――六年前。
渡部悠真は、職員室の自席に置かれた茶封筒を静かに見つめていた。
異動希望調査票。誰に強制されたわけでもない。でも、自分はもうここにいてはいけない気がしていた。
「……距離を置かなきゃな」
小さく呟いた言葉が、胸に重たく落ちた。
当時、渡部のクラスには、どこか特別な存在感を持つ生徒がいた。
真面目で、明るくて、人懐っこい。けれど、時折見せる鋭いまなざしが、何かを見透かすようで、はっとすることがあった。
――羽多野コメ。
生徒と教師。そこに一線を越えるものは何もなかった。
ただ、彼女が「まっすぐにこちらを信じてくる」その眼差しに、応える自信がなくなっていったのだ。
(このまま、この距離で、彼女の“先生”でいられるか?)
その問いの答えは、自分の中でははっきりしていた。
だから、異動した。
自分が教師として、彼女にとってただの「通りすぎた大人」になることを願って。
——でも、そんな思いとは裏腹に。
新しい土地で、生徒に向き合いながらも、時々ふとよぎる。
修学旅行のあのバスの中。
笑いながら話していた文化祭の準備の日。
アルバムに残された、教室の後ろでこちらを見上げていた、あのまっすぐな瞳。
(……いつか、また会うような気がしていた)
そして、六年が経った。
偶然だと思っていた着任の知らせは、受け入れの内示を見た瞬間に、確信に変わっていた。
(これは、選ばされたんじゃない。俺が、選びに戻ってきたんだ)
でも――
再会した彼女の隣には、誰かがいた。
新任の角谷先生。
彼女と同じ目線で、同じテンポで笑い合い、時に寄り添い、時にぶつかりながらも、確実に「今のコメ」を支えていた。
けれど、君と、また過ごす時間
(……あのときの気持ちは、俺だけじゃなかったのか)
心のどこかで、時間が止まっていた。
自分の中で、何も終わっていなかったことを、ようやく知った。
「コメ……今、君はどこを見てるんだ」
廊下の向こう。生徒に囲まれながら笑うコメの背中が、ゆっくりと遠ざかっていった。
渡部悠真は、職員室の自席に置かれた茶封筒を静かに見つめていた。
異動希望調査票。誰に強制されたわけでもない。でも、自分はもうここにいてはいけない気がしていた。
「……距離を置かなきゃな」
小さく呟いた言葉が、胸に重たく落ちた。
当時、渡部のクラスには、どこか特別な存在感を持つ生徒がいた。
真面目で、明るくて、人懐っこい。けれど、時折見せる鋭いまなざしが、何かを見透かすようで、はっとすることがあった。
――羽多野コメ。
生徒と教師。そこに一線を越えるものは何もなかった。
ただ、彼女が「まっすぐにこちらを信じてくる」その眼差しに、応える自信がなくなっていったのだ。
(このまま、この距離で、彼女の“先生”でいられるか?)
その問いの答えは、自分の中でははっきりしていた。
だから、異動した。
自分が教師として、彼女にとってただの「通りすぎた大人」になることを願って。
——でも、そんな思いとは裏腹に。
新しい土地で、生徒に向き合いながらも、時々ふとよぎる。
修学旅行のあのバスの中。
笑いながら話していた文化祭の準備の日。
アルバムに残された、教室の後ろでこちらを見上げていた、あのまっすぐな瞳。
(……いつか、また会うような気がしていた)
そして、六年が経った。
偶然だと思っていた着任の知らせは、受け入れの内示を見た瞬間に、確信に変わっていた。
(これは、選ばされたんじゃない。俺が、選びに戻ってきたんだ)
でも――
再会した彼女の隣には、誰かがいた。
新任の角谷先生。
彼女と同じ目線で、同じテンポで笑い合い、時に寄り添い、時にぶつかりながらも、確実に「今のコメ」を支えていた。
けれど、君と、また過ごす時間
(……あのときの気持ちは、俺だけじゃなかったのか)
心のどこかで、時間が止まっていた。
自分の中で、何も終わっていなかったことを、ようやく知った。
「コメ……今、君はどこを見てるんだ」
廊下の向こう。生徒に囲まれながら笑うコメの背中が、ゆっくりと遠ざかっていった。



