この物語を、かつて私の心の暗闇を照らしてくれた、ある「一番星」へ贈ります。

貴方の記憶の片隅に、もしこの光が届くことがあれば、それはきっと、偶然ではないでしょう。

あの日々の輝きと、そして、変わらぬ優しさに、心からの感謝を込めて。

白石結衣

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私の名前は白石 結衣(しらいし ゆい)。

私の記憶の中で、一番最初の、そして一番大切な出来事。それは、幼稚園の頃の、あの日、あの場所でのことだった。

若葉の森幼稚園へと続く、緩やかな坂道の下。

いつもはスキップするように駆け上がって、大好きな友達と「おはよう!」と挨拶を交わす場所。

けれど、その日の足取りは、なんだか重かった。

朝、登園前に、ママとちょっとしたことで言い争いをしてしまったのだ。些細なことだったと思う。

着ていく服のことだったか、髪飾りのことだったか……幼い私の記憶は曖昧だけれど、ママの少し尖った声と、言い返せなかった自分の喉の奥にこみ上げる悔しさが、胸の奥に小さなトゲのように刺さっていた。

雨上がりの空はどんよりと灰色で、私の心模様をそのまま映しているようだった。

土の湿った匂いと、微かに残る雨の匂いが混じり合い、どんよりとした空気に溶け込んでいた。

その坂道の途中には、キラキラと光る大きな水たまりができていた。

幼稚園の先生は「危ないから近づかないでね」と言っていたけれど、胸の奥のモヤモヤを持て余していた私は、その水面に、なんだか言いようのない魅力を感じていた。

それは、現実からほんの少しだけ目を背けられる、別世界の入り口のように思えた。

水面に映るぼやけた景色は、朝の嫌な出来事を忘れさせてくれるような、不思議な力を持っている気がしたのだ。

灰色の空の下、水たまりは宝石のように鈍くきらめき、まるで別の世界への扉のように見えた。

危ないと分かっていても、そのキラキラとした水面に、まるで磁石に吸い寄せられるように、私の足は自然と向かっていた。

ママと少し険悪になってしまった憂鬱な気持ちを、この水たまりにそっと流してしまいたい、そんな子供じみた願いが、私の小さな胸の中にあったのかもしれない。

「あ…」

水たまりの縁で、ぼんやりと水面を見つめていた私は、足元が滑りそうになり、危うく転びそうになった。

心臓がドキッとして、思わず目をぎゅっと閉じた、その時。温かい手が、私の腕をそっと支えてくれた。

その手のひらから伝わる温かさは、まるで冷え切った心に差し込む陽だまりのようで、今でも鮮明に覚えている。

恐る恐る目を開けると、そこにいたのは、同じ幼稚園の男の子だった。大きな瞳に、優しい光を宿した、見知らぬ男の子。

「大丈夫?」

彼の声は、幼いながらも、どこか落ち着いていて、まるで春の日のそよ風のように、私の胸の奥の小さなトゲをそっと抜き取ってくれる、魔法の調べのようだった。

私はただ、彼の顔をじっと見つめることしかできなかった。

すると、彼は、私の目を見て、にこっと笑った。

その笑顔は、まるで漆黒の夜空に、突然、一番星が瞬いたかのように、私の幼い心を強く照らした。

彼の笑顔が放つ光は、水たまりに反射してきらめき、周囲のどんよりした風景まで明るく染め上げるようだった。

その瞬間、私の周りの世界が、音もなく色づいたような気がした。どんよりとした空の下に、一筋の希望の光が差し込んだような、鮮やかな変容だった。

その子の名前は、「青山 拓海(あおやま たくみ)」くん。

彼は、その日、私が遊びたそうにしている滑り台の順番を、私に譲ってくれた。

列は長く、我先にと順番を待つ園児が多い中で、自分の遊びを優先せず、私の心を見透かしたように優しくしてくれた彼の行動に、幼いながらも「この子は他の子とは違う」と直感した。

私が「ありがとう」と言うと、彼はにこやかに「どういたしまして」と返してくれた。

その時の彼の声と笑顔は、今でも鮮明に私の心に息づいている。

ママとの小さな喧嘩で曇っていた私の心を、彼のたった一言が、やさしく包んでくれたからかもしれない。

それはまるで、私だけに見えた、小さな奇跡のようだった。

たったそれだけの、本当に些細な出来事。でも、その瞬間、私の心に、これまで感じたことのない温かな波が広がったのを覚えている。

彼の何の打算もない、ただただ優しい眼差しと声が、私の幼い心に深く、深く刻み込まれたのだ。

その日から、私の視線は、園庭のどこにいても、無意識に拓海くんを探すようになっていた。

砂場で遊ぶ拓海くん。お友達と笑いあう拓海くん。遠くから見ているだけでも、胸が温かくなるような、不思議な感覚。

他の子が騒いでいても、彼の周りだけは穏やかな空気が流れているように感じられた。

まるで彼の周りだけ、やわらかな光が差しているかのように、彼がそこにいるだけで、世界の色が少しだけ鮮やかになるような、そんな感覚だった。

なぜ、あの時の拓海くんの行動が、私にとってこんなにも特別だったのか。

幼い私には、まだ言葉にすることはできなかった。

ただ、彼の存在が、私にとって、他の誰とも違う、何よりも大切な「一番星」になったことは、確かなことだった。

それは、朝の憂鬱を忘れさせてくれる、暗闇の中に、いつか私を導いてくれる、遠いけれど確かな光のように思えた。

卒園式の日、私は拓海くんの姿を目で追いながら、心の中でひっそりと願った。

「また、いつか、きっと会えますように。」

この坂道の下で出会った「君」は、私の人生の「始まりの物語」を告げる光となった。

そして、この場所での小さな出来事が、ママとの小さな喧嘩で塞ぎ込んでいた私の心を優しく照らし、私の、拓海くんへの、最初の、そして永遠に続く特別な気持ちの始まりだった。