桜が咲き誇る春、私は緑ヶ丘中学校の門をくぐりました。

真新しい制服に身を包み、幼い自分を脱ぎ捨てて新しい世界へ足を踏み出すような、少しだけ背伸びをした気分でした。

入学式の日、ざわめく体育館に、真新しい体育館シューズのゴムの匂いが満ちていました。

数えきれないほどの新入生の中から、私は必死で彼の姿を探しました。

心臓がドキドキと、まるで胸の中で小さな鳥が羽ばたく音のように、切なく高鳴っていました。

そして、その人を見つけたんです。
息を呑みました。

少し背が伸びて、顔つきも幼い頃よりずっと大人っぽくなっていたけれど、あの穏やかな雰囲気と、まっすぐな瞳は拓海くんそのものでした。

彼は、「青山 拓海(あおやま たくみ)」くん。

小学校の6年間、ずっと心の中で思い描いていた、私の「一番星」。

遠くで瞬いていたその光が、ようやく手の届く場所へと降りてきたような感覚でした。

彼の姿を見つけた瞬間、私の心に温かい光が差したようでした。

それはまるで、色褪せていた記憶のフィルムが、鮮やかな色彩を取り戻し、再び動き出すような感覚。

クラスは違ってしまったけれど、これでいつでも会える。

私のクラスは2階の1年5組。
拓海くんは3階の1年4組。

フロアは違うけれど、同じ校舎にいる。

それだけで、私の毎日は、光に満ちた、新しいページに変わりました。

私は拓海くんの様子を、毎日の登下校の道や、休み時間の廊下で、こっそり目で追うようになりました。

3階にある彼のクラスを直接覗くことはできないけれど、彼が友達と笑いあう声を聞いたり、教材を抱えて階段を上り下りする姿を見かけるだけで、胸が熱くなりました。

彼が何気なく廊下を歩いているだけでも、私の心臓はドキン、と音を立てるのがわかりました。

まるで、胸の奥に隠された秘密の鐘が、彼を見るたびに鳴り響くようでした。

(今頃、拓海くんはどんな顔して授業を受けているんだろう? 給食の時間は、誰と話しているんだろう?)

会えない時間、彼の姿を想像し、頭の中で彼の毎日を思い描くのが、私の密かな楽しみになっていました。

それは、私だけの、誰にも見つけられない小さな庭園で、彼の存在を育んでいるような時間でした。

そんなある日の休み時間、私は友人で、活発な性格の杉山 萌(すぎやま もえ)さんと話していました。

杉山さんは拓海くんと同じ1年4組。私は、拓海くんの話題を何気なく振ってみました。

「ねえ、杉山さん。青山拓海くんって、知ってる?」

すると杉山さんは、少し不思議そうな顔をして、こう聞き返しました。

「青山くん? うちのクラスの青山くんのこと? 青山くんがどうしたの?」

私が拓海くんの話題を出すこと自体が、杉山さんにとっては意外だったのかもしれません。

私は少し言い淀みながらも、「ううん、なんでもない、ちょっと気になって」と曖昧に答えました。

幼い頃からの秘密の想いを、誰かに知られるのは、少しだけ恥ずかしかったけれど、それでも、拓海くんに私の存在が伝わったら嬉しい、という気持ちもかすかにありました。

それは、薄いベール越しに、自分の存在を彼に示したいと願う、小さな灯のようなものでした。

数日後、私は廊下で、拓海くんが私のクラス(1年5組)の方向を、きょろきょろと見ているのを目にしました。

彼は誰かを探しているようでした。その時、私の頭に、杉山さんの言葉がよぎりました。

(もしかして、杉山さんが拓海くんに、「前に白石さんが青山くんのこと話してたよ」って、伝えてくれたのかな? だから、拓海くんが私を探してくれてるの?)

彼が私に話しかけてくれる。そんな淡い期待に胸がいっぱいになっていました。

まさか、彼が私の顔も名前も知らないなんて、その時の私は想像もしていませんでした。

私の小さな世界が、彼によって広がる期待が、胸いっぱいに満ちていました。

しかし、その直後、私の心に大きな、深い影が音もなく落ちる出来事が起こります。

数日後、私の耳に、ある漠然とした、しかし確かな重みを持つ噂が飛び込んできました。

廊下をすれ違う女子生徒たちの、ひそやかな声が耳に届く。

「ねえ、知ってる? 青山くん、星野さんのこと…」

そのひそひそ話の断片や、遠くで聞こえる笑い声の中から、私にとって最も聞きたくない言葉が、容赦なく耳に突き刺さりました。

拓海くんのクラス、1年4組内で、どうやら「青山くんは、星野さんが好きらしいよ」という話が広まっているというのです。

星野莉子(ほしの りこ)さん。
彼女は私の隣の1年6組の生徒で、確かに学年でも一、二を争う美少女として有名でした。

華やかで明るいオーラがあり、クラスの中心でいつも友達に囲まれているような子でした。

クラスは違えど、校内ですれ違う度に、その輝かしい存在に目を奪われるほどでした。

そして、私と星野さんは同じ光が丘小学校の出身で、星野さんのことは昔からよく知っていました。

彼女は、私のような平凡な女子とは全く違う、手の届かない、輝かしい存在に見えました。

確かな形のない、ぼんやりとした噂。
それが、真実なのか、ただの憶測なのか、私には分かりませんでした。

まるで、霧の中に浮かぶ、不確かな影絵のようでした。それでも、その漠然とした「らしい」という言葉が、私の胸を深く締め付けました。

そして、星野さんが美少女であることを知っていた私は、「ああ、やっぱり。星野さん可愛いし、拓海くんが好きになるのも仕方ないよね」と、どこか納得してしまう気持ちもありました。

私の中の諦めが、小さな刃のように心に刺さる感覚でした。

拓海くんが、私ではない他の誰かを好きだなんて、信じたくない。

でも、その噂が広まっているという事実が、まるで真実であるかのように、私の心を苦しめました。

そして、この頃、私は拓海くんが星野さんのことを目で追っているような姿を、何度か見かけた気がしました。

休憩時間、廊下の窓際で友人と話す星野さんの姿に、拓海くんの視線が吸い寄せられるように向かっているのを、私は確かに見てしまいました。

彼は、本当に楽しそうに、星野さんの後姿を見つめているように見えたのです。

その瞬間、私の胸はぐっと締め付けられました。それでも、自分に言い聞かせました。

「きっと見間違いだ。私の心が勝手に作り出した幻なんだ。」

しかし、噂と目の前の光景が重なり、私の心は確信に近い、深い誤解の檻でいっぱいになっていきました。

(やっぱり、拓海くんは星野さんが好きなんだ…)

この誤解が、私と拓海くんの間に、目に見えない、しかしとてつもなく厚い壁を築き上げていくようでした。

私が、彼のそばに近づこうとすればするほど、「青山くんは星野さんが好き」という確固たる事実(だと私が信じて疑わなかった、私の心の壁)が、私の一歩を阻みました。

彼が私のことなど眼中になく、別の誰かを想っているなら、私が出る幕はない。

中学校の生活は始まったばかりなのに、私の心には、すでに深淵のような影が落ちていました。

それは、私の目の前の光を、少しずつ蝕んでいく、冷たい闇のようでした。