確かな時間の流れでした。
彼の口から、どんな言葉が返ってくるのか、私の心臓は未知の音を奏でるように激しく高鳴っていました。
「え、白石…さん?」
拓海くんの声は、少し戸惑っているようでした。私の名前を呼んでくれたことに、喜びが込み上げます。
しかし、彼の表情には、やはり私への「好き」という感情は読み取れないように思えました。
遥の話は本当だったのだろうか、という根深い不安が、再び私の心の奥底をかすめるようでした。
彼が私のことを意識しているなら、もう少し違う反応をするのではないか。そんな弱気が、私の心を冷たい指先でそっと撫でるようでした。
「うん…あの、松葉杖で大変そうだから」
私がそう言うと、拓海くんは少し照れたように笑いました。
「ああ、悪いね、助かるよ」
彼は、ずっしりと重そうな教材の束を、私の方へ差し出してくれました。その重みが腕に伝わってきます。
これで少しでも彼の負担が軽くなるなら、と嬉しくなりました。彼の役に立てることが、純粋に嬉しかったのです。
まるで、冷たい水の中に、温かいインクが溶け出すように、私の心はじんわりと満たされていきました。
それは、遠くの星に触れたような、ささやかな喜びでした。
階段を上ると、まず3年6組の私のクラスがあり、そのすぐ隣に3年5組の拓海くんのクラスがあります。
私は荷物を抱え、拓海くんの隣を歩き始めました。
隣にいる彼の存在が、想像していたよりもずっと大きく感じられる。時折、腕が触れそうな距離に、心臓が大きく波打った。
しかし、3年5組の教室に近づくにつれて、私の心臓はこれまでにないほど激しく脈打ち始めました。
遥から聞いた「青山くんが結衣のこと好きって言ってる」という話。それが3年5組中に広まっている、と。つまり、この教室のほぼ全員が、その事実を知っている。
その渦中の私が、今、拓海くんと並んで、この教室へと向かっている。
「変な噂が立ったらどうしよう?」「もし、誰かに『お似合いだねー』とか、わざとらしく揶揄われたら?」「私が勘違いしてるだけなのに、拓海くんに迷惑をかけたらどうしよう?」
頭の中を、そんなネガティブな想像の嵐が駆け巡りました。顔から火が出るような恥ずかしさと、彼に嫌われたくないという恐怖。
それでも、松葉杖で不自由そうな彼の姿と、遥の言葉が、私の背中を目に見えない力で強く押していました。
この一歩を踏み出さなければ、きっと後悔する。そう言い聞かせ、私は拓海くんの横で、顔を伏せがちに足を進めました。
まるで、初めてスポットライトを浴びる役者のように、緊張で全身が硬直し、呼吸さえも忘れるようでした。
拓海くんの教室の前に着くと、私は荷物を彼に返しました。教室の扉は開いていて、中の生徒たちの視線が、一瞬だけ私たちに突き刺さるように向けられたように感じました。私の顔は、きっと真っ赤になっていたでしょう。
「ありがとう、白石さん。助かったよ」
拓海くんの笑顔は、幼稚園のあの日のように穏やかで、私の胸の奥に温かい光を灯してくれました。それは、不安に揺れる心を、そっと包み込む柔らかな陽光のようでした。
私は「ううん」とだけ言って、足早に自分のクラスへと戻ろうとしました。
しかし、その時でした。拓海くんのクラスの中から、聞き慣れた声が響きました。
「青山くん、結衣に手伝ってもらえてよかったねー!」
声の主は、間違いなく遥でした。遥は、まるで当然のように、にこやかに私たちを見ていました。
その言葉に、周りの生徒たちからも、くすくすと笑い声が漏れるのが聞こえました。私の顔は、さらに熱くなったのを感じました。拓海くんも、少しだけ顔を赤らめているようでした。
彼は少し困ったように、でも嬉しそうに私を見つめました。その視線は、ずっと探し求めていた、彼からの返事のようだった。
その視線に、ようやく彼の気持ちが、確かな輪郭を持って見えた気がしました。
その日以来、私は何度か拓海くんの荷物を持つ手伝いをしましたが、教室まで付き添って一緒に歩くことは、なかなかできませんでした。
遥の言葉が頭の中でリフレインし、恥ずかしさが勝ってしまっていたのです。荷物を渡してすぐに、そそくさと自分のクラスへと立ち去ってしまう私。
それでも、短いけれど言葉を交わすことができるようになりました。
「怪我の具合、どう?」「うん、もうほとんど大丈夫。早く練習したいんだけどね」
そんなたわいもない会話でも、私にとっては特別な時間でした。
凍てついていた距離が、少しずつ、春の雪のように融けていくのを実感できました。彼の声を聞き、彼の笑顔を見るたびに、私の心は満たされていきました。
ある日の放課後、私が荷物を持つ手伝いを終えて自分のクラスに戻ろうとすると、拓海くんが少し躊躇したように声をかけてきました。
「あのさ、白石さん…」
私の心臓が、ドキンと大きく跳ねました。何かを切り出すような、少し真剣な声。
「うん、なに?」
私は彼の顔を、まっすぐに見つめました。彼の瞳には、少しだけ緊張の色が浮かんでいるように見えました。
(もしかして、遥が言っていたこと、本当だったのかな…?)
期待と不安が入り混じったまま、私は彼の次の言葉を待ちました。
それは、私の世界を、再び塗り替えるかもしれない、未知の音を待つような、長く、甘美な沈黙でした。
その数秒が、私には永遠のように長く感じられました。
それは、ガラスの向こう側から、ようやく声が届いた瞬間のような、静かで、しかし確かな時間の流れでした。
彼の口から、どんな言葉が返ってくるのか、私の心臓は未知の音を奏でるように激しく高鳴っていました。
「え、白石…さん?」
拓海くんの声は、少し戸惑っているようでした。私の名前を呼んでくれたことに、喜びが込み上げます。
しかし、彼の表情には、やはり私への「好き」という感情は読み取れないように思えました。
遥の話は本当だったのだろうか、という根深い不安が、再び私の心の奥底をかすめるようでした。
彼が私のことを意識しているなら、もう少し違う反応をするのではないか。そんな弱気が、私の心を冷たい指先でそっと撫でるようでした。
「うん…あの、松葉杖で大変そうだから」
私がそう言うと、拓海くんは少し照れたように笑いました。
「ああ、悪いね、助かるよ」
彼は、ずっしりと重そうな教材の束を、私の方へ差し出してくれました。その重みが腕に伝わってきます。
これで少しでも彼の負担が軽くなるなら、と嬉しくなりました。彼の役に立てることが、純粋に嬉しかったのです。
まるで、冷たい水の中に、温かいインクが溶け出すように、私の心はじんわりと満たされていきました。
それは、遠くの星に触れたような、ささやかな喜びでした。
階段を上ると、まず3年6組の私のクラスがあり、そのすぐ隣に3年5組の拓海くんのクラスがあります。
私は荷物を抱え、拓海くんの隣を歩き始めました。
隣にいる彼の存在が、想像していたよりもずっと大きく感じられる。時折、腕が触れそうな距離に、心臓が大きく波打った。
しかし、3年5組の教室に近づくにつれて、私の心臓はこれまでにないほど激しく脈打ち始めました。
遥から聞いた「青山くんが結衣のこと好きって言ってる」という話。それが3年5組中に広まっている、と。つまり、この教室のほぼ全員が、その事実を知っている。
その渦中の私が、今、拓海くんと並んで、この教室へと向かっている。
「変な噂が立ったらどうしよう?」「もし、誰かに『お似合いだねー』とか、わざとらしく揶揄われたら?」「私が勘違いしてるだけなのに、拓海くんに迷惑をかけたらどうしよう?」
頭の中を、そんなネガティブな想像の嵐が駆け巡りました。顔から火が出るような恥ずかしさと、彼に嫌われたくないという恐怖。
それでも、松葉杖で不自由そうな彼の姿と、遥の言葉が、私の背中を目に見えない力で強く押していました。
この一歩を踏み出さなければ、きっと後悔する。そう言い聞かせ、私は拓海くんの横で、顔を伏せがちに足を進めました。
まるで、初めてスポットライトを浴びる役者のように、緊張で全身が硬直し、呼吸さえも忘れるようでした。
拓海くんの教室の前に着くと、私は荷物を彼に返しました。教室の扉は開いていて、中の生徒たちの視線が、一瞬だけ私たちに突き刺さるように向けられたように感じました。私の顔は、きっと真っ赤になっていたでしょう。
「ありがとう、白石さん。助かったよ」
拓海くんの笑顔は、幼稚園のあの日のように穏やかで、私の胸の奥に温かい光を灯してくれました。それは、不安に揺れる心を、そっと包み込む柔らかな陽光のようでした。
私は「ううん」とだけ言って、足早に自分のクラスへと戻ろうとしました。
しかし、その時でした。拓海くんのクラスの中から、聞き慣れた声が響きました。
「青山くん、結衣に手伝ってもらえてよかったねー!」
声の主は、間違いなく遥でした。遥は、まるで当然のように、にこやかに私たちを見ていました。
その言葉に、周りの生徒たちからも、くすくすと笑い声が漏れるのが聞こえました。私の顔は、さらに熱くなったのを感じました。拓海くんも、少しだけ顔を赤らめているようでした。
彼は少し困ったように、でも嬉しそうに私を見つめました。その視線は、ずっと探し求めていた、彼からの返事のようだった。
その視線に、ようやく彼の気持ちが、確かな輪郭を持って見えた気がしました。
その日以来、私は何度か拓海くんの荷物を持つ手伝いをしましたが、教室まで付き添って一緒に歩くことは、なかなかできませんでした。
遥の言葉が頭の中でリフレインし、恥ずかしさが勝ってしまっていたのです。荷物を渡してすぐに、そそくさと自分のクラスへと立ち去ってしまう私。
それでも、短いけれど言葉を交わすことができるようになりました。
「怪我の具合、どう?」「うん、もうほとんど大丈夫。早く練習したいんだけどね」
そんなたわいもない会話でも、私にとっては特別な時間でした。
凍てついていた距離が、少しずつ、春の雪のように融けていくのを実感できました。彼の声を聞き、彼の笑顔を見るたびに、私の心は満たされていきました。
ある日の放課後、私が荷物を持つ手伝いを終えて自分のクラスに戻ろうとすると、拓海くんが少し躊躇したように声をかけてきました。
「あのさ、白石さん…」
私の心臓が、ドキンと大きく跳ねました。何かを切り出すような、少し真剣な声。
「うん、なに?」
私は彼の顔を、まっすぐに見つめました。彼の瞳には、少しだけ緊張の色が浮かんでいるように見えました。
(もしかして、遥が言っていたこと、本当だったのかな…?)
期待と不安が入り混じったまま、私は彼の次の言葉を待ちました。
それは、私の世界を、再び塗り替えるかもしれない、未知の音を待つような、長く、甘美な沈黙でした。
