ぎぃ、と金属音がして、屋上のドアが開いた。
渡部が先に足を踏み入れ、コメが一歩、後に続く。
空はうっすら春霞。体育館から聞こえていた合唱の音はもう止んでいた。
「……変わらないですね、ここ」
コメがぽつりと言う。
渡部は無言で、屋上のフェンス際に歩いていく。
かつて、二人で見た景色。
そのときは、まだ先生と生徒だった。
その距離を超えてはいけないと、ただ言葉を呑み込むしかなかった屋上。
そして今――。
渡部が、ポケットから何かを取り出す。
それは、さっき、渡部の机の上で見た例のキーホルダー。
「これ」
「……やっぱり。ずっと持っていてくれたんですね」
「うん。いつか導いてくれる気がして。」
コメは一歩、近づく。
「私も、ずっと持ってた。
意味なんてないと思ってたけど、でも……捨てられなかった」
渡部は笑う。どこか苦く、でも優しく。
「6年前、卒業式の日。俺が言ったこと、覚えてる?」
コメは、すぐに頷く。
「……“屋上、行くか”」
「そう。ほんとは、あの日ここで、全部話すつもりだった」
「でも、できなかった。教師として、それ以前に、大人として、踏み出すのが怖かった」
コメがうつむく。風がそっとポニーテールを揺らす。
「私は……あの日、屋上で、何があってもよかった。
それくらい、あなたが全てでした。」
「わかってたよ。でも、俺は……バカだった」
沈黙。
少しして、渡部が静かに言う。
「もう、生徒じゃない。教師として、同じ場所で、同じ時間を過ごしてきた」
「それでも、まだ間に合うと思ってる。……おれは、君のことを、まだ――」
「待ってました」
コメの声が、風に乗って渡部の言葉を遮った。
「きっと、ずっと前から、渡部先生がその言葉をくれるのを……ずっと、待ってました」
渡部がコメの肩に手を置く。
もう、躊躇はない。距離も、時間も、過去も。
今日この屋上で、全部終わらせて、全部始める。
渡部「…コメ」
コメ「……6年前に戻った気分」
渡部が、ふっと笑う。
「コメ。好きだよ」
「私も」
その瞬間、どこからか風が吹いた。
春の匂いを運んでくる、優しい風。
ひらり、ひらりと、桜の花びらが舞い込んできた。
コメの頬をかすめて、渡部の肩に落ちて、
そしてふたりの間を、すうっと通り抜けていく。
その時、春の風がふたりを包み込んだ。
桜の花びらが舞い、光がきらめくなか、
ふわりと、空間に浮かび上がった。
淡く光る、ピンクの矢印。
コメの胸から、まっすぐに渡部へ。
そして──渡部の胸からも、同じように、まっすぐにコメへ。
ふたつの矢印が、風のなかで、そっと交わった。
「……矢印、見えた」
コメが、静かに、でも確かに言う。
渡部は息をのんだまま、目を見開いていた。
「君の見ていた世界……俺にも、見えてる」
もう、言葉はいらなかった。
気持ちは、ここまでずっと、ちゃんと向き合っていた。
見えなかっただけ。
でも今、こうして、同じ方向を向いたふたつの矢印が──
光のなかで、重なった。
ふたりの間を通り抜けていく、やわらかな風。
桜の花びらが、もう一度、きらきらと舞い上がる。
2人は重なった矢印の光を見つめながら、そっと目を合わせた。
どこまでもあたたかく、優しい春の光が、
ふたりの影を並べて落としていた。
——あの日、踏み出せなかった一歩は、
今日、ようやく進むことができた。
ここから始まる。
6年と1年分の想いが、ようやく同じ方向を向いて。
・:*+..:+ ・:*+..:END ・:*+..:+ ・:*+..:+
渡部が先に足を踏み入れ、コメが一歩、後に続く。
空はうっすら春霞。体育館から聞こえていた合唱の音はもう止んでいた。
「……変わらないですね、ここ」
コメがぽつりと言う。
渡部は無言で、屋上のフェンス際に歩いていく。
かつて、二人で見た景色。
そのときは、まだ先生と生徒だった。
その距離を超えてはいけないと、ただ言葉を呑み込むしかなかった屋上。
そして今――。
渡部が、ポケットから何かを取り出す。
それは、さっき、渡部の机の上で見た例のキーホルダー。
「これ」
「……やっぱり。ずっと持っていてくれたんですね」
「うん。いつか導いてくれる気がして。」
コメは一歩、近づく。
「私も、ずっと持ってた。
意味なんてないと思ってたけど、でも……捨てられなかった」
渡部は笑う。どこか苦く、でも優しく。
「6年前、卒業式の日。俺が言ったこと、覚えてる?」
コメは、すぐに頷く。
「……“屋上、行くか”」
「そう。ほんとは、あの日ここで、全部話すつもりだった」
「でも、できなかった。教師として、それ以前に、大人として、踏み出すのが怖かった」
コメがうつむく。風がそっとポニーテールを揺らす。
「私は……あの日、屋上で、何があってもよかった。
それくらい、あなたが全てでした。」
「わかってたよ。でも、俺は……バカだった」
沈黙。
少しして、渡部が静かに言う。
「もう、生徒じゃない。教師として、同じ場所で、同じ時間を過ごしてきた」
「それでも、まだ間に合うと思ってる。……おれは、君のことを、まだ――」
「待ってました」
コメの声が、風に乗って渡部の言葉を遮った。
「きっと、ずっと前から、渡部先生がその言葉をくれるのを……ずっと、待ってました」
渡部がコメの肩に手を置く。
もう、躊躇はない。距離も、時間も、過去も。
今日この屋上で、全部終わらせて、全部始める。
渡部「…コメ」
コメ「……6年前に戻った気分」
渡部が、ふっと笑う。
「コメ。好きだよ」
「私も」
その瞬間、どこからか風が吹いた。
春の匂いを運んでくる、優しい風。
ひらり、ひらりと、桜の花びらが舞い込んできた。
コメの頬をかすめて、渡部の肩に落ちて、
そしてふたりの間を、すうっと通り抜けていく。
その時、春の風がふたりを包み込んだ。
桜の花びらが舞い、光がきらめくなか、
ふわりと、空間に浮かび上がった。
淡く光る、ピンクの矢印。
コメの胸から、まっすぐに渡部へ。
そして──渡部の胸からも、同じように、まっすぐにコメへ。
ふたつの矢印が、風のなかで、そっと交わった。
「……矢印、見えた」
コメが、静かに、でも確かに言う。
渡部は息をのんだまま、目を見開いていた。
「君の見ていた世界……俺にも、見えてる」
もう、言葉はいらなかった。
気持ちは、ここまでずっと、ちゃんと向き合っていた。
見えなかっただけ。
でも今、こうして、同じ方向を向いたふたつの矢印が──
光のなかで、重なった。
ふたりの間を通り抜けていく、やわらかな風。
桜の花びらが、もう一度、きらきらと舞い上がる。
2人は重なった矢印の光を見つめながら、そっと目を合わせた。
どこまでもあたたかく、優しい春の光が、
ふたりの影を並べて落としていた。
——あの日、踏み出せなかった一歩は、
今日、ようやく進むことができた。
ここから始まる。
6年と1年分の想いが、ようやく同じ方向を向いて。
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