文化祭当日。
中庭からはライブバンドの音、廊下には装飾の余韻、体育館では吹奏楽部の準備が始まっている。
コメは、理科室の前にいた。
「……よし、忘れ物なし」
理科室の出し物は「錯覚体験ゾーン」。
角谷先生と生徒たちが遅くまで準備してきた。
コメはお手伝いという名目で参加していたけれど、角谷と一緒に並んでいると、“彼女”としての視線もちらほら感じる。
角谷が来た。
白衣ではなく、出し物用のTシャツを着て、相変わらずほんわかした笑顔。
「コメ先生、開場、手伝ってくれる?」
「もちろんです。あ、角谷先生、それ、名札つける位置ちょっとずれてます」
「あ、ほんとだ。さすが、観察眼」
そうやって笑い合えるのに──
なぜだろう、胸の奥が少しだけ冷えていた。
⸻
理科室は盛況だった。
錯覚パネルや、脳トリックの展示に生徒も保護者も歓声を上げている。
その中で、ふと視線を感じて振り向くと──
扉の向こうに、渡部の姿があった。
生徒に案内されるでもなく、静かに立っていた。
視線が合った瞬間、コメの鼓動が一瞬だけ跳ねた。
「渡部先生、どうぞー! 錯覚パネル、面白いですよ!」
角谷がにこやかに声をかける。
渡部はほんの少しだけ笑って頷くと、無言で展示に目を向けた。
コメはその様子を、離れた場所からそっと見ていた。
渡部が「トリックアートの壁」をじっと眺める。
──まっすぐ、でも、決して近づこうとはしない。
その立ち方が、なんだか、
矢印みたいだと思った。
誰かに向かって、ただ静かに、けれど鋭く伸びている。
(やめて)
コメは、無意識にそう思っていた。
(まっすぐに向けられると、痛いから)
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午後。
生徒たちに交じって、コメもカップ焼きそばをつつきながら、中庭のベンチに座っていた。
すると、隣にストンと角谷が腰を下ろす。
「おつかれさま。今日、楽しかったね」
「うん、ですね……あ、粉ソースこぼれてますよ、先生」
「あ、ありがと……」
彼の笑顔を見ながら、コメは自分の気持ちがうまく結べないまま黙った。
その沈黙の中、角谷が言った。
「今日、渡部先生の目、ずっと君を追ってたよ」
「……え?」
「なんとなく、わかった。あれは……ただの“同僚を見る目”じゃないよ」
コメは何も言えなかった。
「でも、たぶん、君は──」
角谷はそれ以上、何も言わなかった。
沈んでいく午後の日差しが、二人の影を長く伸ばしていた。
そしてその先。
ほんの少し離れた場所に、
白いシャツの背中が、こちらに背を向けて歩き出していた。
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近づかないまま、
けれど確かに、心に刺さる距離感。
それが、いちばん苦しかった。



