拓海くんと私が付き合い始めて数年経った、ある日の午後のこと。
柔らかな日差しが部屋いっぱいに差し込み、私たち二人だけの時間が静かに流れていた。
ふと、彼があの幼稚園の頃の話を切り出したんだ。まさか、あの記憶を拓海くんも覚えていてくれたなんて。
そして、私がずっと知りたかった真実が、彼の口から、温かい風のように語られ始めた。
拓海くんは、幼稚園の頃のこと、正直あんまり覚えていないと言う。
「たしかに、小さな女の子が水たまりの近くで危うく転びそうになったのを、思わず手を差し伸べたような、おぼろげな記憶はあるんだ。その子がふわりと笑ってくれたことだけは、なぜか心の片隅に残ってるような気がするんだ」と話してくれた。
それが私だったなんて、あの頃は知る由もなかった、とも。
私にとって、拓海くんとの出会いは本当に特別なことだったから、一瞬だけ寂しさを感じたけれど、彼の記憶の片隅に私の存在が息づいていたことが、何よりも嬉しかった。それは、私の存在が彼の中で確かに息づいていた証のようだった。
そして、彼が私の存在を認識したのは、中学一年の後半に入ってからだったらしい。
その始まりは、中学1年の5月の終わり頃。
クラスの杉山さんが「ねえ、青山くん。白石結衣って子、知ってる?」と拓海くんに話しかけたのがきっかけだったそうだ。
杉山さんがわざわざ拓海くんに私のことを伝えるくらいだから、もしかしたら私が気にしているのか?と、そこから彼は無意識に私の姿を探すようになったという。
拓海くんは、しばらくの間、私のことを「謎の白石さん」と認識していたらしい。
私のクラスの1年5組の前を通ったり、廊下で見かけたりしても、『白石結衣』という名前と、目の前の誰かがなかなか結びつかなくて。
いったいどの子がそうなのか、特定するのにとても苦労した、と笑いながら話してくれた。
私がすぐに拓海くんの存在に気がついたのに、なぜ彼は私のことを分かってくれないんだろうって、ひそかに抱いていたあの頃の寂しさが、今、目の前で、鮮やかな解答として明かされた。
ようやく彼の目に私がはっきりと認識されたのは、1年生の終わり頃だったという。
私の真っ直ぐな瞳や、少し恥ずかしそうにしている表情に、拓海くんの視線は吸い寄せられていったそうだ。
彼のそんな変化に、私は当時、まったく気づいていなかった。
毎日、彼の姿を目で追っていたはずなのに、いったい何を、どう見ていたのだろう。
あの頃の自分を思えば、悔やんでも悔やみきれない愚かさに胸が締め付けられる。
同時に、私だけが一方的に想いを募らせていたわけではないのだと、当時感じていた孤独が報われ、深い安堵と、この上ない満ち足りた幸福感が、そっと私を包み込んだ。
誤解とすれ違いの季節
そして、ほぼ同じ頃、私たち二人の間に長く続く誤解が生まれることになる。
「結衣ちゃんが、俺が星野さんのことを好きだって噂で、長い間心を痛めていたこと、本当にごめんね…。」
と、拓海くんは申し訳なさそうに言った。
「中学1年の夏前くらいだったかな。クラスの男子が持っていた写真のことで、たまたま学年で目立っていた星野さんの名前が出て、それが勝手に広まってしまったんだ。」
「今思えば、あの時、きちんと否定していれば、あんなに長い間、結衣ちゃんを苦しめることはなかったのに…。本当に、俺は馬鹿だったよ」と、彼は悔やむように続けた。
私が何年も抱え込んだあの重い霧が、たったそんなことだったのかと拍子抜けすると同時に、彼が私を苦しめていたことを悔やんでくれた優しさに、胸がいっぱいになり、じんわりと温かいものが広がった。
そして、中学1年の頃から、拓海くんが私を目で追っていることには、彼のクラスの男子たちはとっくに気づいていたらしい。
だけど、肝心の私は、拓海くんが私を見てくれていることには気づいていなかった。
すれ違っても、目が合っても、すぐに逸らしてしまう私に、彼は「結衣ちゃんは俺に気づいているのか、それとも興味がないのか、なんで俺のことを知っている、って杉山さんを通して伝えてきたのか、その真意が分からなくて、どうすればいいのか分からなかったよ」と話してくれた。
私の方も、拓海くんのことはずっと見ていたけれど、声をかける勇気がなくて、それに星野さんの噂があったから、「気がついてほしいし、気が付かせたい、だけど私の出る幕なんてないんだな…」と、勝手に見えない壁を作っていた。
互いの視線は確かに交差していたのに、当時は薄い紗の向こうでしか相手を捉えられず、どれほど多くの時を無為に過ごしてしまったのだろう。
その遠回りへのほろ苦い悔悟が、今、真実の光に照らされ、深い安堵と、この上ない満ち足りた幸福感となって、私の心をそっと包み込んだ。
遠い視線が、やがて確かな言葉に
2年生になって、クラスが離れて、さらに接点がなくなった。
それでも、拓海くんは登下校の時や、体育館で学年集会がある時、無意識に私を探していたという。
私がテニス部にいると知って、たまに外のコートで練習している時に、私の姿を目で追っていたと。
真剣な眼差しでラケットを振る私を見るたびに、拓海くんは、「目立つ女子は何人もいたかもしれないけど、ほかの子が視界に入らないくらい太陽のように眩しい存在」、と思ったそうだ。
私のことをそんなふうに思ってくれていたとは。あの頃、心の奥底に染みついていた不安が、じんわりと温かくなるのを感じた。
私も、拓海くんがバスケをしている姿をいつも見ていたから、なんだか照れくさくて、でも嬉しくて、お互い様だね、と笑い合った。
遠くから見つめ合っていた、二つの視線が、今、確かな言葉で繋がった瞬間だった。
3年生になって、クラスが隣になった時は、本当に嬉しかったと拓海くんは言った。
「これで、もっと結衣ちゃんの近くにいられる、そう思ったよ」
受験勉強で忙しかったけれど、時々図書室で私を見かけたことがあったらしく、その時の私が真剣に勉強してる姿を見て、彼も頑張ろうと思えたそうだ。
その言葉に、私の心臓が、きゅっと締め付けられるような、甘い痛みを覚えた。まさか、あの時期に、拓海くんがそんな風に私を見ていてくれたなんて。
あの孤独な机に向かっていた時間が、彼の視線の中で、ひそかに輝いていたのだと思うと、言葉にならないほどの温かさと、じんわりとした感動が胸に広がった。
あの頃の私に教えてあげたかった。
結衣、あなたは強い孤独を感じていたかもしれない。 だけどね、あなたは一人じゃないんだよ。 あなたが大切に想う人が、あなたのそのひたむきな姿を見て、支えになる、って感じてくれてるんだよ。 あなたは、そのままでいいんだよ、と。
そして、中学3年の夏休み明け、修学旅行の夜のこと。
男子部屋で、友達と恋愛の話になって、「お前、好きな奴いるだろ?」とからかわれて、拓海くんはつい「ああ、いるよ」と答えてしまったらしい。
しつこく聞かれて、観念した彼は、思い切って私の名前を言った。
「…し、白石、だよ。わ、わりぃかよ!」
その瞬間、部屋が静まり返った後、爆笑の嵐になったと彼は笑う。
「マジかよ! お前、やっぱり白石のことかよ!」「知ってるよ!超有名な話じゃねーか!」「やっと吐いたな!俺はわかってたぞ!」と。
拓海くんのクラスの男子たちは、彼が私を目で追っていることに、とっくに気づいていたらしい。そして、遥がさらに広めてくれた、というわけだ。
「あー、遥! やっぱり遥が犯人だったんだね」と私が言うと、拓海くんは「あれ以来、遥のからかいは、本当にひどかったけどな(笑)」と笑いながら続けた。
「『ねえねえ、青山くーん、結衣のことホントに好きなのー?』って、しょっちゅう俺の席の近くを通るたびに言ってくるんだ。顔が熱くなるのを必死で抑えてた。」
「だけど、不思議と嫌じゃなかったよ。むしろ、遙は結衣ちゃんと昔からの仲だってわかってたから、もしかしたら結衣ちゃんに俺の気持ちが届くきっかけになるかも、ってどこか期待している自分がいたから」と話してくれた。
遥のおかげで、私が拓海くんの気持ちを知ることができたのだから、感謝しかない。彼女は、私の知らぬ間に、私たち二人の背中を押し続けてくれていたのだ。
そんな時、私が彼のロッカーに入れた「応援しています」とだけ書かれた可愛らしい手紙に、彼は直感的に気づいてくれていた。
「結衣ちゃんからのものだって分かったんだ。結衣ちゃんが俺を応援してくれてる。」「それだけで、俺はどんなに心強かったか」と、彼が言ってくれた時、胸が熱くなり、目頭がじんわりと熱くなった。
勇気の一歩、そして運命の架け橋
そして、その秋頃だった。 拓海くんは交通事故に遭ってしまい、しばらく松葉杖生活になった。
不自由で、学校に行くのも、重い荷物を持つことさえも億劫だったと彼は言う。
「あの時は本当に心配したんだよ」と私が伝えると、彼は優しく微笑んだ。
そんな時、廊下で私が突然声をかけた。
「あの……青山くん。荷物、持とうか?」
俺が驚きで立ち尽くしていると、結衣ちゃんが話しかけてくれた。
「結衣ちゃんが、俺に話しかけてくれた。それも、俺の支えになってくれる。あの時は、まさかそんなことになるなんて思ってもいなかったから信じられない、って思いで驚きの方が強かった気がする。その後からだんだんと嬉しさが溢れて胸がいっぱいになってさ。本当はもっと伝えたいことがたくさんあったのに、『ああ、悪いね、助かるよ』って言うので精一杯だったよ」と教えてくれた。
私は彼の当時の想いを聞いて、あの時、勇気を出して一歩を進めた自分を誇らしく思えた。
彼のクラスに近づくにつれて、私の顔が赤くなっているのが分かったと彼は言った。 遥がからかう声が聞こえた時、私の隣に彼がいることが、何よりも嬉しかったそうだ。
私が荷物を置いて、慌てて自分のクラスに戻ろうとした時、彼は思わず声をかけたという。
地区予選の決勝戦があること、そして「来てほしい」と勇気を出して言ったそうだ。
「うん、行くよ!」と私が言った時、彼は心底嬉しかったらしい。
「これで、少しは結衣ちゃんとの距離が縮まったって、そう思えたから」と彼は言った。
私も、あの時、顔が真っ赤だったと思うと、二人の間でくすっと笑いがこぼれた。あのぎこちない会話が、私たちをここまで導いてくれたのだ。
地区予選決勝の日。 陽斗くんが、入口で私と会った、と拓海くんに教えてくれたそうだ。
それだけで、彼の心は高鳴ったという。
「結衣ちゃんが来てくれた。それだけで、俺は最高のパフォーマンスで試合に臨める!って確信したよ。相手は毎年常勝の超強豪校だったけど、あの時だけは、全く負ける気がしなかった。試合中、ふとした瞬間に観客席の結衣ちゃんを探したよ。結衣ちゃんの応援が、俺の力になったんだ。だから優勝したことよりも、結衣ちゃんに最高の試合を見せれたことがなにより嬉しかった。」と彼は言ってくれた。
私も、拓海くんのこと、ずっと見ていたから、彼の活躍は本当に素晴らしかった。
その言葉は、私の胸に温かく響き渡り、あの日の興奮と、彼への誇らしさが鮮やかに蘇った。
そして、その真意に、私は息をのんだ。 優勝よりも私に最高の試合を見せられたことが嬉しい?
まさか、拓海くんがそこまで私の存在を意識してくれていたなんて。私の応援が、確かに彼の背中を押し、あの圧倒的な強敵を相手に、奇跡のような力を引き出したのだと知った時、これ以上の喜びはないと思った。
拓海くんの視線が、あの広い体育館の中で、私を探してくれていたなんて。その事実が、当時の私の孤独な想いを、今、眩しい光で満たしてくれた。
そして、体育館を出ると、少し雨が降っていて、私が傘を持ってないからかなのか、困っているような様子が見えたそうだ。
拓海くんは、本当は試合が終わったらすぐに私に会いに行き、今日の感謝と、最高の試合を見せられた喜びを伝えたかった、と話してくれた。
だけど、いざとなると、まだほんの少し、私にどう接すればいいか躊躇していた自分がいたという。
そんな時、本降りになった雨に私が困り果てている姿と、陽斗くんが背中を押してくれたこともあり、躊躇いを捨てて私のところへ傘を持って会いに来てくれた、というわけだ。
彼は陽斗くんと二人で傘を差し出してくれた。
「結衣ちゃんの嬉しそうな顔を見て、本当に来てくれてよかったって、心から思ったよ」と彼が言ってくれた時、あの時の心細かった気持ちが、温かさで満たされた。
あの雨の中の出来事が、私たち二人の距離を決定的に縮めたのだと、改めて実感した。
「ただ、あの時、本当は結衣ちゃんと二人で帰りたかったんだ」と、拓海くんは少し照れたように、そして、どこか悔やむように続けた。
「でも、あの頃の俺は、それが言えなくて。恥ずかしかったし、もし断られたらって思うと、一歩踏み出す勇気が持てなかったんだ。結局、傘だけ渡して、結衣ちゃんを置いて帰ってしまったんだ。」
その後、陽斗くんには散々怒られたらしい。
「拓海!お前、何やってんだよ!結衣ちゃんをほかの男に取られてもいいのか!」「バスケの試合で常勝チームを捩じ伏せても、お前自身の不安には負けちまうのか!」「お前、そんな弱い奴じゃなかっただろ!」
陽斗くんの真っ直ぐな言葉が、当時の拓海くんの臆病な心を揺さぶったのだという。
「それでも結局、最後まで俺から告白することはできなかった。結衣ちゃんに告白させてしまった。あの時の俺に、もっと勇気があればって、今でも悔やんでるんだ」 と、拓海くんは私の手を握りながら、静かに語った。
拓海くんの言葉を聞いて、私は胸がいっぱいになった。
あの時の彼の行動の裏に、そんな深い葛藤と、私への真摯な想いが隠されていたなんて。
彼もまた、私と同じように、見えない壁と戦っていたのだ。
その苦しみを今、分かち合えたことへの安堵と、当時の彼の優しさが、どれほどの勇気を振り絞ってのものだったのかを知り、私の心は、感謝と、温かな喜びに満たされた。
重なり合う心、そして未来へ
そして、あの放課後。体育館裏で、私が彼を待っていた時のこと。
陽斗くんは、拓海くんの背中を押して、そっと去っていったという。
私が幼稚園の時のことを話し始めた時、拓海くんは驚きと、同時に、深く感動したそうだ。
「まさか、あんな昔のことを、結衣ちゃんがずっと覚えていてくれたなんて。そして、ずっと俺のことを好きでいてくれたなんて」と。
彼は、私の言葉を、一言も聞き漏らさないように、必死で耳を傾けてくれたという。
「私…青山くんのこと、幼稚園の時からずっと、好きでした。」私がそう伝えた時、その言葉が彼の心に深く響いたそうだ。
「俺も、ずっと結衣ちゃんのことが気になってた。でも、どうすればいいか分からなくて、ただ見てるだけだったから」と。
彼の声は、喜びと、私への深い感謝と、そして、自分の方から先に伝えるべきだったのに、私に言わせてしまったことへの、どうしようもない罪悪感。色々な感情が入り混じっていて、少し震えていたと、後になって教えてくれた。
その言葉を聞いた時、私の胸には、温かいものがじんわりと広がった。
彼が、私の告白を、今もそんな風に悔やんでくれていたなんて。
あの時の彼の震える声に、どれほどの誠実さと、私への深い想いが込められていたのかを、改めて知った。
私は拓海くんのそんな真っ直ぐな優しさと、言葉にならない苦しみを汲み取り、心からの感謝と、この上ない喜びを感じていた。
そして、あの告白の時、彼はそっと私の手を握った。 私の指先は少し冷たかったけれど、すぐに温かくなった。
「俺も、ずっと白石さんのこと、気になってたんだ。これからも、もっと一緒にいたい。高校でも、また一緒に、色々なこと、頑張ろうね。」
私が満面の笑顔で「うん!」って言ってくれた時、彼は最高の幸福を感じたそうだ。
長年、遠くから見つめるだけだった想いが、ようやく両想いになった瞬間。二つの心が、確かに重なり合った瞬間。
それからの日々は、全てが光に満ちて輝いていたな、と拓海くんは言う。
放課後に一緒に勉強する時間。分からない問題を教え合う時間。私が隣にいるだけで、どんなことでも頑張れる気がしたそうだ。
高校に入学して、彼はバスケ部、私はテニス部に入ったけど、登下校はいつも一緒だった。
高校に入学して、初めての春。 放課後の図書館で、二人並んで参考書を広げていた。
拓海くんが、私のノートにそっと指を添えて説明してくれる。その指が触れたノートのページから、温かい熱が、電流のように伝わってきた。
中学時代、隣にいるだけで満たされていた私も、今、私たちは共に学び、互いを高め合う喜びを知っていた。
高校一年生の夏休み。 お互いの部活動の練習が重なる日は、合間に二人で校舎裏の木陰で休憩したこともあった。
冷たい麦茶を分け合いながら、他愛もない将来の夢を語り合った。蝉の声が降り注ぐ中、拓海くんと隣り合わせで過ごす時間は、何よりも私を癒してくれた。
秋の文化祭では、一緒にクラスの出し物を手伝った。 放課後、作業に夢中になっていると、拓海くんがそっと差し出してくれた温かい缶コーヒーの温もりが、冷え始めた指先にじんわりと染みた。
そんなささやかな瞬間一つ一つが、私たち二人の絆を深くしていった。
そして、高校二年生の冬。 受験という言葉が現実味を帯び始め、不安を感じることもあった。
けれど、拓海くんと互いを励まし合い、共に乗り越えようと誓い合った。
彼との会話は、いつも私に冷静な視点と、前向きな力を与えてくれた。
ただの「好き」という感情だけではない、深い信頼と尊敬が、私たち二人の間に確かに育っていた。
季節は巡り、私たちは高校三年生になった。 受験本番を控え、緊張と期待が入り混じる毎日。
それでも、拓海くんが隣にいてくれるだけで、不思議と心が穏やかになった。
彼の存在は、単なる「初恋の人」から、私の人生を共に歩む「かけがえのないパートナー」へと、時間と共に深く成熟していった。
彼の隣にいるだけで、どんな困難も乗り越えられる。そんな確信が、私の中で揺るぎないものとなっていた。
ある雨上がりの日の放課後。
二人でいつもの坂道を下っていると、ふと、道の端にできた小さな水たまりが目に留まった。
何気なく避けて通ろうとしたその時、私の足元が少し滑って、体がふらついてしまった。
「あっ…!」
思わず声が出たのとほぼ同時に、隣を歩いていた拓海くんが、反射的に私の腕を掴んだ。あの幼稚園の頃と、全く同じように。
「大丈夫?」
彼の声は、あの時と同じ、優しくて、少し心配そうな響きだった。
顔を上げると、少しだけ目を細めて、私のことを見つめている拓海くんの顔があった。
「うん、大丈夫。ありがとう」
私はそう言って、彼の腕からそっと手を離したけれど、二人の間に、ほんの少しの静寂が流れた。
私たちは、まるでデジャヴュのように、あの幼稚園の頃の、坂道の下での出来事を思い出していたのかもしれない。
あの時、あやうく転びそうになった私を助けてくれた、優しい男の子。
それが、今の私の隣にいてくれる、かけがえのない人。 私たちは顔を見合わせ、小さく微笑んだ。
言葉にしなくても、お互いの心に去来する思いは、きっと同じだった。
あの日の小さな出会いが、こうして今も続いている奇跡。
そして、彼の優しさは、あの時から何も変わっていないということ。
ある日の朝。いつものように一緒に坂道を上っていると、私が彼の袖を掴んだ時のこと。
「ねえ、拓海くん。あのさ…手、繋いでもいい?」
私の顔は、朝日に照らされて、少し赤くなっていたと彼は言う。
彼の目を見ると、優しい光が宿っていた。
拓海くんは迷わず私の手を握り返してくれた。 私の小さな手が、彼の大きな手にすっぽりと収まる。その温かさが、彼の心にじんわりと広がったそうだ。
あの時、すごく勇気を出したんだよ、と彼に伝えると、彼は優しく笑ってくれた。
高校の制服に身を包んだ二人が、同じ速度で、同じ方向を見つめながら、坂道を上りきると、朝日にきらめく街並みが広がっていた。
拓海くんは、「これからもこの坂道を、ずっと結衣ちゃんと一緒に上っていきたい。二人で、たくさんの未来を、作っていきたいんだ」と語ってくれた。
私が彼に書いた手紙も、何度も何度も読み返した、と言ってくれた。
私たち二人の物語は、まだ始まったばかりだ。
拓海くんが語ってくれたこの話を聞いて、私は彼の深い優しさと、私たち二人の揺るぎない強い絆を改めて感じた。
これからも、彼と一緒なら、どんな困難も乗り越えられるだろう。
そして、私は知っている。
この先、どんな時も、もし私がまた小さな水たまりで足元を危うくすることがあったとしても、きっと彼は、あの日のように、迷わず手を差し伸べてくれるだろう。
彼の優しさは、私にとって永遠の光なのだから。
柔らかな日差しが部屋いっぱいに差し込み、私たち二人だけの時間が静かに流れていた。
ふと、彼があの幼稚園の頃の話を切り出したんだ。まさか、あの記憶を拓海くんも覚えていてくれたなんて。
そして、私がずっと知りたかった真実が、彼の口から、温かい風のように語られ始めた。
拓海くんは、幼稚園の頃のこと、正直あんまり覚えていないと言う。
「たしかに、小さな女の子が水たまりの近くで危うく転びそうになったのを、思わず手を差し伸べたような、おぼろげな記憶はあるんだ。その子がふわりと笑ってくれたことだけは、なぜか心の片隅に残ってるような気がするんだ」と話してくれた。
それが私だったなんて、あの頃は知る由もなかった、とも。
私にとって、拓海くんとの出会いは本当に特別なことだったから、一瞬だけ寂しさを感じたけれど、彼の記憶の片隅に私の存在が息づいていたことが、何よりも嬉しかった。それは、私の存在が彼の中で確かに息づいていた証のようだった。
そして、彼が私の存在を認識したのは、中学一年の後半に入ってからだったらしい。
その始まりは、中学1年の5月の終わり頃。
クラスの杉山さんが「ねえ、青山くん。白石結衣って子、知ってる?」と拓海くんに話しかけたのがきっかけだったそうだ。
杉山さんがわざわざ拓海くんに私のことを伝えるくらいだから、もしかしたら私が気にしているのか?と、そこから彼は無意識に私の姿を探すようになったという。
拓海くんは、しばらくの間、私のことを「謎の白石さん」と認識していたらしい。
私のクラスの1年5組の前を通ったり、廊下で見かけたりしても、『白石結衣』という名前と、目の前の誰かがなかなか結びつかなくて。
いったいどの子がそうなのか、特定するのにとても苦労した、と笑いながら話してくれた。
私がすぐに拓海くんの存在に気がついたのに、なぜ彼は私のことを分かってくれないんだろうって、ひそかに抱いていたあの頃の寂しさが、今、目の前で、鮮やかな解答として明かされた。
ようやく彼の目に私がはっきりと認識されたのは、1年生の終わり頃だったという。
私の真っ直ぐな瞳や、少し恥ずかしそうにしている表情に、拓海くんの視線は吸い寄せられていったそうだ。
彼のそんな変化に、私は当時、まったく気づいていなかった。
毎日、彼の姿を目で追っていたはずなのに、いったい何を、どう見ていたのだろう。
あの頃の自分を思えば、悔やんでも悔やみきれない愚かさに胸が締め付けられる。
同時に、私だけが一方的に想いを募らせていたわけではないのだと、当時感じていた孤独が報われ、深い安堵と、この上ない満ち足りた幸福感が、そっと私を包み込んだ。
誤解とすれ違いの季節
そして、ほぼ同じ頃、私たち二人の間に長く続く誤解が生まれることになる。
「結衣ちゃんが、俺が星野さんのことを好きだって噂で、長い間心を痛めていたこと、本当にごめんね…。」
と、拓海くんは申し訳なさそうに言った。
「中学1年の夏前くらいだったかな。クラスの男子が持っていた写真のことで、たまたま学年で目立っていた星野さんの名前が出て、それが勝手に広まってしまったんだ。」
「今思えば、あの時、きちんと否定していれば、あんなに長い間、結衣ちゃんを苦しめることはなかったのに…。本当に、俺は馬鹿だったよ」と、彼は悔やむように続けた。
私が何年も抱え込んだあの重い霧が、たったそんなことだったのかと拍子抜けすると同時に、彼が私を苦しめていたことを悔やんでくれた優しさに、胸がいっぱいになり、じんわりと温かいものが広がった。
そして、中学1年の頃から、拓海くんが私を目で追っていることには、彼のクラスの男子たちはとっくに気づいていたらしい。
だけど、肝心の私は、拓海くんが私を見てくれていることには気づいていなかった。
すれ違っても、目が合っても、すぐに逸らしてしまう私に、彼は「結衣ちゃんは俺に気づいているのか、それとも興味がないのか、なんで俺のことを知っている、って杉山さんを通して伝えてきたのか、その真意が分からなくて、どうすればいいのか分からなかったよ」と話してくれた。
私の方も、拓海くんのことはずっと見ていたけれど、声をかける勇気がなくて、それに星野さんの噂があったから、「気がついてほしいし、気が付かせたい、だけど私の出る幕なんてないんだな…」と、勝手に見えない壁を作っていた。
互いの視線は確かに交差していたのに、当時は薄い紗の向こうでしか相手を捉えられず、どれほど多くの時を無為に過ごしてしまったのだろう。
その遠回りへのほろ苦い悔悟が、今、真実の光に照らされ、深い安堵と、この上ない満ち足りた幸福感となって、私の心をそっと包み込んだ。
遠い視線が、やがて確かな言葉に
2年生になって、クラスが離れて、さらに接点がなくなった。
それでも、拓海くんは登下校の時や、体育館で学年集会がある時、無意識に私を探していたという。
私がテニス部にいると知って、たまに外のコートで練習している時に、私の姿を目で追っていたと。
真剣な眼差しでラケットを振る私を見るたびに、拓海くんは、「目立つ女子は何人もいたかもしれないけど、ほかの子が視界に入らないくらい太陽のように眩しい存在」、と思ったそうだ。
私のことをそんなふうに思ってくれていたとは。あの頃、心の奥底に染みついていた不安が、じんわりと温かくなるのを感じた。
私も、拓海くんがバスケをしている姿をいつも見ていたから、なんだか照れくさくて、でも嬉しくて、お互い様だね、と笑い合った。
遠くから見つめ合っていた、二つの視線が、今、確かな言葉で繋がった瞬間だった。
3年生になって、クラスが隣になった時は、本当に嬉しかったと拓海くんは言った。
「これで、もっと結衣ちゃんの近くにいられる、そう思ったよ」
受験勉強で忙しかったけれど、時々図書室で私を見かけたことがあったらしく、その時の私が真剣に勉強してる姿を見て、彼も頑張ろうと思えたそうだ。
その言葉に、私の心臓が、きゅっと締め付けられるような、甘い痛みを覚えた。まさか、あの時期に、拓海くんがそんな風に私を見ていてくれたなんて。
あの孤独な机に向かっていた時間が、彼の視線の中で、ひそかに輝いていたのだと思うと、言葉にならないほどの温かさと、じんわりとした感動が胸に広がった。
あの頃の私に教えてあげたかった。
結衣、あなたは強い孤独を感じていたかもしれない。 だけどね、あなたは一人じゃないんだよ。 あなたが大切に想う人が、あなたのそのひたむきな姿を見て、支えになる、って感じてくれてるんだよ。 あなたは、そのままでいいんだよ、と。
そして、中学3年の夏休み明け、修学旅行の夜のこと。
男子部屋で、友達と恋愛の話になって、「お前、好きな奴いるだろ?」とからかわれて、拓海くんはつい「ああ、いるよ」と答えてしまったらしい。
しつこく聞かれて、観念した彼は、思い切って私の名前を言った。
「…し、白石、だよ。わ、わりぃかよ!」
その瞬間、部屋が静まり返った後、爆笑の嵐になったと彼は笑う。
「マジかよ! お前、やっぱり白石のことかよ!」「知ってるよ!超有名な話じゃねーか!」「やっと吐いたな!俺はわかってたぞ!」と。
拓海くんのクラスの男子たちは、彼が私を目で追っていることに、とっくに気づいていたらしい。そして、遥がさらに広めてくれた、というわけだ。
「あー、遥! やっぱり遥が犯人だったんだね」と私が言うと、拓海くんは「あれ以来、遥のからかいは、本当にひどかったけどな(笑)」と笑いながら続けた。
「『ねえねえ、青山くーん、結衣のことホントに好きなのー?』って、しょっちゅう俺の席の近くを通るたびに言ってくるんだ。顔が熱くなるのを必死で抑えてた。」
「だけど、不思議と嫌じゃなかったよ。むしろ、遙は結衣ちゃんと昔からの仲だってわかってたから、もしかしたら結衣ちゃんに俺の気持ちが届くきっかけになるかも、ってどこか期待している自分がいたから」と話してくれた。
遥のおかげで、私が拓海くんの気持ちを知ることができたのだから、感謝しかない。彼女は、私の知らぬ間に、私たち二人の背中を押し続けてくれていたのだ。
そんな時、私が彼のロッカーに入れた「応援しています」とだけ書かれた可愛らしい手紙に、彼は直感的に気づいてくれていた。
「結衣ちゃんからのものだって分かったんだ。結衣ちゃんが俺を応援してくれてる。」「それだけで、俺はどんなに心強かったか」と、彼が言ってくれた時、胸が熱くなり、目頭がじんわりと熱くなった。
勇気の一歩、そして運命の架け橋
そして、その秋頃だった。 拓海くんは交通事故に遭ってしまい、しばらく松葉杖生活になった。
不自由で、学校に行くのも、重い荷物を持つことさえも億劫だったと彼は言う。
「あの時は本当に心配したんだよ」と私が伝えると、彼は優しく微笑んだ。
そんな時、廊下で私が突然声をかけた。
「あの……青山くん。荷物、持とうか?」
俺が驚きで立ち尽くしていると、結衣ちゃんが話しかけてくれた。
「結衣ちゃんが、俺に話しかけてくれた。それも、俺の支えになってくれる。あの時は、まさかそんなことになるなんて思ってもいなかったから信じられない、って思いで驚きの方が強かった気がする。その後からだんだんと嬉しさが溢れて胸がいっぱいになってさ。本当はもっと伝えたいことがたくさんあったのに、『ああ、悪いね、助かるよ』って言うので精一杯だったよ」と教えてくれた。
私は彼の当時の想いを聞いて、あの時、勇気を出して一歩を進めた自分を誇らしく思えた。
彼のクラスに近づくにつれて、私の顔が赤くなっているのが分かったと彼は言った。 遥がからかう声が聞こえた時、私の隣に彼がいることが、何よりも嬉しかったそうだ。
私が荷物を置いて、慌てて自分のクラスに戻ろうとした時、彼は思わず声をかけたという。
地区予選の決勝戦があること、そして「来てほしい」と勇気を出して言ったそうだ。
「うん、行くよ!」と私が言った時、彼は心底嬉しかったらしい。
「これで、少しは結衣ちゃんとの距離が縮まったって、そう思えたから」と彼は言った。
私も、あの時、顔が真っ赤だったと思うと、二人の間でくすっと笑いがこぼれた。あのぎこちない会話が、私たちをここまで導いてくれたのだ。
地区予選決勝の日。 陽斗くんが、入口で私と会った、と拓海くんに教えてくれたそうだ。
それだけで、彼の心は高鳴ったという。
「結衣ちゃんが来てくれた。それだけで、俺は最高のパフォーマンスで試合に臨める!って確信したよ。相手は毎年常勝の超強豪校だったけど、あの時だけは、全く負ける気がしなかった。試合中、ふとした瞬間に観客席の結衣ちゃんを探したよ。結衣ちゃんの応援が、俺の力になったんだ。だから優勝したことよりも、結衣ちゃんに最高の試合を見せれたことがなにより嬉しかった。」と彼は言ってくれた。
私も、拓海くんのこと、ずっと見ていたから、彼の活躍は本当に素晴らしかった。
その言葉は、私の胸に温かく響き渡り、あの日の興奮と、彼への誇らしさが鮮やかに蘇った。
そして、その真意に、私は息をのんだ。 優勝よりも私に最高の試合を見せられたことが嬉しい?
まさか、拓海くんがそこまで私の存在を意識してくれていたなんて。私の応援が、確かに彼の背中を押し、あの圧倒的な強敵を相手に、奇跡のような力を引き出したのだと知った時、これ以上の喜びはないと思った。
拓海くんの視線が、あの広い体育館の中で、私を探してくれていたなんて。その事実が、当時の私の孤独な想いを、今、眩しい光で満たしてくれた。
そして、体育館を出ると、少し雨が降っていて、私が傘を持ってないからかなのか、困っているような様子が見えたそうだ。
拓海くんは、本当は試合が終わったらすぐに私に会いに行き、今日の感謝と、最高の試合を見せられた喜びを伝えたかった、と話してくれた。
だけど、いざとなると、まだほんの少し、私にどう接すればいいか躊躇していた自分がいたという。
そんな時、本降りになった雨に私が困り果てている姿と、陽斗くんが背中を押してくれたこともあり、躊躇いを捨てて私のところへ傘を持って会いに来てくれた、というわけだ。
彼は陽斗くんと二人で傘を差し出してくれた。
「結衣ちゃんの嬉しそうな顔を見て、本当に来てくれてよかったって、心から思ったよ」と彼が言ってくれた時、あの時の心細かった気持ちが、温かさで満たされた。
あの雨の中の出来事が、私たち二人の距離を決定的に縮めたのだと、改めて実感した。
「ただ、あの時、本当は結衣ちゃんと二人で帰りたかったんだ」と、拓海くんは少し照れたように、そして、どこか悔やむように続けた。
「でも、あの頃の俺は、それが言えなくて。恥ずかしかったし、もし断られたらって思うと、一歩踏み出す勇気が持てなかったんだ。結局、傘だけ渡して、結衣ちゃんを置いて帰ってしまったんだ。」
その後、陽斗くんには散々怒られたらしい。
「拓海!お前、何やってんだよ!結衣ちゃんをほかの男に取られてもいいのか!」「バスケの試合で常勝チームを捩じ伏せても、お前自身の不安には負けちまうのか!」「お前、そんな弱い奴じゃなかっただろ!」
陽斗くんの真っ直ぐな言葉が、当時の拓海くんの臆病な心を揺さぶったのだという。
「それでも結局、最後まで俺から告白することはできなかった。結衣ちゃんに告白させてしまった。あの時の俺に、もっと勇気があればって、今でも悔やんでるんだ」 と、拓海くんは私の手を握りながら、静かに語った。
拓海くんの言葉を聞いて、私は胸がいっぱいになった。
あの時の彼の行動の裏に、そんな深い葛藤と、私への真摯な想いが隠されていたなんて。
彼もまた、私と同じように、見えない壁と戦っていたのだ。
その苦しみを今、分かち合えたことへの安堵と、当時の彼の優しさが、どれほどの勇気を振り絞ってのものだったのかを知り、私の心は、感謝と、温かな喜びに満たされた。
重なり合う心、そして未来へ
そして、あの放課後。体育館裏で、私が彼を待っていた時のこと。
陽斗くんは、拓海くんの背中を押して、そっと去っていったという。
私が幼稚園の時のことを話し始めた時、拓海くんは驚きと、同時に、深く感動したそうだ。
「まさか、あんな昔のことを、結衣ちゃんがずっと覚えていてくれたなんて。そして、ずっと俺のことを好きでいてくれたなんて」と。
彼は、私の言葉を、一言も聞き漏らさないように、必死で耳を傾けてくれたという。
「私…青山くんのこと、幼稚園の時からずっと、好きでした。」私がそう伝えた時、その言葉が彼の心に深く響いたそうだ。
「俺も、ずっと結衣ちゃんのことが気になってた。でも、どうすればいいか分からなくて、ただ見てるだけだったから」と。
彼の声は、喜びと、私への深い感謝と、そして、自分の方から先に伝えるべきだったのに、私に言わせてしまったことへの、どうしようもない罪悪感。色々な感情が入り混じっていて、少し震えていたと、後になって教えてくれた。
その言葉を聞いた時、私の胸には、温かいものがじんわりと広がった。
彼が、私の告白を、今もそんな風に悔やんでくれていたなんて。
あの時の彼の震える声に、どれほどの誠実さと、私への深い想いが込められていたのかを、改めて知った。
私は拓海くんのそんな真っ直ぐな優しさと、言葉にならない苦しみを汲み取り、心からの感謝と、この上ない喜びを感じていた。
そして、あの告白の時、彼はそっと私の手を握った。 私の指先は少し冷たかったけれど、すぐに温かくなった。
「俺も、ずっと白石さんのこと、気になってたんだ。これからも、もっと一緒にいたい。高校でも、また一緒に、色々なこと、頑張ろうね。」
私が満面の笑顔で「うん!」って言ってくれた時、彼は最高の幸福を感じたそうだ。
長年、遠くから見つめるだけだった想いが、ようやく両想いになった瞬間。二つの心が、確かに重なり合った瞬間。
それからの日々は、全てが光に満ちて輝いていたな、と拓海くんは言う。
放課後に一緒に勉強する時間。分からない問題を教え合う時間。私が隣にいるだけで、どんなことでも頑張れる気がしたそうだ。
高校に入学して、彼はバスケ部、私はテニス部に入ったけど、登下校はいつも一緒だった。
高校に入学して、初めての春。 放課後の図書館で、二人並んで参考書を広げていた。
拓海くんが、私のノートにそっと指を添えて説明してくれる。その指が触れたノートのページから、温かい熱が、電流のように伝わってきた。
中学時代、隣にいるだけで満たされていた私も、今、私たちは共に学び、互いを高め合う喜びを知っていた。
高校一年生の夏休み。 お互いの部活動の練習が重なる日は、合間に二人で校舎裏の木陰で休憩したこともあった。
冷たい麦茶を分け合いながら、他愛もない将来の夢を語り合った。蝉の声が降り注ぐ中、拓海くんと隣り合わせで過ごす時間は、何よりも私を癒してくれた。
秋の文化祭では、一緒にクラスの出し物を手伝った。 放課後、作業に夢中になっていると、拓海くんがそっと差し出してくれた温かい缶コーヒーの温もりが、冷え始めた指先にじんわりと染みた。
そんなささやかな瞬間一つ一つが、私たち二人の絆を深くしていった。
そして、高校二年生の冬。 受験という言葉が現実味を帯び始め、不安を感じることもあった。
けれど、拓海くんと互いを励まし合い、共に乗り越えようと誓い合った。
彼との会話は、いつも私に冷静な視点と、前向きな力を与えてくれた。
ただの「好き」という感情だけではない、深い信頼と尊敬が、私たち二人の間に確かに育っていた。
季節は巡り、私たちは高校三年生になった。 受験本番を控え、緊張と期待が入り混じる毎日。
それでも、拓海くんが隣にいてくれるだけで、不思議と心が穏やかになった。
彼の存在は、単なる「初恋の人」から、私の人生を共に歩む「かけがえのないパートナー」へと、時間と共に深く成熟していった。
彼の隣にいるだけで、どんな困難も乗り越えられる。そんな確信が、私の中で揺るぎないものとなっていた。
ある雨上がりの日の放課後。
二人でいつもの坂道を下っていると、ふと、道の端にできた小さな水たまりが目に留まった。
何気なく避けて通ろうとしたその時、私の足元が少し滑って、体がふらついてしまった。
「あっ…!」
思わず声が出たのとほぼ同時に、隣を歩いていた拓海くんが、反射的に私の腕を掴んだ。あの幼稚園の頃と、全く同じように。
「大丈夫?」
彼の声は、あの時と同じ、優しくて、少し心配そうな響きだった。
顔を上げると、少しだけ目を細めて、私のことを見つめている拓海くんの顔があった。
「うん、大丈夫。ありがとう」
私はそう言って、彼の腕からそっと手を離したけれど、二人の間に、ほんの少しの静寂が流れた。
私たちは、まるでデジャヴュのように、あの幼稚園の頃の、坂道の下での出来事を思い出していたのかもしれない。
あの時、あやうく転びそうになった私を助けてくれた、優しい男の子。
それが、今の私の隣にいてくれる、かけがえのない人。 私たちは顔を見合わせ、小さく微笑んだ。
言葉にしなくても、お互いの心に去来する思いは、きっと同じだった。
あの日の小さな出会いが、こうして今も続いている奇跡。
そして、彼の優しさは、あの時から何も変わっていないということ。
ある日の朝。いつものように一緒に坂道を上っていると、私が彼の袖を掴んだ時のこと。
「ねえ、拓海くん。あのさ…手、繋いでもいい?」
私の顔は、朝日に照らされて、少し赤くなっていたと彼は言う。
彼の目を見ると、優しい光が宿っていた。
拓海くんは迷わず私の手を握り返してくれた。 私の小さな手が、彼の大きな手にすっぽりと収まる。その温かさが、彼の心にじんわりと広がったそうだ。
あの時、すごく勇気を出したんだよ、と彼に伝えると、彼は優しく笑ってくれた。
高校の制服に身を包んだ二人が、同じ速度で、同じ方向を見つめながら、坂道を上りきると、朝日にきらめく街並みが広がっていた。
拓海くんは、「これからもこの坂道を、ずっと結衣ちゃんと一緒に上っていきたい。二人で、たくさんの未来を、作っていきたいんだ」と語ってくれた。
私が彼に書いた手紙も、何度も何度も読み返した、と言ってくれた。
私たち二人の物語は、まだ始まったばかりだ。
拓海くんが語ってくれたこの話を聞いて、私は彼の深い優しさと、私たち二人の揺るぎない強い絆を改めて感じた。
これからも、彼と一緒なら、どんな困難も乗り越えられるだろう。
そして、私は知っている。
この先、どんな時も、もし私がまた小さな水たまりで足元を危うくすることがあったとしても、きっと彼は、あの日のように、迷わず手を差し伸べてくれるだろう。
彼の優しさは、私にとって永遠の光なのだから。
