はっとして私は顔を上げる。

 陽介は壁際に追い込まれ、聖歌が目の前で刺される瞬間を呆然と眺めていた。瞳孔が見開き、ガチガチと歯を鳴らしているのが分かる。

「日比野くん! 早く、こっちに!」

 美月が叫んでも、陽介は微動だにしない。ざくり、ざくりとハサミが聖歌を刻むうちに、聖歌の声は聞こえなくなっていた。

「聖歌……聖歌……っ!」

 名前を呼んでも聖歌は返事をしない。嫌だ。このままお別れだなんて嫌だ!
 私のせいで……こんなことに!

「ダメよ結月!」

 一心不乱に聖歌の方へ這いずる私の腕を、美月が掴む。

「だって……だって! 聖歌が!」

「冷静になって……お願いだから」

「でも!」

「っ……日比野くん、こっちに来て! 逃げるわよ!」

「陽介! おい!」

 二人がいくら呼びかけても陽介は何も言わないし、動かない。

「きゃはは! この子、しっかく!」

 聖歌に興味を無くしたらしい鬼は、ぐりんと陽介に目を向けた。
 茫然自失……そう言い表すしかない陽介は、鬼に見つめられても、全く動じていなくて。

「……僕、は」

 たどたどしく口を開いた陽介。飛翔が一瞬安堵したように、握っていた拳が緩まる。
 けれど──陽介は、徐に体を起こして、鬼が待つ聖歌の元へ、静かに手を添えた。

「──僕も、好きだよ。聖歌ちゃん」

 血溜まりに触れた、ぴちゃりという不快な水音。それに臆することなく、陽介はまるで愛おしいものを見るような眼差しを注ぎ、静かに彼女の頭を撫でた。

 ほんの一瞬、鬼がきょとんと首を傾げた。
 張り詰めた空気が弛緩する。見逃してくれるかも──そんな愚かな希望が沸き上がり、私の脳を侵食する。